本箱の記録

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思いつくまま本の話題です。本の連想ゲーム。
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生きるかなしみ

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/d9/f2/starstory60/folder/801413/img_801413_34496872_5?20070723144715

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「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」の脚本家である山田太一が編集した『生きるかなしみ』というタイトルの本がある。http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480842183/

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「生きるかなしみ」とは、本を読んだ私の解釈では、「このようであらざるをえない自分のありようと身近な他者のありようを受け入れざるを得ないこと」であり、短く言うと「断念」である。編者の山田太一はこの「断念」を肯定的にとらえており、「可能性」に満ちているかのようにみせかける今日の日本社会は、「可能性の断念」を欠いているからこそ、落ち着かない社会なのだという。「やればできる」「できないのはお前の努力が不足しているからだ」というのは確かに、人生の真実ではない。努力してもできないことがあり、努力してできることなど、むしろわずかな事柄である。断念とやりきれなさをせめて「かなしみ」として淡々と受け入れないことには、「生きぬく」こともまたできないのにちがいない。


五木寛之と大塚初重の対談集『弱き者の生き方』も、「断念」を肯定的にとらえようとしている。「あきらめる、とは明らかに究めることです」と語る五木寛之はまた、「今はやりのプラス思考とは、単なる楽天にすぎず、本物のプラス思考とは、究極のマイナス思考のことです」という。究極のマイナス思考は、楽天にしかすぎない「希望」をしりぞけ、現実と自己を精査した挙句、「それはムリだ」という断念に達する。http://item.rakuten.co.jp/book/4404782/


山田太一と五木寛之の人生のとらえ方は、時代の主流ではない(だろう)。しかし私は、久しぶりにしっくりする言葉に出会えたと感じた。「かなしみとやりきれなさ」を欠いた人間肯定を私は信用せず、強い違和感を覚える。「みんなちがってみんないい」という詩なんかが「共感」を呼んだりしているけれど、「みんなちがう」こと、私が私のようなあり方で存在していること、親兄弟や友人が彼、彼女のようなあり方で存在していることをほんとうに「みんないい」と明るく笑顔で肯定できるのか。子供を虐待する親や養育すら放棄した親がいることを「みんなちがってみんないい」と本気で言えるのか。一方、山田太一が編集したエッセイの著者たちは、たとえばシベリアで捕虜収容所に入れられ、心をかよわす故国すら存在しなくなってしまった石原吉郎であり、朝鮮人の貧しい父親が首吊り自殺をしようとし、息子が12歳で自殺してしまった高史明である。在日一世である高史明の父親と二世である高史明の間には断絶がある。理解しあえなかった父親と自分のありようの「どちらも仕方のないもの」と、大人になった高史明は振り返るのである。この肯定は「あきらめ」、自分と他人のありようを成り立たしめているものへの明らかな認識から生じている。自分と他者双方へのゆるしではあるが、せつなさと共にあるゆるしである。


「みんなちがってみんないい」とは私はいえない。たとえば私にこういう「癖」のあることは厭わしく、いつも同じ失敗を繰り返してばかりの自分の進歩のなさが情けなくて嘆かわしい。友人のアイツがいつもあんなふうであるのは、本当に困ったものだと苦々しく思っている。友人の場合は本当に危機的で、「君は今の君のままでいいんだよ」なんて言ったら、借金まみれになるだろうし、あるいはこんなふうに評されることを「自分を侮辱した」と激怒するかもしれない。そんな友人を私はかなしく、やりきれない思いで眺めている。



私の好きな画家の描く絵画も、かなしみを湛えている。ブログの画像にしているルオーの絵、そしてユトリロの風景画。ユトリロは少年時代からすでにアル中で、「モンマルトルのいわゆる『ごろつき』のように酒臭い息をはきながら往来を徘徊し、道行く人にからみ、とりわけ身重の女には病的な憎悪をもよおしてこれを追い回し、あげくの果て、乱暴狼藉におよんでは、拘置所の冷たい壁を見つめながら一夜を明かさなければならなかった」「酒場に行けば彼に会えることは確かだった。カウンターのそばに立っているか、あるいはもう酔いがまわってしまって、ドアの外のどぶの中に寝て、ときどき"畜生"とどなっている。わたしはサン・ヴァンサン街で彼が酒の空き瓶を抱きしめ、愛情をこめて愛撫し、ついで突然それを打ち砕くのを見て、胸がしめつけられる思いをした。彼はどこへ行っても鼻つまみ者だった。人々は不まじめにも彼を追い払った。そしてもう歩けなくなるまで彼をなぐって追いやる。彼は倒れ、うめき、そして泣いた。」
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ユトリロの絵にはどれも、人物は描かれていない。酒臭い息を吐きながら、彼はモンマルトルの建物、とくに教会を描き続けた。ユトリロの絵には「神」への癒しがたい渇望である祈りが感じられる。しかしそれでもなお、ユトリロについて次のように語るユトリロの同級生と解説者を「いい気なものだ」と思うことも事実なのである。
彼は常に犠牲の子羊であった。誰もが、彼の母も、その愛人も、彼に石を投げる子供たちも、警官も、誰もが彼をなぐりつけた。彼ほど人からなぐられた芸術家は他にはいなかった
モンマルトルとは元来「mons martyrum」、つまり「殉教者の丘」を意味すると言われるが、ユトリロはそのことを知っていただろうか。

