日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

全体表示

[ リスト ]

201362日川越教会
神に呼び出された青年(前半)
                     加藤 享
 
[聖書]エレミヤ記1章1〜13
 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
  主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。   見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと、見張っている(ショーケード)。」 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる、この地に住む者すべてに。」
 
[] 預言者エレミヤの登場
 私たちは、5月に旧約聖書の預言者イザヤを学びましたが、今月はエレミヤの予言を学びます。エレミヤ書の書き出しによれば、彼は南王国の都エルサレムから北東56km離れた小さな村アナトトに暮らす祭司ヒルキアの子です。北王国がアッシリアに滅ぼされてから約68年後の紀元前650年頃に生まれたと言われています。そしてヨシア王(BC640 609)の治世第13年(628)に神さまから預言者に立てられました。イザヤよりより114年程後輩の預言者、しかし釈迦よりも100年近く昔の人です。聖書の世界は仏教よりもずっと古いのですね。
 
 1章の3節によりますと、彼はゼデキヤ王の治世11年(587)にエルサレムの都がバビロンによって落城し、南ユダ王国が滅び、主だった大勢の人々が捕囚となってバビロンに連れて行かれる迄、預言者の活動を続けたとあります。(13)しかし実際には、その後エジプトへ連れて行かれ、そこでも予言活動をして死にました。国が滅びる激動の時代に、50年近く神さまに用いられた預言者です。
 
[1] エレミヤの召命
新共同訳聖書では、1章4節の前に「エレミヤの召命」という小見出しがついていますね。この召命という言葉は、日本の代表的な辞典「広辞苑」(岩波1955年版)、また新しい「実用新国語辞典」(三省堂1987年版)には記載されていません。1989年に講談社から出た「日本語大辞典」に至ってやっと登場します。そこにはこう記されています。「キリスト教用語。神が特定の人を選んで一定の仕事をたくすこと。またその仕事、vocation
 
 このように召命という言葉は日本固有の文化にはなかったものでキリスト教用語 なのです。聖書には、言葉をもって語りかける神さまと、その語りかけに応答して生きた人間、又それを無視して生きた人間の人間模様が歴史を通じて記されています。
 
日本語大辞典によりますと、召命とは、1)神が選ぶ 2特定の人に 3)仕事をたくすという、三つの要素から成っていると説明されています。これをエレミヤ書1章に適用すると、「1)主なる神がアナトトの祭司ヒルキヤの子エレミヤを選んだ 2)主は彼を生まれる前から預言者に決めていた。3)主は彼に諸国民・諸王国に対する預言者の仕事を託した」ということになります。
 
エレミヤの冒頭の言葉に注目しましょう。「主の言葉がわたしに臨んだ。わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」
 
この私は偶然にこの世に生まれて、今生きている者なのでしょうか?居ても居なくてもかまわない者、つまらない存在なのでしょうか?こんな者でも親が懸命に愛し、育ててくれた、だからくだらない生涯を送っては申し訳ない、せめて親の恩に報いなければ、と生きる意義を説く人もいます。否、違います。私は偶然この世に現れたのではありません。私を形造り、誕生させ、この世で生きる者にして下さったお方がいらっしゃる。世界の創造主、神さまがいらっしゃる――これが聖書の信仰です。
 
私を母の胎内に宿し、形造り、育て、この世に誕生させた神さまは、私の生涯にご自分の計画、期待を託して、私を誕生させて下さった。私はその期待を担って今を生かされている――これが青年エレミヤが聞きとった神さまの言葉、「母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」だったのです。
 
ではエレミヤはこの召命を何時、どのようにして明確に受け取ったのでしょう。内村鑑三はエレミヤを「余の特愛の預言者」と呼んでいますが、こう推測しています。「多分、青年エレミヤがアナトテ付近の郊外を独り歩みし時、あるいは古きオリーブ樹の下に独り黙想にふけりし頃、彼の心琴に幾度となく触れし、細きかすかな声があったろう。彼は幾度となく打消さんとせしが、しかしその声は去らなかったであろう。彼は遂に彼の預言者として神の預定されし者であることを、信ぜざるを得ざるに至ったのであろう」
 
 内村がこの様に自然を逍遥する青年の姿を推測したのは、11112節の言葉によると思われます。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと 見張っている(ショーケード)。」
 
 「アーモンド(シャーケード)(口語訳では「あめんどう」)は、パレスチナではすべての木に先駆けて1月の終わりか2月の初めに花をつける木です。私たちが長く暮した北海道の札幌でいえば、雪がまだ積る3月末に、山の麓に咲くコブシの花にあたるでしょうか。万物が眠っている真冬のさなかに、早くもあざやかな花を咲かせる準備を始める木の細い枝に現れる変化を、エレミヤも観察していたのです。
 
混沌とした歴史の中で、神さまが独り、ご自身の裁きと救いの御業を行われる時期を見計らっておられます。神さまは自然の変化を鋭く観察している青年エレミヤに注目されました。そして御自分がこれから成し遂げようとしていることを、この若者に お示しになったのでした。再び神さまは言われます。「何が見えるか。」エレミヤは答えました。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」これは、北の強国の攻撃によって、南王国も滅ぼされる災いが襲いかかってくるという予告でした。
                (後半へ)

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事