日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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[聖書]ヨハネによる福音書13章12〜15節
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

[序] 新しい掟とは
私たちのキリスト教信仰は旧約聖書を聖典とするユダヤ教信仰の中から生まれてきました。そしてキリスト教会が新約聖書を生み出し、旧約聖書・新約聖書を併せて信仰の規範・聖典として、十字架にかけられたイエスを救い主キリストと信じるキリスト教信仰を確立しました。

旧約聖書の中心的な律法は、「全身全霊をもって主なる神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」です。神さまと人に対する姿勢の基本的教えです。私たちは様々な人間関係の中で生きています。誰だって自分が一番可愛いものです。自分を愛するその切実さをもって、どんな人であろうと自分の隣りに暮す人を愛し、互いに愛し合う関係を作っていくことは、本当に大切です。対人関係については、この掟でもう十分ではないでしょうか。

ところがイエスさまは、最後の食事の席上で弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34) どの点がイエスさまによって初めて教えられる新しい掟なのでしょうか?「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合う」という点でしょう。ではイエスさまが私たちを愛されたようにとは、具体的にどういう愛し方でしょうか?

[1] 僕となって足を洗うとは
イエスさまは地上のご生涯最後の夕食の食卓に着かれるや、席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水を汲んで弟子たち一人ひとりの足元にうずくまって、その足をお洗いになりました。足を洗うのはその家の奴隷の仕事です。当然弟子たちはびっくりしてしまいました。恐縮しました。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後でわかるようになる」 ペトロは申しました。「私の足など、決して洗わないで下さい」「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」

こうして弟子たち皆の足を洗い終わると、イエスさまは上着を着て、席にお戻りになり、こう おっしゃったのでした。「主であり師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

先生と言われる者が自分の弟子たち、生徒たちの足の汚れを、奴隷のように身を低くして洗うなどということが、この世で行なわれるでしょうか。そんなことあり得ないですよね。そんな お手本など誰も見たことがありません。ですから主であり師であるイエスさまは弟子たちの前で、わざわざ模範を示されたのです。これは弟子たちの心に強烈に刻み込まれたに違いありません。

その食事の後で、足を洗っていただいた12人の弟子たちの中からユダが裏切りの行動を起こしました。またその後でペトロもイエスなど知らないと三度も嘘をついて、主を裏切りました。イエスさまは弟子の裏切りをご存知でした。それにもかかわらず自分を裏切る者の足をも、身を低くしてお洗いになったのです。「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後でわかるようになる」とイエスさまがおっしゃったのは、このことを指しています。互いに愛し合うとは、たとえ自分を裏切り、自分を捨て、或いは敵になって襲いかかってくるような人に対しても、自分をよくしてくれる人と同じに、身を低くして、足の汚れを洗って上げることなのです。 どんな人をも愛するとは、このような愛なのですね。

更に次の朝になると、イエスさまは十字架にはりつけにされて、人々の嘲りの中で死んでいかれました。「成し遂げられた」というお言葉を遺して死んでいかれました。天の父なる神さまから与えられた業、信じる者に永遠の命を与える業を成し遂げて死んでいかれたのです。 これが究極の僕の姿にほかなりません。僕となって足を洗うとは、自分の命を捨てて、相手に豊かな本当の命を与えていく愛の行為でもあったのです。

たとえ自分を裏切る人であっても、身を低くしてその人の足を洗う、十字架刑という最も卑しい刑罰を受けてでも、相手に豊かな命を与えるために。自分の命を与えていく――イエスさまが示された僕となって足を洗うとは、何と深くて豊かな愛をこめた行為でしょうか。私があなた方を愛したようにとおっしゃるイエスさまの愛とは、何と大きな愛でしょうか。このような愛を、誰がよく知っていたでしょうか。自分を愛するように隣人を愛するという愛を、はるかにはるかに超えています。ですからイエスさまは、「あなた方に新しい掟を与える。私が愛したように、互いに愛し合いなさい」とお命じになったのでした。

[結] 謙遜な日本人になるには
人という字は二人が互いに支え合って立っています。小さな右側の人が大きな左側の人を下から支えています。大きな左の人の体重が上からのしかかってきて、さぞしんどいことでしょう。支えてもらっている人の方が楽そうです。誰でも楽な役に回りたいものです。でも下から支えている人が、馬鹿らしいからと止めたら、相手ばかりでなく、自分も倒れてしまうのです。ですからこのようにして下から支えながら、自分も支えられて立っていることを喜び感謝できたら、お互いにどんなにか、楽しく一緒に生きていけるでしょうか。
私たち夫婦はシンガポールに10年暮しました。シンガポールは小さな都市国家ですが、日本に次いで経済的に豊かです。日本以上に清潔で安全で、東洋の別天地です。自動車の80%は日本車で、多くの人が日本企業で働いています。日本を抜きにしてはシンガポールの繁栄はありません。ですからともすると日本人は優越感を抱いて、アジア人を見下ろしてしまいがちです。そしてアジアの人たちも、いばる日本人に対して、心の中で反感を抱いています。そのことに日本人は鈍感です。

時折、中国で反日デモが起こりますが、若者たちは日本を「小日本」(xiao Riben)と呼びますね。「日本人よ、でかい顔するな」という叫びでしょう。日本と中国はお互いを必要としています。先ず日本が身を低くして中国を下から支えることが、今一番求められているのではないでしょうか。威張る日本人は嫌われます。僕の務めを喜んでしていく日本人こそ、和解と友情の絆を強めることが出来ます。アジアの諸国も下から支えてくれる右側の人、右側の日本人を求めています。

では私たちはどうしたら右側の人に徹する謙遜な日本人になれるでしょうか。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」 弟子たちの足を洗われたイエスさまを模範にすることです。そのイエスさまと結びつくことによって、僕となって弟子たちの足を洗われたイエスさまの愛をいただくことです。そういう日本人が増えていくように、私たちが先ず家族や友人たちの足を洗うことです。イエスさまを証しして参りましょう。そして下から支える右側の人を、一人二人と増やしていきましょう。    


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