日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

全体表示

[ リスト ]

(前半からのつづき)


[2] 夫婦の一体性
「結婚する人たちは、その身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにその苦労をさせたくないのです」(28節)結婚すると独身生活よりもはるかに複雑な人間関係が生じます。夫は常に妻を思いやり、配慮しなければなりません。妻も同じです。

独身時代は自分独りで考え、独りで決断し、独りで解決にあたりました。でも結婚したら、それは許されません。必ず相手に打ち明け、相談し、了承し合って一つの結論を出し、二人で協力して解決に当らなければなりません。これは非常にしんどいことです。つい独身時代の癖が出て、単独行動をしてしまいがちです。喧嘩になります。二人の絆に亀裂が生じます。これでは夫婦失格です。忍耐し、試行錯誤を重ねて、徐々に夫婦一体になっていくのです。「だから苦労させたくないのだ」とパウロが言う通りです。

しかし神さまは、天地創造の初めから、人を男と女に創り、「人が独りでいるのは良くない」とおっしゃって、男と女を結婚させ、一体となる夫と妻に結び合わされました。そこでパウロは、「夫の体は妻のもの、妻の体は夫のものであって、自分勝手は許されない」(7:4)と教えています。これは大変な意識改革を迫られる言葉ではないでしょうか。妻の体に不具合が生じるようでは、夫は失格なのです。夫の体に不具合が生じたら、妻は失格なのです。相手の心身に十分の心配りと労わりとが必要なのです。互いに大事にされ合うことによって、夫婦の一体性が造られていくのです。

夫婦のどちらかが信者になり、相手がバスに乗り遅れて、なかなか一緒に祈り合う一体性が生まれない。よりよく主にお仕えするために別れたらと考える人が出てきました。しかしパウロは「離縁してはいけない」ときっぱり言っています。なぜなら信者でない夫(妻)は、信者である妻(夫)のゆえに聖なる者とされているからです。これもまた大変な言葉ではないでしょうか。

神さまが重んじられるが故に、神さまを重んじない人は退けられるのでしょうか。
パウロは十字架のキリストを重んじましたから、コリント教会を、中身がどのようにお粗末でも、キリストの教会、聖なる神の教会として尊びました。(1:2)

イエスさまのもとに中風の病人を担架にのせて運んで来た4人は、家の入り口が人々で塞がって内に入れないと知るや、屋上に上がって屋根に穴をあけて病人をイエスさまの前に吊り降ろしました。イエスさまはこの4人の信仰を見て、病人に「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。(マルコ2:5)病む者の悲惨さに身をよせて共に担おうとする信仰を、イエスさまは決して無視なさらず、救いの手を差しのべてくださる。なかなか信仰を言い表せない夫(妻)を持つ家庭も、妻(夫)の信仰のゆえに聖なる家庭とみなして下さる神さまは、信者でない夫(妻)の救いをも全うされるに違いないと、パウロは言ったのでした。

[3] 神に召された身分のままで
商業と貿易の大都市コリントは、20万人の自由人と50万人の奴隷から成っていたと言われています。ですからコリント教会には、奴隷の身分の人の方がずっと多数だったのではないでしょうか。奴隷と言われる人でも、商売が出来、また教会に集まり、自由人たちと一緒に活動が出来たのですから、いわゆる家畜同様に働かされる奴隷とは違うようです。ローマ市民権を有する者と市民権を持たない者の違い程度だったのかもしれません。

しかしパウロはこの手紙の1章26節以下で、コリント教会が「地位のある者、家柄のよい者は多くはなく、卑しく見下げられている者、無学で無力な者があえて選ばれた」と言っています。ですから教会の内には、当然奴隷という身分から抜け出し、自由人の仲間入りをしたいという願望が強かったようです。パウロやアポロのように割礼を受けたユダヤ人になりたい、その逆に、割礼の傷跡を消して、ローマ人になりたいという人もいました。

それに対するパウロの基本的態度は、神さまの救いにあずかった時の状態を大事にしなさいでした。「神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と3度も繰り返し勧めています。(17、20、24節)「自由人の身分になれる機会があっても、むしろそのままでいなさい」とは、奴隷制度をそのまま認めて、擁護しているのでしょうか。

違います。彼はユダヤ人でありながら、生まれながらローマ市民権を持つ家に生まれました。しかし「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(9:19)と言っています。彼は自由人とか奴隷を差別として受け取る偏見を超越していたのです。生まれも境遇も、そのまま神さまの定められた賜物だと受けとめていたのです。その賜物を、神さまのみ心に適うように用いることが何よりも大切だと信じていたのです。

それはパウロの結婚観と共通しています。自分が男である、女である、夫となる、妻となることに、身分・役割の上下・差別などありません。男として生まれ、信仰を与えられ、結婚して夫になった。女として生まれ、信仰を与えられ、結婚して妻となった。それは各自に与えられた神さまの定めです。この定めを神さまのみ心として受け容れ、夫婦の一体性を造り上げていこうとすればよいのです。

夫婦の一体性というのが、夫の中に妻が居り、妻の中に夫が居るというものでした。それと同様に、奴隷もキリストに救われて、全く自由な神の子にされたのだから、自分の内に奴隷と自由人を併せ持っている。また自由人も、キリストの奴隷になったのだから、自由人と奴隷とを併せ持っている。違いはないではないかというのです。

だから神さまが奴隷の自分を救って下さったという召された奴隷の私を大切にする。そこに神さまの摂理、私をどのように用いようとなさっておられるのかと、ご計画をたづねて生きていくことだというのです。勿論、自由人も同様です。

[結] 神の目には高価な私
どうしてこのような自分として生まれたのか、どうしてこのような自分として生きなければならないのかと、不平不満を抱いて心が晴れない人が大勢います。「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」(23節)イエス・キリストは自ら進んで、十字架に付けられ、命の代価を支払って、この私を滅びの闇から取り戻して下さいました。

私たちはたとえどのような状態であれ、神さまの目には、イエス・キリストの命に相当する、かけがえもなく高価な者なのです。どんなに不満な自分でも、神さまはそのままの私を受け容れ、私なりの有意義な人生を送らせようとされているのです。この私を自分で奴隷にしてはなりません。卑しめてはなりません。神さまが私に与えてくださった賜物を、喜んで十分に活かして、神さまが定めた人生を、精一杯に生きて生きたいものです。


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事