ユトリロの中の「欠落した部分」こそ、「聖なる部分」「尊厳」そのものであったのかもしれないが、それは「心の闇」こそが祈りと「聖なるもの」へと通じているという意味においてであり、「心の闇」自体は、やはり近親者や配偶者や友人にとって、はた迷惑で破壊的なものであるにはちがいないのだ。自己の中のこの闇、他者の中のこの闇が織りなす人生は、どうしたってかなしく、やりきれない。

転載元転載元: キリスト者として今を生きる

2004年Invention Indexでは、「最も憎悪しながらも、それ無しでは生きられない発明品は何か?」という質問がなげかけられ、その回答結果は携帯電話、30%、目覚まし時計、25%、テレビ、23%、電気カミソリ、14%であったそうです(「他諺の空似」、米原万里から)。

本日午後、親しくしている企業のセミナーに参加してきました。土曜日で、この企業のオフィスのあるビルはシャッターがおりています。非常用の入り口には電子錠がかけれらていて、中からあけてもらえないとはいれません。

入り口には「セミナー参加の方はこの電話番号にお電話をお願いします。係の者がご案内いたします。」と掲示がでています。

どうしよう、はいれない。公衆電話機はどこにもありません。そう、携帯電話機をもっているのはあたりまえ。携帯電話機をとりだして、もしもしとみなさんやるんだなと。僕はもっていません。それから必死で周囲をさがすことになりました。あるきはじめたら、電話番号をかきとめていないことにきずき、あわててもどり、掲示から電話番号をメモして、ふたたびあるきはじめます。公衆電話がない。もうかえろうかとおもいました。すでにセミナーは開始の時間です。見つけました、電話ボックス。そこから電話をしましたら、「今、おりていきますので、しばらくおまちください。」とのこと。オフィスは4階にあります。担当の方がエレベータでおりるのがはやいか、僕が電話ボックスから入り口にたどりつくのがはやいか。近頃の運動不足をのろいつつ、はしります。まにあいました。よく知っている方が「おこしいただきありがとうございます。」とご挨拶。今日はさむい日でしたが、汗だくでした。

携帯電話機、買おうかなと、今日はおもいました。

姜尚中「愛国の作法」からの抜粋です。

『現に日本国憲法の「国家」とは、「憲法の定める統治の基本秩序」を指しているのであって、それ以前の裸の美しい国土とか文化、伝統ではないのです。
(中略)
近代的な意味で立憲主義に基づく国とは、歴史や伝統や文化ではなく、人々の意志的な結合によって成り立つ「国民」(デーモスとしてのネーション)国家(人工国家)のはずです。この意味で、国家は「公共社会」を主体的に担う国民の不断の作為的な営為によって成り立っているのです。』

この記述のさきだって、

『感性的な存在としての「エトノス」をベースとする「民族」国家の原理と、「デーモス」をベースとすに作為的な擬制(社会契約論)を通じて成立する「国民」国家の原理が区別されないまま、たえず前者に引っ張られる形のネーションの理解が「正常」だと思われていることです。』

とかかれています。この「エトノス」と「デーモス」の峻別が今の世の中の言説を理解するキーワードであると、たしかにそうおもえるのです。

「他諺の空似」から

「他諺(たげん)の空似(米原万理、光文社)」の「蛇の道は蛇」から、おもしろくて、かなしい一部をご紹介です。

「20代の妻が30代の夫に望むことは何か。」からはじまり、「70代の妻が・・」でおわります。途中の40代と最後の70代をあげておきます。

「40代の妻が50代の夫に望むことは何か。
1.醜くはない容貌と一応毛が残っている頭
2.妻の身体がちゃんと車に納まってからでないと、車を発進させないこと
3.安定的に仕事をして定収入があり、散財するにしても時々ちょつと豪華な外食をとる程度であること
4.妻が話しているときに、一応首を振ること
5.妻が言う冗談の趣旨を理解できること
6.肉体的に健康で、家具を動かしたり、電球を取り替えたりするときに役に立つこと
7.腹の出っ張りが目立たないようにワイシャツと背広を着ること
8.用を足す前にトイレの便座を上げ、済んだら下ろすことを忘れないこと
9.せめて三日に一度はヒゲを剃ること

70代の妻が80代の夫に望むことは何か。
1.息をしていること
2.健康であること、せめて糞尿をこぼざすに便器に命中できるほどの筋力と精神力を維持していること」

うーん、どこかあたっているのでしょう。70代はこれだけがのぞまれることですか?

朝日新聞、鶴見氏と姜氏の対談の中で姜氏は「政治が国家のたがをはめられて身動きできない」とのべていた。このことばが気になっている。1943年、ダグラス・マッカーサー、フィリピン奪還をめざして移動中に次のような報告(一部のみ引用)を本国へかきおくっている。

「日本の軍人階級は国家をがんじがらめにしばりつけておきながら、いまやその国家の期待を裏切っている。彼らは全面戦争のため日本の資源を組織的に活用するだけの想像力も情勢判断の能力をもっていない。いま日本は敗北に直面している。日本のもつ武人の掟は幾世紀にもわたって日本人の性格と文化を支配してきたが、日本人の基本的な性癖からは不思議にかけ離れた一種の国家的な野蛮行為を生み出している。(「魂の民主主義」星川淳、築地書館)」

星川氏は、マッカーサーが「日本国民と軍部とを区別して、後者のあやまりを正す能力に希望を託しながら、その戦後の繁栄まで見通していた。」とかきしるしている。気になるのは「日本の軍人階級は国家をがんじがらめにしばりつけておきながら、いまやその国家の期待を裏切っている。」である。姜氏の表現とは似て非なるものなのか、パラレルなものなのか、あるいは連続するものなのかをかんがえている。

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