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「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」の脚本家である山田太一が編集した『生きるかなしみ』というタイトルの本がある。http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480842183/ [[attached(1,right)]] 「生きるかなしみ」とは、本を読んだ私の解釈では、「このようであらざるをえない自分のありようと身近な他者のありようを受け入れざるを得ないこと」であり、短く言うと「断念」である。編者の山田太一はこの「断念」を肯定的にとらえており、「可能性」に満ちているかのようにみせかける今日の日本社会は、「可能性の断念」を欠いているからこそ、落ち着かない社会なのだという。「やればできる」「できないのはお前の努力が不足しているからだ」というのは確かに、人生の真実ではない。努力してもできないことがあり、努力してできることなど、むしろわずかな事柄である。断念とやりきれなさをせめて「かなしみ」として淡々と受け入れないことには、「生きぬく」こともまたできないのにちがいない。 五木寛之と大塚初重の対談集『弱き者の生き方』も、「断念」を肯定的にとらえようとしている。「あきらめる、とは明らかに究めることです」と語る五木寛之はまた、「今はやりのプラス思考とは、単なる楽天にすぎず、本物のプラス思考とは、究極のマイナス思考のことです」という。究極のマイナス思考は、楽天にしかすぎない「希望」をしりぞけ、現実と自己を精査した挙句、「それはムリだ」という断念に達する。http://item.rakuten.co.jp/book/4404782/ 山田太一と五木寛之の人生のとらえ方は、時代の主流ではない(だろう)。しかし私は、久しぶりにしっくりする言葉に出会えたと感じた。「かなしみとやりきれなさ」を欠いた人間肯定を私は信用せず、強い違和感を覚える。「みんなちがってみんないい」という詩なんかが「共感」を呼んだりしているけれど、「みんなちがう」こと、私が私のようなあり方で存在していること、親兄弟や友人が彼、彼女のようなあり方で存在していることをほんとうに「みんないい」と明るく笑顔で肯定できるのか。子供を虐待する親や養育すら放棄した親がいることを「みんなちがってみんないい」と本気で言えるのか。一方、山田太一が編集したエッセイの著者たちは、たとえばシベリアで捕虜収容所に入れられ、心をかよわす故国すら存在しなくなってしまった石原吉郎であり、朝鮮人の貧しい父親が首吊り自殺をしようとし、息子が12歳で自殺してしまった高史明である。在日一世である高史明の父親と二世である高史明の間には断絶がある。理解しあえなかった父親と自分のありようの「どちらも仕方のないもの」と、大人になった高史明は振り返るのである。この肯定は「あきらめ」、自分と他人のありようを成り立たしめているものへの明らかな認識から生じている。自分と他者双方へのゆるしではあるが、せつなさと共にあるゆるしである。 「みんなちがってみんないい」とは私はいえない。たとえば私にこういう「癖」のあることは厭わしく、いつも同じ失敗を繰り返してばかりの自分の進歩のなさが情けなくて嘆かわしい。友人のアイツがいつもあんなふうであるのは、本当に困ったものだと苦々しく思っている。友人の場合は本当に危機的で、「君は今の君のままでいいんだよ」なんて言ったら、借金まみれになるだろうし、あるいはこんなふうに評されることを「自分を侮辱した」と激怒するかもしれない。そんな友人を私はかなしく、やりきれない思いで眺めている。 私の好きな画家の描く絵画も、かなしみを湛えている。ブログの画像にしているルオーの絵、そしてユトリロの風景画。ユトリロは少年時代からすでにアル中で、「モンマルトルのいわゆる『ごろつき』のように酒臭い息をはきながら往来を徘徊し、道行く人にからみ、とりわけ身重の女には病的な憎悪をもよおしてこれを追い回し、あげくの果て、乱暴狼藉におよんでは、拘置所の冷たい壁を見つめながら一夜を明かさなければならなかった」「酒場に行けば彼に会えることは確かだった。カウンターのそばに立っているか、あるいはもう酔いがまわってしまって、ドアの外のどぶの中に寝て、ときどき"畜生"とどなっている。わたしはサン・ヴァンサン街で彼が酒の空き瓶を抱きしめ、愛情をこめて愛撫し、ついで突然それを打ち砕くのを見て、胸がしめつけられる思いをした。彼はどこへ行っても鼻つまみ者だった。人々は不まじめにも彼を追い払った。そしてもう歩けなくなるまで彼をなぐって追いやる。彼は倒れ、うめき、そして泣いた。」 [[attached(2,left)]]
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ユトリロの絵にはどれも、人物は描かれていない。酒臭い息を吐きながら、彼はモンマルトルの建物、とくに教会を描き続けた。ユトリロの絵には「神」への癒しがたい渇望である祈りが感じられる。しかしそれでもなお、ユトリロについて次のように語るユトリロの同級生と解説者を「いい気なものだ」と思うことも事実なのである。彼は常に犠牲の子羊であった。誰もが、彼の母も、その愛人も、彼に石を投げる子供たちも、警官も、誰もが彼をなぐりつけた。彼ほど人からなぐられた芸術家は他にはいなかった モンマルトルとは元来「mons martyrum」、つまり「殉教者の丘」を意味すると言われるが、ユトリロはそのことを知っていただろうか。 ユトリロの中の「欠落した部分」こそ、「聖なる部分」「尊厳」そのものであったのかもしれないが、それは「心の闇」こそが祈りと「聖なるもの」へと通じているという意味においてであり、「心の闇」自体は、やはり近親者や配偶者や友人にとって、はた迷惑で破壊的なものであるにはちがいないのだ。自己の中のこの闇、他者の中のこの闇が織りなす人生は、どうしたってかなしく、やりきれない。
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