中国語通訳の手帖

寵辱不驚、閑看庭前花開花落; 去留無意、漫随天外雲巻雲舒

思い出電影院

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 今年も6月4日がやってきました。あの事件は今やほとんど海外メディアの年に一度取り上げるだけの年中行事になりつつある中、先日、映画『亡命』を見てきました。
 
 二度にわたる(実は89年の学生運動ほどの反響はありませんでしたが、1978年から1979年にかけて、中国では「北京の春」という民主化運動が巻き起こっていたらしい)中国の民主化運動事件をきっかけに西側諸国への亡命を余儀なくされた知識人たちの今を追いながら、歴史を振り返るというシンプルな内容でした。情報封鎖や言論統制を強いられた中、時の人たちはそれでも、表現の自由とは何か、人間の尊厳とは何かを考え続け、求め続けていました。
 
 生まれ育った土地を遠く離れた後、皮肉にも身の安全と精神的自由が保証されるようになった今、彼らは心の安らぎを得たのか、満たされているのか。スクリーンに映し出された彼らの穏やかな表情には、私はそれでも社会的欲求が満たされないゆえの苦悩が少なからずあるように思えました。表現の自由を手にした引き換えに、情報閉鎖によって読者そのものを剥奪された怒りと悲しみを、作家の鄭義氏は淡々とした口調で語っていました。
 
 国を奪われ、その存在すら抹消されようとしている人達がいる、このことを、この国の若者たちはどう捉えているのでしょうか。

 アメリカでの亡命中に他界した劉賓雁氏を思い出さずにいられません。長年、「人民日報」に籍を置きながら、良識あるジャーナリストとして、冷静な眼差しで中国社会を見つめ、批判し、次々と大きな反響を呼ぶ作品を発表していました。もし彼がこの映画に出演していたら、何を述べていたのでしょう。
 
 「政権と結びついた愛国主義は精神の拘束でしかない」、「文学は政治性から離れ、人間の本質を追究すべき」というノーベル賞受賞作家高行健氏の言葉が心に沁みました。国境なんてしょせん人間のエゴに過ぎません。愛国主義はそんなエゴを拠り所に、狭隘な集団主義を煽ったり、排他主義を認めたりする大義名分ではないと誰が言い切れるのでしょうか。
 
 形は違えど、社会の矛盾が未だに解消されず、中国では、民族紛争が再び勃発しました。精神的自由を得た今、もし中国にいたら、自分はこの衝突をどういうふうに受け止めているんだろうとそんなことをつらつらと考えてみました。


 旧暦大晦日の日、ブログ友達のxingさん、ばつきちさんのお誘いを受け、御茶ノ水にある全電通ホールにて映画を観ました。

 ばつきちさんの記事はこちら。http://blogs.yahoo.co.jp/batukiti/46991060.html
 
 ドキュメンタリー映画『ガイサンシーとその姉妹たち』 班忠義監督(ジャーナリスト、元留学生、日本在住19年)

 中国遼寧省出身の監督は中国残留婦人問題に地道に取り組んでいたことは、多少関心のある人なら知っているかもしれません。

 今度は監督はさらに旧日本軍による性暴力問題に目を向けました。未だ車道らしい道すらない寂れた山村のヤオドン(中国西北地域にある洞穴式住宅)に暮らす女性たち、かつての日本軍による想像を絶する蹂躙を堪えながらも今日まで生き残った人、そして病気と貧困、偏見と差別に堪えかねてついに自ら命を絶った人、何人もの女性を、班監督は実に辛抱強く追跡調査し、丹念に検証を重ね、そのうえ被害女性たちのみならず、加害者立場の旧日本兵士を探し出し、双方への聞き取り調査を実現しました。
 
 山西省奥地をはじめ、日本各地を含めての、10年という長きにわたる取材活動の集大成がこの映画という大きな実となりました。

 こうした監督の熱意と根気と正義を貫こうとする心意気に心より敬意を表したい。

 戦争を知らない世代に生まれたことはどんなに幸せなことだったか、この映画を見てしみじみと思いました。

 しかし人倫に悖るような暴行を受け、我々の想像を絶する苦しみを強いられた女性達は世間にほとんど知られることなく、今もなお苦しみ続けていることは決して看過することの出来ない問題だと、この映画に気づかされました。今一度人間という生き物を見つめなおす、戦争という愚行を考え直す機会を、この映画は与えてくれました。

