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文化庁の15日発表された「国語に関する世論調査」では形容詞の語幹を使った言い方について、大半が「気にならない」と回答していることが分かりました。
言葉に関して、私は保守派に徹していますが、しかし、今回の「寒っ」、「短っ」、「レベル高っ」「はやっ」に特に抵抗はありません。自ら使おうとは思いませんが、若者が好んで使う場面を考えれば、寒いとか、短いとか、レベル高いとか、はやいとかいう正しい表現よりは、語幹だけの簡潔さが、口をついて出る驚きをぴったり表現していて、面白い。そして語感も興味深いものですね。
お説教を煙たがる子供がいれば、大人に向かって不満をぶちまけることもあるでしょう。
「うるさい!」
そして、傍らで見ていたもう一人は、涼しい顔してちょっとした感想を述べるかもしれません。
「うるさっ」と。
立場の違いで言葉の切実感に温度差が現れる、ちょっとそんな場面を想像しました。
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発音が似ているので、チベット人にとっては、日本語とイタリア語はもっとも覚えやすい言葉ですよと、チベット人歌手が教えてくれました。では、知り合った証しに、ぜひひとつチベット語を覚えて帰りたいとお願いしたら、それなら、大抵の場面で使えるから、覚えておけば便利な挨拶でも教えてあげましょうということに。
「チョーネムイ。」
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日本語の疑問
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夏を控えて、中国江蘇省のとある村で、摩訶不思議なことが起きたのだ。収穫前のスイカが次々とひとりでに破裂したらしい。被害が大きくなったため、地方当局がついに「スイカ爆発事故調査チームを作り、調査に乗り出した」というニュースをテレビで見た。
しかし、スイカ爆発事故とは、なんとも物騒な表現でどうも気になった。おそらく中国語の「爆炸」を直訳したのではないかと睨んだ。中国語サイトを調べたら案の定「西瓜爆炸」とあった。ただし、それには「地里的西瓜还没有成熟,就像“炸弹”一样一个接一个地“炸开了花”」であったり、「西瓜爆炸又不是手榴弹」であったりと、修辞法として、比喩を用いたことが明示されている。
ここはどう訳したらいいのか。記事の効果を狙って、「爆発」にするか、事実を淡々と伝える姿勢に徹して、「破裂」にするか。スイカは面白いタネを提供してくれた。
この二つのニュースを読み比べるだけでも良い勉強になる。ニュースソースが異なるのも理由の一つかもしれないけれど、文章のまとめ方や言葉のチョイス、ひいては句読点の遣い方には、力量の差が歴然としているようだ。
言葉に関わるコネタをあと二つ。
横浜のとあるインターチェンジを通ると、料金所の近くで、なにやら気になる文字が目に入った。
「ETCのトラブルによるお支払いは次の電話番号へどうぞ」とあった。
そうかそうか、トラブルがあるのか、あれ、ちょっと待てよ、見過ごしてしまいそうだったけれど、なんかおかしいぞ。
トラブルによるお支払いとは?支払うなら、わざわざ電話しなくてもよさそうではないか。それよりお支払いによるトラブルのほうが問題のような気がするけれど。
電車に乗っていたら、しながわ水族館の中吊り広告が目に飛び込んだ。
「今、品水が面白い」とか。
一目だけで、すぐ見るのをやめたので、記憶違いがあったら、許していただきたい。しかし、誰だ?品水なんて言葉を作ったのは?!
