日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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 (前半より続く)

2012年5月20日川越教会
                      人生の明暗(後半)
                                 加藤 享

[2] 愚かな大間違い
 
 しかしここで彼は、愚かな大間違いを犯してしまいました。戦闘開始に当たって主に誓いを立てたのです。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」(11:30〜31)

 ところが、エフタが勝利をおさめて家に帰った時、彼の唯一人の最愛の娘が、真っ先に鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来たのです。彼は衣を裂いて嘆き悲しみました。しかし主に対する誓いは破ることができません。娘も誓いの重みを十分に自覚していました。二ヶ月間友だちと山をさまよって泣き悲しんだ後に、父のもとに帰り、主の献げ物となって死にました。

 主なる神さまは、全ての人の祝福の源となるようにと選ばれたイスラエルの民に、神の民としての信仰生活の指針として、モーセを通して、律法をお与えになりました。その律法には大切に育てた家畜を献げ物として献げる規定はありますが、人間を献げることは厳しく禁止されています。「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレクの神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」(レビ18:21)

 何故でしょうか。それは他の宗教では、我が子を神に献げることが、当り前のこととして行われていたからです。日本でも川が氾濫すると、川の神を宥めるために、子どもが生贄として川に投げ込まれました。

 ではエフタはどうして、律法で厳しく禁じられている献げ物の誓いをしてしまったのでしょうか。彼は後に「わたしは命がけでアンモン人に向って行った」(12:3)と語っています。敵は十分に準備した上で集結した軍隊です。こちらは急遽呼び集められた部隊です。エフタ自身が長老たちに頼まれて、急遽指揮官についたばかりです。 

 外交交渉も、全軍を把握するための時間稼ぎでもあったでしょう。勝ち目のない命がけの戦いです。ですから彼は、我が家の大事な使用人の誰かを献げてでも、主の助けを頂きたいと、平素見聞きしている異教徒の慣習に影響されていたこもあって、誓願をしてしまったのでしょう。

 ではどうして神さまは、彼の軽率な誓いを、御自分が最も嫌う行為だと厳しく叱って、取り止めさせなかったのでしょうか。昔神さまはアブラハムに、100才になってやっと与えられた秘蔵息子のイサクをモリアの山上で焼き尽くす献げ物にせよとお命じになりました。そしてアブラハムが御言葉通りに実行しようとした時、山上に山羊を備えて、イサクの命を救って下さいました。どうしてエフタにもその様な救いの手を差し伸べて下さらなかったのでしょうか。

 榎本保郎牧師の旧約一日一章によると、アブラハムの場合は主の命令によるものでしたが、エフタの場合は自分から誓った誓願でした。ここに同じかけがえのない唯一の我が子を献げながら、一方は神の応答が与えられ、他方は神の沈黙に出会った違いがあると述べられています。神さまが求めておられるのは、私たちが御心に聞き従う信仰に立つことなのです。

 「もし貴方が助けてくださるなら、私も――します」とは、自分と神さまが対等の立場で取引していることになります。御礼として、家で働く者の誰かを献げる痛みを払いますからと、自分が決めているのです。そこで神さまは沈黙されてしまわれたのでしょう。エフタは「御心ならば勝利によって御栄光を。よしたとえ敗戦でも、御心としてお受けします。御栄光をお現わしください。」と祈り、神さまの御心に従って行動するべきだったのです。

[3]健全な人格の源
 
 エフタは母が卑しい女だからという理由で、社会から差別・排除されてしまいました。生まれながら負わされたハンデ――これは自分ではどうすることも出来ない人生のマイナス要因です。そしてそのハンデによって、多くの人が苦しみ、悩み、押しつぶされてしまいます。ところがエフタは挫けませんでした。他の町に移って、自分は自分らしく生きていこうとしていたら、彼の周りに、同じような境遇の若者たちが集まってきたのです。

 「ならず者」とは「何も持たない、空しい者」の意味から、「社会的立場や経済力を持たず、やけくそになったごろつき」を意味するようになった語だそうです。口語訳では「やくざ者」、新改訳では「ごろつき」と言われる連中が集まって来て「行動を共にする」と言うのですから、口語訳は「彼と一緒に出かけて略奪を事としていた」と記述しました。しかしこれでは訳し過ぎだと、私は思います。

 何故なら、盗賊集団になれば町の中で暮らせないはずだからです。またもしも彼らが反社会的な集団ならば、長老たちがエフタにギレアド族の軍の指揮官になって欲しいと要請しに来ないでしょう。すると、「やくざ」とか「やけくそになったごろつき」が集まりながらも、彼らを反社会的集団にさせない健全な規律がそこにあったことになります。そしてそれこそが、中心人物であるエフタの健全な人柄とリーダーシップによると私は思うのですが、いかがでしょうか。

 エフタは、自分が生まれた町から追い出されたことに、いつまでもこだわっていません。一応言うべきことは言いますが、長老たちが、自分たちは神さまの前で語っていると言うと、彼らを信じて申し出を素直に受けいれています。彼の健全な人格とリーダーシップの源泉も、この信仰によるのではないでしょうか。民族の歴史を通して受け継がれてきた、主なる神さまへの畏れと信頼とが、人間社会の生み出す不条理によって押しつぶされず、ゆがめられずに、人を信じ赦すという健全な人格を養い、人生を切り拓いていく原動力となっているのではないでしょうか。

[結]明暗を生きる教師
 
 エフタは明暗交差する人生を送りました。母が卑しい女だというので、成人すると家から追い出されました。遠く離れた町で一人暮すうちに、ならず者たちが集まってきました。彼らを指導することで、リーダーシップが養われ、アンモン人との戦争になると、司令官に抜擢されます。主の霊を注がれて、命がけの戦闘に大勝利します。しかし愚かな誓約をしたばかりに、勝利の喜びは吹き飛び、最愛の娘を失う深い悲しみを味わう破目に陥りました。そして士師としての役割を果たして死にました。

 エフタは人生のどの場面でも精一杯に生きました。逆境に遭っても卑屈にならず、順境に在っても驕り高ぶらず、自分の罪ゆえに大失敗を犯しても、耐え抜き、与えられた使命を全うして、死にました。人生の明暗において、如何に生きるべきかを、深く教えてくれる教師です。私の心に、彼の失敗から、パウロの言葉が響いてきます。
  
“心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、
何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを
わきまえるようになりなさい。”(ローマ12:2)
                               完

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