 どんな歴史教科書よりも、映画の生々しい事実が雄弁に語ってくれました。

 私は映画を見ながら大変不思議に思い、そしてある種の気味悪さすら覚えたシーンがありました。それは暴行を受けた女性達のことを、証言者の男達はなぜか笑いながら語っていました。被害者と同じ村に住む村民たちも、加害者である旧日本兵の一部も。あの笑みはいったい何を意味するものか、なんとも言えない空恐ろしいものを覚えました。

 謝罪の弁を述べる元兵士近藤一氏の回想を除き、もっとも監督はこの映画には刺激的な言葉はほとんど使っていない。証言を引き出すために煽るようなことも一切しない。むしろ元日本兵の証言者たちにもあくまで謙虚で丁寧に対応していました。ただ淡々と証言者たちの言葉を留めることに終始した監督の東北人らしい実直で誠実な人柄にも大変好感が持てました。

 エンターテーメントでもない、旬の韓流や華流でもない、およそめでたい春節に似つかわしくもない重いテーマを取り上げた映画なのに、それでも会場は観客でほぼ満席でした。

 上映後、記念シンポジウムが開催されました。ゲストは監督の班氏、元日本兵の近藤一氏、映像ジャーナリストの熊谷博子氏。取材の経過を中心に、ゲストの三人は自らの体験を交えて紹介してくれました。

 日本は二度と戦争をしてはいけません。愚かなことを繰り返されてはいけません。戦争を経験した我々がそれを語り続けなくてはいけません、と訴える近藤一さん。88歳という高齢で、今でも講演のために全国行脚をしているらしい。

 会場には、すすり泣きする人、懸命にメモを取る人、話を夢中に聞き入る人、ビデオ撮影をするのに、1時間もビデオカメラを両手で構え続ける人、そして金髪の外国人の姿も見られました。

 辛いものでもそれを噛みしめなければ、未来は開かれません。班監督はこの言葉で1時間のシンポジウムを結びました。彼の心のメッセージだったに違いない。

 会場を後にした時はもうすっかり日が暮れ、いつの間にか小雨が降り始めていました。

 取り出すのが面倒で、傘を差さずに駅前のタクシー乗り場に立っていたら、後ろからそっと傘を差し出してくれる人がいました。優しそうに微笑む初老のご夫婦でした。

 小さな感動を噛みしめながら、人間は実に不思議な生き物だと、しみじみ思いました。


 
 
 

   
某年某月的某一天,就像一張破砕的臉;
    難以開口道再見,就譲一切走遠。
    這不是件容易的事,我們却都没有哭泣。
    譲它淡々地来,
      譲它好々地去。
    到如今年復一年,我不能停止懐念,
      懐念你、懐念従前。
    但願那海風再起,
      只為那浪花的手
        恰似你的温柔。
             −−蔡琴・『恰似你的温柔』



 ある日何気なくテレビのスイッチを入れたら、まるで鬱蒼とした森に迷い込んだような錯覚を起こしてしまった。緑色に染まった空気が朝の柔らな陽射しに溶け合って、ひんやりした白い粒子たちが古木の間をゆらゆらと舞い上がっている。

 そんな心のシャワーを浴びたくて、私は時々蔡琴の歌を聴く。

 蔡琴を知ったのはまだほんの4、5年前のことだった。しかし最初からすっかりとりこになってしまった。

 歌という歌はビロードのような華麗で気品に溢れるものである。慎み深いながらも温もりのある声で、彼女は時には切々と、時には淡々と語りかけるように歌う。言葉の一つ一つが真珠の一粒一粒のように、静謐な光を放ちながら、彼女の口から、目から、全身から紡ぎ出されていく。

 悲しみも喜びも愛のありとあらゆる形はここでは熟成したワインのように、ただただ透明のグラスに静かに湛えられている。

 人間の声を色彩で表現できるとすれば彼女のそれは紛れもなくワインレッドだと、私は思う。それは長い歳月をかけて、大人の色気を醸し出したしっとりと、深みのある色に違いない。

