日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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2012年9月2日川越教会

                  どちらが本物か[後半]

                                         加藤 享

(前半より)

 丹頂鶴自然公園の実験によりますと、丹頂鶴の卵は保温器で温められても最後の10日間言葉かけをされないと雛が殻を破って生まれてこない。言葉がかけられることによって、卵の内にある命がひきだされて、生きるものとなるのだそうです。まして私たち人間は、言葉をかけられていくことによって人格が形成され人間になっていくのです。ですから人間を創造された神さまが、言葉をもって私たちに絶えず語りかけ、私たちの人格を養い育てていこうとされることは当然ではないでしょうか。

 仏教徒は沈黙する仏の前で自己との対話に精進し、ととのえられた自己、優れた人格を確立していくといわれます。私はそのような自分との対話に精進する方に深く敬意を抱きます。でも神さまとの対話と自分との対話を比べる時、私にとっては真の神さまとの対話の方が、人格を育んでいくにあたってはるかに優っていると思えるのです。

 何故ならば、私のような者が一人で語り始めると、どうしても手前勝手な自我のこだわりから抜け出ることが困難だからです。神さまああしてください、こうしてくださいという祈りは、神さまを召使にして自分の欲を果たそうとする自己中心的なご利益信仰に他なりません。神さまから正しい命の言葉を聞き、自我のこだわりから引き離されて、真実に応答していこうとするところで、私の人間としての在るべき人格が創られていくのではないでしょうか。私にとっては、もの言わぬ神をつくって拝むことは、自分を卑しくしていく道だと思うのです。

[2]神さまとの真実な交わり
 日本のプロテスタントの信仰の発生地は、横浜・熊本・札幌です。札幌の場合は「青年よ、キリストにあって、大志を抱け(Boys, be ambitious in Christ)」の言葉で有名なDr. William Clarkの感化を受けた青年たちから始まりました。クラークは北海道開拓使長官の黒田清隆に招かれ、札幌農学校初代教頭として明治9年(1876年)に来日しました。

 彼は横浜に上陸して、昼間から酒に酔って醜態をさらしている若者を幾人も見かけて驚きました。そこで横浜から苫小牧までの船旅の途中で、アメリカから持ってきたブランデーの箱を全部海に投げ捨て、札幌滞在中はアルコールを一切口にしなかったそうです。彼は聖書も沢山持って来ました。聖書をもって生徒の人格教育をしようとしたのです。黒田長官は国立学校だからそれは困ると反対しましたが、それでは教育に責任が持てないからアメリカに帰ると言われて、仕方なしに許可したそうです。

 クラークは聖書を教え始めてしばらくしてから、「耶蘇の信徒の誓約(イエスを信じる者の誓約)」を書いて第一期生に示しました。すると16人全員が署名し、翌年に入学した第二期生15人もそれに署名したそうです。クラークは僅か10ヶ月しか 札幌に滞在しませんでしたので、第二期生は直接クラークの教えに接していません。しかしこの誓約にこめられたクラークの信仰は大きな影響を二期生にも与え、彼らの中から宮部金吾、内村鑑三、新渡戸稲造などの優れた信仰者が出たのでした。

 この誓約は二部から成っており、罪を贖うキリストの救いを信じること、それゆえに十戒を守る生活を送るというものです。すなわち十戒を守る生活が彼ら若者たちの信仰生活のしっかりとした枠組みとなり、札幌バンドの若者たちの成長を導いたのでした。宮部金吾17才、内村鑑三16才、新渡戸稲造15才の時に誓約しています。

 僅か10ヶ月間しか教えずに帰国したにもかかわらず、後から入学してきた生徒たちにまで素晴らしい生涯を送らせた教育の成果は、とりもなおさず「耶蘇の信徒の誓約」が生み出したものに他なりません。キリスト信仰と十戒を心に刻むことが、どれほど大切かを改めて知る思いがします。

 十戒の最初の言葉に注目しましょう。 「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」これは神さまの自己紹介です。神さまとはどういうお方なのでしょうか。私にどんなことをしてくださるお方なのでしょうか。ここで神さまは、ご自分がイスラエルの民にどんな事をしてくださったかを単純明快に語っておられます。それは奴隷から自由人への解放者でした。

 奴隷とは人間らしく生きていけない状態をいいます。貧しさや弱さの故に、周りから人間扱いされなくなっている場合もあるでしょう。あるいは自分の意志の弱さから自分で人間らしく生きられなくなっている場合もあるでしょう。また強い者の理不尽な暴虐によって、しいたげられている場合もあります。しかし神さまはそのような奴隷状態から私たちを救い出し、神さまから与えられた本来在るべき姿をもって自由に生きていけるようにしてくださるお方なのです。

 続いて十戒の第一の戒めを見てみましょう。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」 英語のKing James Version では ”Thou shalt have no other gods before me.”