中国にも一昔前、「郭魯茅巴」という言葉をでっち上げた人がいたらしい。今は亡き作家の王小波氏がそれを「鬼話」と揶揄していた。それもそのはずで、「郭沫若、魯迅、茅盾、巴金」の四人のことを、誰に断って、略して呼んだのだろう。
何でもかんでも端折ればいいというものでもない。言葉にはやはり品位が必要である。そう思った。
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ここ一ヶ月、仕事が半減して、時間が出来たからといって、何かをしているわけでもなく、気付いたら、2時間も3時間もテレビをだらだら見ています。
そうか、だらだら、だから自堕落な生活というんですね。
東京電力の記者会見。原発事故について「申し訳ないというふうに思ってはいます」という発言。しかし、どうしてこんなに歯切れの悪い言い回しをするんでしょうね。素直に「申し訳ありません」と言えばずっと誠実さが伝わるはずなのに・・・長ければいいってわけでもないでしょう。どうもその表現に釈然としません。
釈然としないといえば、どこかのバラエティー番組で、誰かがこんなことをゲストに訊ねていました。
「○○さん、どうですか。彼女とかいたりするんですか。」
ややこしい言い方ではありませんか。ケータイにストラップをたくさん付けてチャラチャラさせて、肝心なケータイが見えなくなっているような、ヘンな喩えになってしまいましたが、そんな連想をしました。
「彼女、いますか」では、単刀直入すぎていけませんか。
アメトーーク、滑舌の悪い芸人。私も苦手な発音がいくつもあるので、これは見逃すわけにはいきません。ゲストの美しい女優さんが自分はラ行が苦手だと告白します。「いらっしゃられる」がどうしてもうまく言えなくて、いつも噛んでしまうそうです。
いらっしゃられる?この言葉、どういうシチュエーションで使うんでしょう。どなたかご存じの方がいらっしゃれば、ぜひご教示いただきたいものですね。
(追記:散歩がてらに考えてみましたが、二重敬語とばかり思っていましたが、そうか、多少の無理もあるかも知れませんが、迷惑表現なら、いらっしゃられるもありえますね。)
節電省エネと叫ばれていますが、この機に、無駄なエネルギーを消耗しないために、言葉もぜひスリムにしてみたら、いかがでしょうか。
重箱の隅を楊枝でほじくるようなことばかり言っていますが、テレビを見過ぎた弊害に違いないでしょう。
話のついでにもう一つ。目上の人に敬語を使おうと、必死に努力する若者がいるそうです。
「いつ、おヤバくなりましたか」とか。「ヤバい」の敬語らしい。座布団一枚!
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「高浜虚子語録」と題して、Fujimotoさんは俳句の翻訳についての高浜虚子の言葉を紹介しながら、このように語っていらっしゃいます。
大変興味深い話題でした。コメント欄に感想をだらだらと書き綴っていたら、長くなりすぎてしまい、丸ごとこちらに持ち帰ることにしました。
皆さんがおっしゃるように、俳句は和の真髄につながる表現方法ですね。日本文化の美意識が具現された表現方法を異なる文化環境に置き換えても、寸分違わず、再現することはできないと思います。
お刺身や和風建築など、シンプルに見えても、実はものすごく贅を尽くしたものだったりしますよね。こってりとした味付けでなく、ごてごてと飾り付けるのでもない、あえて余韻を残しておくところがミソではありませんか。
俳句もそのような気がします。「古池や蛙飛び込む水の音」を例にみると、そこに観察者の主観的要素は一切ありません。見たものをそのまま描いているだけです。一方、中国の場合、例えば「別有憂愁暗恨生、此時無声勝有声」だったり、または「入夜思帰切,笛声清更哀」だったりですね。そこには往々にして、人間の主観が入り、自然風景は人間の心情を表すために切り取られているものです。より日本の侘び寂びに近いもので、例えば「空山不見人,但聞人語響」でも、後ろにまだ2行続きますからね。 読む者にあえて想像の余地を残す、そしてそれを読んだ人たちはそれぞれの感受性でもって、想像して、イメージを補完するという一連の作業によって、ひとつの作品がようやく完結するんですね。俳句は字面から読み取れる情報量が少ないですね。
