日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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[聖書]コリントの信徒への手紙一 4章6〜13章
兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。

[序] 牧師の役割
或る教会で他の教派から移ってきたけれども、会衆主義のバプテスト教会はどうしても馴染めないと言って、去って行かれた方がいました。「神の僕として特別に召された牧師先生も、30年間信仰生活を忠実に送ってきた自分も、昨日バプテスマを受けて教会員になったばかりの人も、教会総会では皆同じ一票で事を決めるのはどうしても納得がいかない。先ず牧師先生が、その次には自分のような信仰暦の長い信者の意見が尊重されて当然ではないか」と言うのです。

また或る教会の牧師就任式で近隣教会の代表が「牧師先生を中心にして教会が発展していきますように」と祝辞を述べておられました。牧師先生の霊的指導の下に教会員が一致協力してというのでしょうか。たしかに牧師のいない教会では、役員同士の意見がばらばらで後任の牧師招聘もスムーズに決まらないという例を耳にします。教会の一致は牧師が要(かなめ)なのでしょうか。「神の僕として特別に選ばれた牧師先生の権威」とは何でしょうか。

[1]  弱さと愚かさの究極に救いを見る信仰
コリント教会では、勝手にパウロを担ぎ上げたり、アポロを担ぎ上げてグループを作り、張り合うことで教会の一致が損なわれていました。そこでパウロは3章では、パウロもアポロも主がお与えになった分に応じて、植える、水を注ぐという働きをした奉仕者に過ぎず、成長させてくださる神こそが大切だと言いました。

そして今日の4章では、先ずパウロは「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と述べています。

「仕える者」と訳された語は「下の漕ぎ手」の意味で、二段もしくは三段になった櫓をもつ大きなガレー船の最下段の櫓を漕ぐ人足を指す言葉です。船尾に座をしめるリーダー格の男が太鼓を打つような格好で規則正しく板木を叩くと、奴隷たちがその音に合わせて一せいにオールを漕ぎます。単調でしかも全力を振り絞って漕がなければならない過酷な労働です。この語が後に、人の下で働く者一般を表すようになりました。

パウロはコリント教会を創設した自分もその後に来て奉仕したアポロも、キリストの前では最下位の労働者・奴隷だ。また神の秘められた計画、すなわちこの世の知恵をもってしては悟ることの出来ない神の知恵である十字架のキリストの福音を委ねられた管理人だと述べています。この管理人も主人の家の管理を任された僕で、身分は奴隷です。主人に対して絶対的な忠実さが求められています。

そしてコリントの教会と自分やアポロとを対比させて、あなた方はキリストを信じて優れた者、賢い者、強い者になり尊敬されているが、私たちはキリストのために愚か者となり、弱く、侮辱されている。あなた方は勝手に大金持ち、王様になっているが、神さまは私たち使徒をまるで死刑囚のように、世界中の見世物になさったと言っています。

ローマではネロの迫害の時、大きな円形競技場に集まった見物人の前で、クリスチャンたちは十字架刑にされたり、飢えたライオンの餌食にされて食い殺されました。ペトロもパウロもそのような殉教の死を遂げたと言われています。どうしてパウロは、使徒であり、コリント教会の生みの親である自分を、そのように弱い、惨めな者として強調したのでしょうか。

それはパウロがキリストに仕える者だからなのです。パウロは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」コリント伝道を始めたと2章で述べました。パウロが絶対の忠実さで仕える主人のイエス・キリストは、十字架につけられて人々の嘲笑のなかで死んでいかれた救い主なのです。

私は1月10日の説教で、40年続いて今なおTVの人気番組である水戸黄門と対比させて、この十字架につけられたキリストと見つめました。悪人どもとの最後の大立ち回りの最中に、格さんが指し出す葵の紋所・天下の副将軍の威光で一同を平伏させて悪を成敗する痛快さ、これこそまさに正義だと、この世の皆は納得するのですね。

人々はキリストにも「救い主なら今十字架から降りてこい」と葵の紋所を求めました。ところがイエス・キリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら、人々の嘲笑の中で死んでいかれました。水戸黄門と比べるならば、無残な敗北者にしか見えません。しかし死刑を執行したローマ兵の隊長は、その敗北者を目の当たりにして「本当に、この人は神の子だった」とつぶやいたのでした。(マルコ15:39)

越後のちりめん問屋のご隠居さんに身を隠していた天下の副将軍が葵の紋所とともにその威光を現わす水戸黄門、十字架の上で絶叫しながら息を引き取っていかれた惨めな敗北者のままで、神の子であることを示したイエス・キリスト。十字架のキリストは、弱さと愚かさの究極に、神さまの無限に深い憐れみと救いを見ていく信仰なのです。ですからパウロは、十字架のキリストと同様に、自分が弱い者、愚かな者、侮辱される者であって当然だと思っていたのでした。

ところがコリント教会の人々は、パウロとアポロを比べて、どちらがより優れているかを自分たちで判定して、片方を持ち上げ、片方をないがしろにして、徒党を組みました。これに対してパウロは、コリント教会の人たちは、親分を選んで担ぎ上げようとしているのだから、自分たちは子分だと思っているのだろうが、それは違う、逆だと言っているのです。

そうです。入社試験の例を考えて下さい。応募者と、その優劣を判定する試験官とどちらが上でしょうか。合格者がどんなに優れているとしても、そういう彼を選んだ試験官の方が経験・知識が上なのです。ですからパウロをアポロより優れた牧師だと判定する、或いはその逆にアポロをパウロより優れた教師だと判定するあなた方は、パウロやアポロよりも信仰が豊かになったのであり、勝手に信仰の大金持ち気分、王様気取りを演じていることになるのだと、指摘したのでした。

(後半へつづく)


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