 実際、彼女はそのたぐいまれな歌唱力で戦前からの古い歌の数々を見事に蘇らせている。

 円熟味をたたえた声からは深い愛情と人間的包容力が窺えるものだ。

 温かみとクールさを併せ持つ彼女の歌は実に月夜に似合う。
 白いカーテンの向こうから、レースの花模様を編み出しながら、月光は濃い灰色、淡い灰色、青白い色の影を作って、ゆったりと流れている。そんな月のひんやりした輝きを浴びて、蔡琴の語り掛けにただ一人で耳を傾ける。程よいバランスで溶け合った歌と光と空気に包み込まれたひと時、たまにはこんな優雅な時間がほしい。

 テレサテンの甘美な歌もよい。男をしびれさせるあの魔法の声に、女だって心を動かされる。
 一方、けっして男に媚びない蔡琴にも心惹かれてしまう。たとえひたすら帰らぬ恋人を待ち続ける切なさを歌っていても、そこからでも必ず女性の自立と自尊を強く意識させてくれる凛としたものを、彼女はいつも持っている。

 惹かれて近寄っても必ず一歩手前のところで立ち止まらざるをえない。そこには透明の膜が出来ているからなのだ。美しいものは目で楽しむことが出来てもけっして触れることは出来ない。そうした距離感が一層彼女の魅力を引き立てている。

 お薦めの歌に『情人的眼涙』、『今宵多珍重』、『月光小夜曲』、『庭院深々』、『不了情』、『明月千里寄相思』『緑島小夜曲』などが挙げられます。

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 ここ数年でチャンイーモウは芸風が一変した。派手やかな色使いとセンセーショナルなパフォーマンスをすっかりやめて、ドキュメンタリー風の映画作りに転向した。おかげで『初恋の来た道』や『あの子を探して』を楽しむことが出来た。

 『至福の時』はそのうちの一本だった。笑いを狙うためか東北方言をふんだんに取り入れたこの映画は工場で働く工員や定年退職した元同僚たちと継母に見捨てられた盲目の少女との間に繰り広げられた笑いあり涙ありのヒューマンドラマ。

 しかしこの映画は最後まで何も解決していない。むしろ観方によっては、悲劇。熱心に少女の面倒を見ていた主人公の老趙は交通事故で死に、少女小呉は家出して行方不明。まさに悲劇そのものだった。チャンイーモウの目的はおそらく少女を取り巻く人々の温かみを描くことただそれだけで、この映画では解決など考えてなかったようなのだ。けっしてわるい映画ではなかったけれど、なぜか手軽感があって、『あの子を探して』と較べると、どうも感動が浅くて、安っぽい気がした。

 そりゃ、確かな腕と技をもつ大物監督ですから、そこら辺の映画よりずっと出来映えがいいと思う。しかし狙いが見え見えだし、性急に効果を求めたせいか、かえって手抜きの感が拭いきれず、白けてしまう。 前に見た『生きる』もそうだったけれど、波乱万丈の時代を生き抜いた親子三代幸せそうに食事をとるシーンで中途半端に終わっていた。原作では、妻も婿も孫も皆死んで、最後に年老いた主人公と老牛だけ連れ添って、村のはずれで(たしか)夕日を見る場面のはずだった。まぁ、別に皆死ねばいいってわけではないけれど、時代の荒波に揉まれて、家族と死別をしたストーリーがあるうえで、はじめて『生きる』というタイトルの重みが出るものである。この映画の描きかただと、そこまで考えさせてくれない。作品を腰から切り捨てられたようで、これでは原作者は不満に思うのではないかと思わず余計な心配をしてしまった。

 でも『至福の時』を見て、ひとつ面白い発見をした。『初恋のきた道』を見直したら、息子役は『至福の時』にも幸福旅館を利用するアベック役として出演していた。『初恋のきた道』は何度も見たのに、息子の顔はぜんぜん印象に残らなかった。その後見たCCTVのドラマに、汚れ役だったけれど、なかなか演技のうまい人が印象深かったので、声も顔もしっかり覚えてしまったら、『至福の時』にも、『初恋のきた道』にも出ていた。ま、両方ともパッとしない配役だったけれど、実力を十分持っている人で、主役を張ればきっと光るのではないかしら。私はとにかく魅力的に思いました。