しかし、日本のかなと違い、漢字は一文字一文字情報量が多いです。
そこがやはり中国の文学表現との根本的な違いで、中国語は如何に短い文に多くの情報を盛りこんで、よりたくさん伝えることをよしとします。文学においては、長い歴史にわたって、このような美意識がしっかり培われている中国人の感性には、やはり俳句の良さを理解するのは難しいでしょう。文化背景を熟知して、一旦自分を同じ環境に置いてみないと、文学として鑑賞することは難しいかもしれません。
俳句は中国でも紹介されており、日本通の中には、俳句ファンも少なくないようですが、中国語に翻訳あされた俳句は、寡聞のせいか、直訳はあまりよい作品が見当たりません。たまにうまいなと唸らせられる句もありますが、大抵情報を補完して、漢詩風にアレンジしています。 それもそのはず、直訳だと情報量が少なすぎる上、中国語になっているので、読み手はそこに中国の美意識を求めるわけです。そうするとやはりあっさりしすぎて、今ひとつ深みがありません。 また、漢俳なるものを作る人たちもいますが、それはあくまでも俳句の575の形式を借りるだけで、実際、中味を見るとやはり漢詩ですね。著名な通訳者である劉徳有氏が漢俳の名人でもあり、「雪融花報春 俳人雅集一家親 歌吟表寸心」という一句がありますが、これを逆に日本語に訳そうものなら、「雪融けて花は春を告げん 身内のごとき俳人の集い 歌を吟じて寸心を表さん」になるそうです。17文字にとても収まりそうにありません。 元仏教協会会長の宗教家趙朴初氏には、「緑蔭雨今来、山花枝接海花開、和風起漢俳」という一句がありますが、これも17文字にすることは難しいでしょう。
余談ですが、愛読書『夢のあと』(東方書店 神崎勇夫著)に、俳句の中訳について、大好きな神崎多実子先生による面白い注釈が載せてあります。
古池や蛙飛びて(こ)む水の音 うむ、確かに原文を忠実に訳した写実派ですけどねぇ。
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興味深いディスカッションでした。いくつか感想を述べると、
①先日の「靴と結婚」の中で、「这身打扮显得不伦不类,令我心情沮丧」、「想想自己一副令亲者痛,仇者快的惨状,灰心丧气」と書いたことを思い出しました。あの時の自分の心境は、正しく「心が折れた」ものでした。 ②「心が折れる」に関して、個人的には、一般的に使われているとは言え、言葉の「正統派」ではけっしてないと思いますので、積極的に使おうという気にならず、村木局長ほどの年齢と立場の方が使ったことにも、むしろ意外に思ったくらいでした。
③Xiaoさんのコメント「厚生労働省の村木局長がこのコメントをした時の心境を考えると、心が折れることはなかったの訳は我从未气馁」という発想こそ、訳語を考えるときの大切な要素なのではないでしょうか。言葉そのものより、全体を見通して、文脈丸ごと対象言語の環境に置き換えてみると、往々にしてよい訳につながりやすいです。
④>ただ「がっかりした」とか「落胆した」だけじゃなくて、今までは頑張っていたけど…というニュアンスが出せるような中国語
ここの「がっかりした」、「落胆した」はもしかして中日辞典を調べたのでしょうか。日中、中日辞典の類はあくまでも言葉の大まかな解釈で、必ずしもそのまま訳語として使えるとは限りません。参考程度にとどまりたいものですね。 今まで頑張っていたけど、頑張れなくなったという意味なら、ひとまず頑張っていた今までを標準状態とすれば、頑張れなくなった今はマイナス状態と言えるでしょう。同じカテゴリーから、近い中国語を探せば、「气馁」、「灰心喪気」などいくつか思い当たります。つまり気が張っている状態から気が抜けてしまう状態への変化を表していますが、それもけっしてストレートに表現しているのではなく、ニュアンスを読み手に感じ取ってもらう程度に留まっているところが原文の語感にかなり近いのではないでしょうか。。 また、「坚定自己的信念」は洗練さが足りず、「前功尽弃」はややピンぼけで、「認輸」は意味がぴったりかもしれませんが、今ひとつ含蓄に欠ける気がしないでもないですね。
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