 剣道では、相手の真正面に我が身を置き、相手の目を見据えながら相手の全身を捉え、相手の心の動きを察知して、全身全霊を込めた攻防をする修練を積み重ねていきます。相手と自分の間に邪念を入れてはなりません。瞬間の動きが乱れるのです。

 これと同じ様に、神さまの真正面に我が身を置き、真剣に神さまに向かう時には、神さまと私以外の何物も入る余地はありません。一対一で全身全霊を込めて相対峙することは、剣道以上に信仰においては大事なことではないでしょうか。

 友だちは少ないより多いほうが良い。しかし一体となる夫と妻の場合は一対一、その間に他の何者も入る余地はありません。アブラハムとサラ夫婦になかなか子どもが生まれなかった時、サラは自分の召使ハガルにアブラハムの子を生ませて、跡取りにしようとしました。しかしアブラハムとサラとの間にハガルが割り込んでくることによって、夫婦の愛に亀裂が生じました。そこでサラはハガルを追い出してしまいます。(創世記16章)随分手前勝手なひどい話です。でも夫婦の真剣な一体性と一夫多妻とは決して両立いたしません。

 だとしますと、神さまと私との関係も当然一対一でなければなりません。もしも神さまを二人・三人持つことが出来るとすれば、その神さまと本当に一体となることを求めていないからに他なりません。神さまと一体にならずに、どうして神さまの真実の命を受けることが出来ましょうか。あっちの神さまと相談し、こっちの神さまにお願いして、本当に真実の信仰が確立するのでしょうか。

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」神さまの前に立つのは私です。右を見、左を見てさてどうしようかという問題ではないのです。「あなたにはーーーあってはならない」あくまでも私が問われています。私が全身全霊をこめて神さまの御前に立ち、真っ直ぐに神さまを見上げ、神さまから真剣に聞き、応答していくことが信仰なのです。そしてそこから人間としての真実さ・誠実さが生ま
れてくるのです。

[結]御言葉に聞き従って生きる
 カルメル山での対決で、エリヤは集まって来た民すべてに呼びかけました。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら主に従え。もしバアルが神であるならバアルに従え。」

 バアルは大地の生産力を、地に宿る超自然的な霊の力だとして、神格化した神です。しかし雨が降らず飢饉になれば、地は干からびていきます。作物を豊かにもたらすバアルの力は衰え、無力さを現します。飢饉になればバアルはどうすることもできないのです。豊かな収穫をもたらすアシュラの女神も同じです。だから預言者850人が、朝から午後3時まで大声で叫び血を流して呼ばわっても、答えることが出来なかったのは、当然でした。

 偶像は、ご利益を求める人間が作り上げた、神に値しない像でしかありません。それを有り難がたらせ、人々に拝ませているのは、その宗教を利用して自分の支配権を確立しようとしている王妃イザベルの政治的たくらみでした。エリヤの問いかけに民衆が一言も答えられなかったのも、主の預言者を迫害し殺しまくるイザベルの権力を恐れたからでしょう。

 支配権力と結びつき、利用されて堕落する宗教のおぞましさを、私たちは歴史のなかで繰り返し学んできました。宗教と政治の混同、教会と国家の癒着は、人権を  抑圧し、批判を許さぬ国家権力の神聖化と、教会の世俗権力化をもたらします。  政教分離の原則はバプテストの先達が勝ち取ってきた大切な嗣業であることを、あらためて自覚したいと思います。
 
 先週、東日本大震災の最中での、山浦医師の証をご紹介しました。津波に襲われ九死に一生を得た山浦さんは、瓦礫の山の中で涙を激しく流します。しかしその時「わが神わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスさまの叫びが心に響いてきました。そして「よし、へこたれないぞ!」と決意したそうです。どうしてでしょうか?

 主が叫ばれた言葉は、詩編22編の冒頭の言葉です。その後には「私たちの先祖は貴方により頼み、救われてきた。助けを求めて救い出され、裏切られたことはない」という絶対的な信頼が歌われているのす。だから山浦さんは「命を助けられた自分も、神さまの御用に用いられて働かなければ」と思ったのでした。これが信頼を寄せて神さまからの語りかけを聞きながら、それに答えて生きていく信仰者なのですね。

 神さまは、必ず私たちの叫び、呼びかけに答えてくださいます。どんなに絶望的な状況になろうとも、必ず救いの御業を行われるお方です。信じて、神さまの語りかけに耳をすませ、御言葉に聞き従い、神さまの御用に用いられて生きる生き方をして参りましょう。     完

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