日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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(前半に続く)
                    心の闇との戦い
                                       加藤 享

 小アジアから追われて東部地帯に住み着いたセム系住民からヒクソス王朝が出現したのですから、大飢饉を逃れて東のカナンから移住して強大になってきたセム系のイスラエル人を、ハム系王朝が警戒して弾圧し始めたのは歴史の教訓として当然でした。国王はイスラエル人の人口増加を食い止め、弱体化しようとやっきになりました。そして遂に「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と命じたのでした。

 この時にレビの家にも男の子が誕生しました。3ヶ月間隠して育てましたが、隠しきれなくなりました。パピルスの籠に防水加工してその子を入れ、蓋をしてナイル河の葦の茂みの間に置きました。やがて流されて波間に沈むでしょう。エジプト人に見つかれば、河に沈められる。わにに食われる。しかし万が一の可能性に賭けて、川辺の葦の茂みの間に籠を置いたのでした。

 するとそこへ、何と王女が水浴びに下りてきて、籠を見つけたのです。下女に拾わせて開けてみると、男の赤ん坊が泣いています。「これはきっとヘブライ人の子です」
 王女は国王の命令を知っていました。この時遠くから見張っていたその子の姉が王女に走り寄って言いました。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速母を連れて来ました。 王女は命じます。「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」

 母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行きました。王女は彼をモーセと名付けました。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」 こうしてモーセは40年間王宮で育てられ、最高の教育を受けたのでした。


 それにしてもエジプトの王女ともあろう人が、父の国王から弾圧され、奴隷のように扱われているヘブライ人の赤ん坊を、どうして自分の子として王宮で育てたのでしょうか。権力者にとって娘は、王権の拡張と安定のために大きな価値がありました。NHKの大河ドラマ「江」では、織田信長が京都を目指す備えとして妹お市を近江の浅井長政と結婚させ、彼の死後、彼女を重臣柴田勝家の妻にしています。お市の長女の淀は豊臣秀吉の跡継ぎ秀頼の母、三女の江は徳川秀忠の妻。このようにお市は信長、秀吉、家康という戦国時代の最高権力者を結ぶ絆でした。

 こうした昔の歴史的背景を考えますと、モーセを引き取ったファラオの王女も、 本来なら宮廷の重臣や軍人、あるいは他国の王子に嫁ぐことになっていたはずです。とすれば結婚前の王女が自分の立場や将来をわきまえずに、勝手に他人の子を養子にすること、ましてやヘブライ人の子を養子にするなど、考えられないことです。  逆に言えば、この王女にはよくよくの事情があったに違いありません。

 日高先生は、この謎を解く鍵として、5節についての次のような解釈を紹介しています。「そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。」 王女は川に下りていて、侍女たちは川岸の道を行き来しています。つまり侍女たちは王女から離れた位置に居て、しかもじっと王女を見守るのではなく、川岸の道を行き来しているのです。王女の傍近くにいつも侍っているのが侍女の務めではないでしょうか。そこで王女の身体に何らかの病か瑕があり、侍女たちはそれを見ることをはばかっていたのではないかというのです。もしそうなら、王女たちに期待されていた結婚の道が、彼女には閉ざされていたので、養子をもらって育てようとした理由も理解できます。それにしても何故、ヘブライ人の子を養子にしたのでしょうか。

 「開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、『これは、きっと、ヘブライ人の子です』と言った。」(6節) この言葉から王女が、ヘブライ人が虐待され、嫌われ、奴隷のようにこき使われており、父の王の命令で男の子が川に捨てられたことを知っていたと推察できます。また「ふびんに思い」とは、苦しみを共有する(have compassion)という意味です。彼女は、王女として、父から役に立たない娘と見られている我が身と重ね合わせて、親から捨てられたこの赤ん坊を受けとめ、結ばれる絆を感じとって、思わず手を差しのべたのではないかと日高先生は解説しています。

 「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』」(10節) この子は川に漂う無力な赤ん坊でした。ただ無意味に死を待つだけの運命でした。王女自身も、たとえ王宮に身を置くとはいえ、この赤ん坊と同じ様に、無力に漂い、無意味に死を待つだけの運命でした。しかし赤ん坊を川から引き上げ、その命を慈しみ養うことによって、彼女は自分自身の命の役割と価値を見出して、生きる喜びを持つことが出来たのでした。彼女が水の中から引き上げた赤ん坊によって、彼女自身もまた、無意味な命から引き上げられたのです。人の絆とは、このように互いに命を与え合う不思議な絆なのですね。

[結] 万事を益としてくださる神

 私たちは、ヨセフ物語を通して、神さまが多くの民の命を救うために、人間の犯す悪をも善に変えて、歴史を導いて下さっているお方であることを学びました。兄たちの妬み憎しみが、ヨセフをエジプトに導きました。侍従長の妻の不貞が、ヨセフに獄中生活を送らせ、人格を育ててエジプト国王と結びつけました。ヨセフは与えられた任務を見事に果たして、大飢饉のさなかに国王の権威を確立させ、ヤコブ一族をカナンからエジプトに移住させて、アブラハムへの神の約束通りの強大な民族へと成長させました。ヨセフは歴史に働き、また自分の内に働いて下さる神さまに、いつも目を注いで生き抜いたのです。

 今日の箇所からは、エジプト王朝の交代からイスラエル人が弾圧される中で、川に捨てられた赤ん坊が王女に拾われて、エジプトの王宮で育つ不思議なドラマを学びました。このドラマで神に用いられた人は、モーセを生んだ母、川に捨てられた子を拾った王女、彼女に赤ん坊の母を乳母として引き合わせた姉と、皆女性です。

 彼女たちはそれぞれの役割を精一杯に果たしました。母親はぎりぎりまで手許で乳を飲ませて育てました。パピルスの籠に丹念に防水加工してナイル河畔の葦の茂みに置きました。姉は遠くから見張り続け、王女に拾われると、すぐさま母を乳母として紹介しています。そして王女は我が身と重ね合わせてこの赤ん坊に手を差しのべ、父の国王の命令に逆らう決断をしました。

 使徒パウロは「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)と言っています。まさに神さまが万事を益となるように、共に働かせてくださって、救いがもたらされていくのです。それにしても、大勢いる王女のなかで、特別な事情を抱えているこの王女が,籠の置かれた川岸に水浴びに来るとは、何と不思議なドラマでしょうか。神さまの御業は、私たちの思いを超えています。

 ですから私たちは簡単に絶望してはなりません。自分の最善を尽くして、神さまにお委ねし、不思議なドラマを信じて待ちましょう。神のなされることは、皆その時
にかなって美しいのです。      
                                          完    

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