日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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2012年7月22日川越教会

               赦されて生きる[後半」

                                   加藤 享


 律法を守ることに熱心な人たちが、主イエスのところに姦通の現場で捕らえられた女を連れてきました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」すると年長者から始まって一人また一人と立ち去って、皆いなくなってしまいました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」(ヨハネ8:10)

 この女性を処刑する資格のある者が、律法に一番熱心な人々の間にも一人も居な かったのです。私がその場に居たとして、石を取らずに立ち去ったら、自分も罪を犯した者であることを言い表したことになります。「何だ。牧師のくせに」と責められ、面目丸つぶれです。だから嘘をついてでも、自分の名誉を守らなければなりません。
 ところが主イエスの前からは、律法を厳格に守っている人たちが皆、立ち去ってしまいました。しかも「年長者から始まって」とあります。長老として尊敬されている人が正直に自分もこの女性と同じですと告白したことになります。偉いなーと思いませんか。主イエスの前に立つと、自分の罪深さを率直に認めざるを得なくなるのですね。

 そうです。主イエスはおっしゃいました。「あなた方も聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:27〜28)口語訳・新改訳では「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と訳されています。

 もしもどんな女性を見ても、男は変な気持になってはならないというのなら、やはり イスラームの世界のように、女性みんなに黒いベールをすっぽり被って貰わなければなりません。律法学者やファリサイ派の人々が主イエスと女を残して、皆立ち去ってしまったという光景を、私たちは心に刻みつけておかなければならないのではないでしょうか。そして主の祈りを真剣に唱えなければなりません。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」

 [3] 神に対して罪を認める
ダビデの悔い改めの態度に、おやっと違和感を覚える点があります。彼の懺悔は「私は主に罪を犯した」の一言のみで、夫ウリヤに対して、またバトシェバに対しての謝罪の表明がありません。神さまに謝りさえすれば、それで一件落着したと思ったのでしょうか。有名な懺悔の詩、詩編51はまさにこの場面で生まれた祈りの歌と言われています。(実はバビロン捕囚の民がダビデと我が身を重ね合わせた詩だそうです)

 その6節に「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」とあります。罪を犯したとありますから、この作者も誰かをひどく傷つけたに違いありません。当然その相手への懺悔がなされるべきです。でもこの詩の作者は、自分は神さまに対してのみ罪を犯しましたと告白しているのです。

 そうです。彼は神さまから指摘されて、初めて自分は、神の目に悪事と見られる罪を犯したのだと気付かされたのです。神さまから罪だと宣告される悪事、すなわち罪は神さまに対してなされたと自覚されて罪となるのです。

 ですから相手を越えて先ず神さまに懺悔する。その時懺悔が本当の懺悔になるというのが聖書の信仰です。ルカ福音書の「放蕩息子のたとえ」でも、彼は家に帰って来て父に申しました。「お父さん、私は天に対しても、また貴方に対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)

 人間相手に自分の行いを吟味するなら、こちらにも何がしかの言い訳が出てきます。美しい女性が裏庭で水浴びしたからつい誘惑されたとか、折角戦地から呼び戻していたわっているのに、家でくつろがず守衛所で寝るなどと片意地をはるから戦死させたとか。しかし聖なる神さまの前でとなりますと、どんな言い訳も自己弁解に過ぎず、全面的に罪を認め、懺悔する外ありません。それは人格の屈服ですから、屈辱であり苦痛の極みです。しかしその時、懺悔ははじめて真実の懺悔となるのです。

 しかし神さまは聖なる神であると同時に、はるかにまさって赦しの神、愛の神です。御前に打ち砕かれて懺悔する魂に、神さまは全面的な赦しを与えて下さいます。それは本当に徹底した完全な赦しです。そして懺悔の本当の恵みをいただけるのです。私たちはこの赦しを受けた時に、生き返ります。
 
 忌まわしい過ちから、完全に解放されるからです。それは文字通り、魂の再生です。「わたしは主に罪を犯した」と告白し懺悔した時、ダビデが得たものはこれでした。ですから醜い罪を乗り越えて、新しい人生をスタートさせることができたのでした。信仰が人を高め、強くする力はここにあるのです。

[結]  赦されて生きる恵み
 「欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」(ヤコブ1:15)と聖書は語ります。死を生み出す欲望を私たちは、皆持っているのです。心からの恐れを持ち、「我らを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」と主の祈りを唱えつつ、一日一日を送らなければなりません。

 「罪を犯さない者は一人もいません」(列王記下8:46)とダビデの子ソロモンは祈りを捧げました。罪を犯してしまったならば、いち早く神さまに告白して、赦しを求め、悔い改めなければなりません。そのために日々の祈りを欠かせません。礼拝を大切にすることです。ダビデのように罪を厳しく指摘してくれる神さまの使いを、身近に持つことです。

 罪や失敗、挫折に打ちのめされて、いつまでも立ち直れない人が多くいます。しかし神さまへの罪の告白は、完全な赦しを頂けるのです。十字架にかかりながら「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ私に代わって死んで下さった救い主キリストが、執り成して下さっているからです。

ダビデはあれほどの罪を犯していながら、立ち直りました。そして最後まで生き抜いて、自分の使命を果しました。どんな罪を犯してしまっても、信仰をもって良い生涯を生き抜くことをこそ、神さまは心から望んで居られるのです。
 
 赦されて生きる者は、傲慢になれません。これは大きな恵みです。主イエスにならって、人の足を洗いつつ、謙遜に僕の道を歩むことができます。私たちもこのように  して、互いに愛し合って生きて参りましょう。       完

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