日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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(前半からのつづき)


[2]  世の屑、すべてのものの滓
パウロは「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」と述べています。随分ひどい生活を送っていたのですね。

私は神学校を卒業してこの3月で47年になります。目白ヶ丘教会で約3年副牧師をしてから、札幌で30年3ヶ月、シンガポールで約10年、全国巡回報告を約2年半、そして現在はここ川越でお仕えさせていただいています。パウロ先生の伝道生活と比べるならば、私の牧師生活は、まるで大金持ちのような豊かな生活でした。恥ずかしくなります。

パウロ先生は「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」と言っています。随分ひどい表現ですね。私などちょっとでもそのような扱いを受けたら、打ちのめされて、とうの昔に牧師を辞めてしまったことでしょう。多少なりとも世の中のお役に立つ人間と認められるようにと励んできて、今ここにこのように居るのではないかと思わされます。パウロ先生だって、キリスト教信仰をローマ世界に広く伝えた大きくて有意義な働きをしたのではなかったでしょうか。それでもどうして自分を世の屑、滓と言うのでしょうか。

それは十字架のキリストの僕という徹底した自覚が言わせている言葉だと思います。そうです。十字架刑とは、この世の屑と言われる最悪の犯罪者が受ける刑罰だからです。ですからキリストの使徒パウロは、世の屑・滓扱いを受けたお方の僕に徹しなければと、自分に言い聞かせて、十字架のキリストを宣べ伝え続けたのでしょう。

今日の週報の4頁コラムの欄に飯塚光君が、ハッとさせる文を書いて下さっています。要旨を手短にご紹介します。「殉教――信仰の証として強烈なインパクトを与える。しかし天邪鬼な私にとっては、自己顕示欲の一つに思えるのである。指導者の殉教によって人々は散らされ、結果的に伝道が進む。しかし散らされた人々は、聖人の意志をしっかり受け継いだ熱意のある人々ばかりだったのだろうか。世をあざむくために、毎年一回の踏み絵を役人たちの前で踏み、村に戻ると“おテンペンシャ”と呼ばれる鞭で自分の体を打ち、こうして生きる悲しさを神に訴え、罪の赦しを乞う隠れキリシタンの悲哀を、遠藤周作は書いているが、この人々が生き抜いたからこそ、今日の私たちに繋がっていると思うのである」

先週の第3章で、パウロはキリストという土台の上に、金・銀・宝石・木・草・わらで各自が教会という神殿、礼拝共同体を建てていくと言っています。キリストが再び来られる終わりの日に火をもって仕事が吟味されます。だから火に焼かれ、燃え尽きて残らないような仕事をしないようにと警告しています。では試練にあって燃え尽きてしまう仕事、木や草やわらで家を建てるは、何を意味するのでしょうか?

飯塚兄のコラムを読んで、一年に一度役人の前で踏み絵を踏み、家に戻って鞭で自分の体を打ち叩きながら、自分の弱さの赦しを乞いつつ、秘かに信仰を守り通した隠れキリシタンのような信仰者を指すのかなと、私は思い至ったのです。しかしパウロは、そのような人でも「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(3:15)と言ったのではないで  しょうか。火で燃え尽きて残らないような仕事、証にならないような信仰生活を送った者でも、キリストという土台の上に営まれた信仰生活ならば、神さまに受け容れられる。十字架のキリストならそうなさると、パウロは言っているのではないでしょうか。

マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人が夜明け、多分6時頃、町の広場で労働者を雇いました。9時、12時、3時にも広場に行って、立ちんぼしている人を雇いました。午後5時にも仕事にありつけなかった人を雇いました。日暮れの6時、夕方の1時間しか働かなかった人から順繰りに、皆同じ1デナリの賃金が渡されました。当然12時間働いた者たちから不満が出ました。実に不合理な話です。こんなことが毎日行なわれたら、朝早くから働きにくる労働者など居なくなるでしょう。ぶどう園はつぶれてしまいます。

しかしこの主人は5時まで仕事を待ち続けた人の辛さ、悲しさを知っていたのです。彼も家族を食べさせるお金が必要なのですから。夜明けから暑い中を辛抱強く12時間も働いた人たちは勿論立派です。彼らのおかげでぶどう園の仕事がはかどりました。パウロの言葉で言えば、金・銀・宝石にたとえられる仕事をやったのです。でもイエス・キリストは、わらの仕事しか出来なかった人にも目を注ぎ、心を寄せて、受けとめくださる神さまの姿をお示しになったのでした。

一番弱い者、一番惨めな低い者を見過ごしにせず、寄り添って下さる神さまの愛、それをそのままキリストの十字架が現わして下さったのでした。だからパウロはコリント教会の人たちにこう書き送ったのでした。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(競灰螢鵐11:29〜30)

[結] キリストの教会で大切にされる心
日曜礼拝を最優先にして守って下さる教会員が核になって、真剣で豊かな礼拝共同体が建て上げられていきます。役員として役割を担って下さる、或いは様々な伝道活動を担って下さる教会員がいなければ、教会の証は社会に拡がっていきません。また献金によって財政を支えることがあって、牧師・スタッフの給料、建物の維持管理、集会や活動が実施出来るのです。このような教会員の働きがあって、川越教会という神の神殿、礼拝共同体が、建て上げられ、活動が拡大していきます。

しかし私たちは、教会の土台であるイエス・キリストが、世の屑・滓といわれる十字架につけられたキリストであることを、しっかりと心に留めておく必要があります。 キリストは世の屑・滓といわれる者に身を寄せ、心を寄せて生きられましたから、十字架で死なれたのでした。

私たちが生きているこの社会では、夕方に1時間しか働かなかった者に12時間働いた者と同じ賃金を払うなどという事は通用しません。しかしキリストの教会は、12時間働けた者が、1時間しか働けなかった者に寄り添って、悲しみや喜びを共有することを、何よりも大切にする神の神殿でありたいものです。

そのために牧師としての私も、パウロと同じように、自分が弱い者、愚かな者、侮辱される者であって当然だという自覚をもって、教会にお仕えしなければと改めて反省させられました。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」教会内ばかりでなく、私たちが暮す社会ででも、この心が何よりも大切にされなければと思います。そしてそれがキリストを信じる私たちの責任ではないでしょうか。


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