日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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2013年6月16日渋谷教会
何を大切にするか(前半)
        コリントの信徒への手紙一 4章1〜13節                                               加藤 享
 
[] 牧師の役割
或る教会で他の教派から移ってきたけれども、会衆主義のバプテスト教会はどうしても馴染めないと言って、去って行かれた方がいました。「神の僕として特別に召された牧師先生も、長い信仰生活を忠実に送ってきた自分も、昨日バプテスマを受けて教会員になったばかりの人も、教会総会では皆同じ一票で事を決めるのはどうしても納得がいかない。先ず牧師先生が、その次には自分のような信仰暦の長い信者の意見が尊重されて当然ではないか」と言うのです。
 
また或る教会の牧師就任式で近隣教会の代表が「牧師先生を中心にして教会が発展していきますように」と祝辞を述べておられました。牧師先生の霊的指導の下に教会員が一致協力して伝道の進展をはかるというのでしょうか。たしかに牧師のいない教会では、役員同士の意見がばらばらで後任の牧師招聘すらもスムーズに決まらないという例を耳にします。教会の一致は牧師が要(かなめ)なのでしょうか。「神の僕として特別に選ばれた牧師先生の権威」とは何でしょうか。
 
[1] 船底で船を漕ぐ務め
コリント教会では、勝手にパウロを担ぎ上げたり、アポロを担ぎ上げてグループを作り、張り合うことで教会の一致が損なわれていました。そこでパウロは3章では、パウロもアポロも主がお与えになった分に応じて、植える、水を注ぐという働きをした奉仕者に過ぎず、成長させてくださる神こそが大切だと言いました。
 
そして今日の4章では、先ずパウロは「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と述べています。
 
仕える者」と訳された語は、本来は「下の漕ぎ手」です。昔の地中海で活躍した大型の軍艦ガレー船には櫓を漕ぐ場所が二段、三段の階層になっていました。そして船尾に座をしめるリーダー格の男が太鼓を打つように規則正しく板木を叩くと、各階層の奴隷たちがその音に合わせて一せいにオールを漕ぎます。単調でしかも 全力を振り絞って漕がなければならない過酷な労働です。その下層の漕ぎ手を「下の漕ぎ手」と言い、「人の下で働く者」「仕える者」を指すようになりました。
 
パウロはコリント教会を創設した自分も、後に来て奉仕したアポロも、キリストの前では最下層で船を漕ぐ奴隷だと言います。また神の秘められた計画、すなわちこの世の知恵をもってしては悟ることの出来ない、神の知恵である十字架のキリストの福音を委ねられた管理人だと述べています。この管理人も主人の家の管理を任された僕で、身分は奴隷です。主人に対して絶対的な忠実さが求められていました。
 とにかくパウロ曰く、牧師先生は船長ではなくて、船底で忠実に船をこぐ漕ぎ手の一人なのですね。あるいは主人の家の管理を任された奴隷なのですね。
 
そう自覚するパウロは、コリントの教会と自分やアポロとを対比させて、あなた方はキリストを信じて優れた者、賢い者、強い者になり尊敬されているが、私たちはキリストのために愚か者となり、弱く侮辱されている。あなた方は勝手に大金持ち、王様になっているが、神さまは私たち使徒を、まるで死刑囚のように世界中の見世物になさったと言っています。
 
ローマではネロの迫害の時、大きな円形競技場に集まった見物人の前で、クリスチャンたちは十字架刑にされたり、飢えたライオンの餌食にされて食い殺されました。 ペトロもパウロも、そのような殉教の死を遂げたと言われています。どうしてパウロは、使徒であり、コリント教会の生みの親である自分を、そのように弱い、惨めな者として強調したのでしょうか。
 
それはパウロがキリストに仕える者だからなのです。パウロは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外何も知るまい、と心に決めてコリント伝道を始めた」と2章で述べました。パウロが絶対の忠実さで仕える主人のイエス・キリストは、十字架につけられて人々の嘲笑のなかで死んでいかれた救い主なのです。
 
[2]  弱さと愚かさの究極に救いを見る信仰
日本人に人気が高い水戸黄門の諸国漫遊記では、悪人どもとの最後の大立ち回りの最中に、格さんが指し出す印籠に記された葵の紋所・天下の副将軍の威光で「静まれ、静まれ」と一同を平伏させて悪を成敗します。この痛快さこそまさに正義だと、皆は納得するのです。
 
人々はキリストに対しても「救い主なら今十字架から降りてこい」と葵の紋所を求めました。ところがイエス・キリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら、人々の嘲笑の中で死んでいかれました。水戸黄門と比べるならば、無残な敗北者にしか見えません。しかし死刑を執行したローマ兵隊長は、その敗北者を目の当たりにして「本当に、この人は神の子だった」とつぶやいたのでした。(マルコ1539
 
越後のちりめん問屋のご隠居さんは、葵の紋所で天下の副将軍の威光を現わします。しかしイエス・キリストは十字架の上で絶叫しながら息を引き取っていかれたお姿で、神の子であることをお示しになりました。このキリストを救い主と信じる私たちの信仰は、弱さと愚かさの究極に、神さまの無限に深い憐れみと救いを見ていく 信仰なのです。ですからパウロは、十字架のキリストと同様に自分が弱い者、愚かな者、侮辱される者であって当然だと、自覚していたのでした。
 
ところがコリント教会の人々は、パウロとアポロを比べて、どちらがより優れているかを自分たちで判定して、片方を持ち上げ、片方をないがしろにして、徒党を組みました。これに対してパウロは、コリント教会の人たちは、親分を選んで担ぎ上げようとしているのだから、自分たちは子分だと思っているのだろうが、それは違う、逆だと言っています。
 
そうです。入社試験の例を考えて下さい。応募者と、その優劣を判定する試験官とどちらが上でしょうか。合格者がどんなに優れているとしても、そういう彼を選ぶ試験官の方が経験・知識が上なのです。ですからパウロをアポロより優れた牧師だと判定する、或いはその逆にアポロをパウロより優れた教師だと判定するあなた方は、パウロやアポロよりも信仰が豊かになったのであり、勝手に信仰の大金持ち気分王様気取りを演じていることになるのだと、指摘したのでした。
                 (後半へ)

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