 
 これほど酔いしれる映画はそう多くはない。
 俳優にさほど明るくない私は『花様年華』で梁朝偉と張曼玉を初めて見た。噂通り感心するほど出色の二人だ。これを見るまで香港スターと言えばジャッキー・チェーンと周潤発以外は殆んど思いつく名前がなかった(レオンカーファイは私にとって別格)が、オールバックのなかなか似合う梁朝偉の魅力に傾倒させられる一本となった。張曼玉はもっと若い人かと思っていたら、女性の色香を惜しみなく放つ大人。なんと言ってもチャイナドレスが似合う!水色の地に赤の大輪の薔薇、麻か木綿か柔らかな生地のドレス、ぴったりでした。

 さすがウォンカーウァイ、噂通りの凄腕、演出は見事だ。古いアパートに暮らす若い夫婦二組、ひょんなきっかけで繰り広げられたW不倫の実らぬ恋。いとも簡単な話で、渡辺淳一なんかに書かせたら、もっとドロドロした、生くさいものになったに違いない。しかしここでウォンカーウァイの手にかかると、なぜか清澄で神聖でかつ丁寧なものに変わり、見る者の心を強く打つ。

 とにかく演出はすごい!シーンの一つ一つすべてが立派な絵になる。モンタージュ手法をふんだんに使い、雰囲気を見事に盛り上げている。音楽もいい!最初は気がつかなかったが、バックに流れていた京劇の歌やBGMなどの計算も心憎い。

 小道具の使い方はこれまたうまい。スリッパの一つにしても強いメッセージが込められている。最後の場面、数年後に、トニーは思い出のアパートにマギーを訪ねるも二人はすれ違う。トニーが新しい大家さんに、ここに○太太という人はいないよと言われ、がっかりする。一方、アパートから、マギーは子供の手を引いて出勤していく。その時、クローズアップで指輪がはずされていた薬指が一瞬映った。せつなくて、胸にぐっと来た。

 
 『初恋の来た道』のように、自分を重ねて見る感じではなく、二人の揺れる恋の行方を見守って行くような冷静さを保ちつつも、ぐいぐいと引き込まれていく。ときめきも束の間で、お互い惹かれながらも結ばれずにすれ違う二人に、終わってみれば、こちらがせつなくて胸がキュントとなる。ほんのり苦い大人の恋は『初恋の来た道』と一味もふた味も違う。

 『初恋の来た道』は水彩画のような清楚さと明るさがあるのに対し、これは油絵のような丁重さ、レトロ写真のようなロマンチックなものを感じる。
 『初恋の来た道』をレモンスカッシュに喩えると、これは赤ワインになるのかしら。
 
 香港映画を見直しました。

 私の映画の見方は、非常に感覚的なようです。
 筋を立てて、理屈をつめながら見るのではない。論理的に頭で納得するのではなく、目と耳の感覚だけで楽しんでいるような気がする。
 最後のアンコールワットに一人で古木の節穴に向かって佇むトニーを、えぇ?どういうこと?と訝しみながらも、それはそれで一向に構わない。(最近になって小白さんのブログを拝読してアンコールワットの謎がようやく解けた。小白さん、どうもありがとう!)

 非科学的な映画の見方かもしれない。

 例えば、絵画を観賞するときに、まず感官が働いて、自分の好みに合うかどうかを直感的に判断し、そこからよい絵かどうかという極めて自分勝手な評価を下す。ここまでは感覚に頼る部分が大きい。それから、この絵は何について描かれているのか、背景は?意図は?といったものを理性的に考え始めるのは一般的かもしれないが、私の場合はこの過程の前半でどうも終っているようだ。或いは前半を思う存分楽しむ余り、理性的に見る部分を省いてしまっている。
 
 でも所詮映画。フィクションである。筋を通すのはそもそも難しいことではないだろうか。
 「不求甚解」はいつものクセだけれど、楽しければそれでいい。

 しかしこんな寛容的な映画の観方をする私でも我慢にならなかったのは金城武出演のウォンカーウァイ映画、名前も忘れてしまった。「恋する惑星」でしたっけ。惑星、ふ〜む、飲み込みの悪い私にとって宇宙人のストーリーだった。

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