日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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2013414日川越教会
心の安らぐ日を持つ大切さ(後半)
                  加藤 享
  (前半より)
[2]祝福を失ってしまう私たちの罪深さ
では祝福に満ちた良い安息日の守り方とはどのようなものなのでしょうか。犬養道子がこのように書いていました。「汝、週の終わりの一日を聖なる日とせよ、安息の日とせよ――安らいだ一日を大切にする時、人は真に人となるであろう。働きは良いものだ。労働は尊いものだ。しかし人の目は、時に安らぎつつ、いつもとは違うはるかに美しいもの、善きもの、真なるものに向けられねばならぬ。仕事にかまけて、普段は出会うことの出来にくい親と子、友人同士の心と心の静かな語らい、いつもはなおざりにしか見えていない空や樹や陽光や雨の滴りなどに、ふと思いをひかれて、そこに無言歌を聞き、詩を読む――それらすべては『聖』に近い」(聖書の世界)
 
安らいだ一日を大切にする時、人は真に人となるであろう――何といい言葉でしょうか。しかも自分だけでなく、家族や奴隷、家畜や他国人をも大切に労わり、皆で安らいだ一日を送る時、心と心の静かな語らいが生まれ、人はまさに神さまの姿にかたどって造られた人間になるのです。もしも安息日が命あるもの全てと共に、豊かな祝福をいただく日として神さまがお定めになったのでしたら、安息日を大切にする人々からは、そのような祝福が溢れ出て来るはずではないでしょうか。
 
そして、腹を空かせて麦の穂を摘み始めた人を見かけたならば、何故そんな事を安息日にするのかと咎める前に、何か食べ物を与えようとするのではないでしょうか。片手の萎えた人を使って主イエスを陥れようと企むよりも、不自由な体で生きなければならないその人の悲しみを思いやって、主イエスと一緒にその人と、安息日の豊かな休息と喜びとを分け合おうとするのではないでしょうか。
 
創造の御業の完成!――それはこの片手の萎えた人にとっては、手が癒され、両手を自由に使って働けるようになり、神さまから与えられた役割を十分に果たすことが出来るようになることです。だから手を癒そうとした主イエスの方が、ファリサイ派の人よりも安息日の目的を実現しようとしておられるのです。それなのに ファリサイ派の人々は主イエスを殺そうとし始めたのでした。恐ろしい心の動きです。悲しい罪深さです。自分たちの根本的な誤りが分からなくなっていたのです。
 
以前に学校の校門の鉄の扉に頭を挟まれて、女子高校生が死ぬ悲劇が起こりました。生徒の遅刻をどうやって無くすかに頭を悩ました学校が、先ず先生が校門で生徒を出迎えて声をかけるようにしてみましたが、効果が出ません。遂に時間になったら先生が校門を閉めてしまうことにしたのです。そして急いで頭から前のめりに校門を入ろうとした女子生徒が、時間通りに先生が閉めた重い鉄の門に頭をはさまれて、死んでしまいました。
 
遅刻を取り締まり、規律正しい生徒にしようとしたのも、生徒を思ってのことでしょう。でもその規則で生徒が殺されてしまいました。私たち人間のすることは、昔も今も常にこのような罪深さが付きまとっています。そのことを私たちは心に留めて、恐れを抱いていなければならないと思います。
 
[3]魂の休息
マタイ福音書では、主イエスとファリサイ派との安息日をめぐる激しい対立の記事は12章に記されています。そしてその直前の11章の終わりに、あの有名な主イエスの招きの言葉が記されています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
 
主イエスは「貴方がたを休ませてあげよう」とおっしゃりながら、人生の重荷を載せた車を引いて行くつらい歩みを、もうしなくてもよい、くびきをはずして開放して上げようとはおっしゃっていません。「貴方のくびきを私のくびきと取り替えて、私に学びながら荷車を引いてごらん」とおっしゃっているのです。私たちは重荷を背負って生きていく労苦から解放されたいと願います。でも重荷を降ろして身軽に生きる人生などないのです。
 
「私のくびきに代えてごらん。そして私に学びながら、もう一度荷物を担ぎ直してごらん。重荷を耐えられないものにしているのは、くびきが体にピッタリ合っていないせいではないか。そして働き続けよう。貴方の魂に本当の休み・平安が与えられるよ」と主イエスは語りかけておられます。靴が足に合わないと痛くなってあるけません。それと同じです。
 
イエス・キリストのくびきは柔和と謙遜のくびきです。「柔和」の反対語は「荒い、怒った、闘争心、悪意」です。荒々しさは心身をすぐに疲れさせます。柔和・優しさが平和と安息をもたらすのです。「謙遜」の反対語は「権力にある者、思い上がる者、富んでいる者」です。ですから謙遜は神の力が働く低さ、弱さを言います。そうです。私たちの心が荒々しくなっているからすぐに疲れるのです。誇り高ぶろうとあくせくするから疲れるのです。
 
イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋で誕生されました。最も貧しい誕生です。でも飼い葉桶に休む御子の笑顔には、平和と恵みの光が輝いていました。またろばの子の背中に乗ってエルサレムの都に入城し、「自分を救ってみろ」と口々に罵る人々のために「父よ、彼らをお赦しください」と祈りながら、十字架の上で死んでいかれました。イエス・キリストこそ、柔和と謙遜のくびきをつけて救い主の勤めを全うされたお方です。その柔和と謙遜のくびきをつけて、重荷を負う時に、私たちの魂にも本当の休息が与えられるのです。
 
[結]安息日を持つ
まだ小さい子ども4人を残して夫に先立たれた婦人が居ました。これからは父親・母親の二役を果たさなければならなりません。葬儀が終わると懸命に働き始めました。一年経ってふと気がつくと、子どもたちがとげとげしくなっています。はっとさせられました。そこで夜、夕食の後片付けを済ますと、彼女は食卓に座って編み物をしました。すると子どもたちが集まってきて、母親に身を寄せたり、そばの畳に寝そべって本を読んだり、食卓で勉強を始めたりし出したのです。ほっとする安らぎが、家族の和やかさを取り戻してくれました。
 
神さまは、七日目に仕事を一切やめて安息する一日をお作りになりました。「安らいだ一日を大切にする時、人は真に人となるであろう」と犬養道子は言っています。私たちは忙しく働く毎日から我が身を切り離して、全く違う日、安息日を持つ必要があります。そして自分が神さまによってどのように造られたものであるかを、神さまから繰り返し聞きなおす必要があります。
 
Blue Monday(月曜病)という言葉を耳にします。土日の遊び疲れで月曜日は仕事の能率が落ちる現象です。安息日は元気を回復して良い仕事をしていくための休日のはずです。もしも心がうつろだとしたら、神さまの祝福の言葉を聞かなかったせいではないでしょうか。イエス・キリストの柔和と謙遜にふれて、その愛のくびきを身に付けて働くことを学ばなかったからではないでしょうか。
 
本当に心の安らぐ日を持ちましょう。神さまは私たち一人ひとりを極めて良いものにお造りくださっているのです。その姿を取り戻して、私が真に人となる日をきちんきちんと持つようにいたしましょう。
 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と呼びかけておられるイエス・キリストの言葉を聞きましょう。キリストから柔和と謙遜のくびきをいただき、本当の安らぎを周りの者と分かち合いつつ、共に生きて参りましょう。  完

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