日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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[聖書]ヨハネによる福音書15章1〜7章
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

[序] 沖縄「命(ぬち)どう宝」の日
先の太平洋戦争の末期、沖縄にアメリカの陸海空軍の大部隊が襲いかかり、日本軍との間に壮絶な地上戦が展開されました。逃げ場を失った大勢の市民が巻き込まれ、軍民併せて約24万人の命が失われたそうです。そこで日本軍司令官が自決して、組織的な地上戦の終結した1945年6月23日が、沖縄慰霊の日として守られるようになりました。

宮腰姉のアッピールにありましたように、日本バプテスト女性連合は2007年の総会で、この慰霊の日を沖縄「命(ぬち)どう宝」の日として、平和のために、知り・祈り・共有する日にしようと決議したそうです。私はうかつにも知りませんでした。女性会から今年からは川越教会でもこの決議を受けとめて、礼拝を守って欲しいと要望が出ましたので、私も聖書教育で定められている聖書の箇所から、平和のメッセージを聞き取って、お取次ぎさせていただきます。

[1] 久米島の惨劇
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5) これは有名なお言葉ですね。ユダヤ地方の丘陵地帯は豊かなブドウの栽培地です。ぶどう酒は水の少ない地方に暮す人々にとって、欠かせない飲み物でした。ですから豊かな実を結ぶぶどうの木が、何よりも大事にされ、求められていました。ヨハネ福音書では、イエスさまがまさに救い主であることを現す最初のしるしとして、水を特上のぶどう酒に変えた出来事を紹介しています。

イエスさまがカナの村の結婚式に弟子たちと招待された時のことでした。花婿が精一杯に準備したぶどう酒が祝宴の途中で底をついてしまい、あわや祝宴が中途でお開きになりかかりました。するとイエスさまが、僕たちに井戸から水を汲んでこさせて、大きな水がめ6つの水を全部特上のぶどう酒に変えてしまう奇跡を行なって、祝宴を更に盛り上げ、若者の前途を祝福して下さいました。人々はどんなに喜んだことでしょう。まさに豊かなぶどう酒は、豊かな 神の祝福を表していると言えます。

「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とは、わたしにちゃんとつながっている人は、祝福を豊かにもたらす人生を送ることになるという意味に受け取ってよいでしょう。どうしてイエスさまに結びついていないと、祝福の実を豊かに結べないのでしょうか。

昨年7月の女性連合の機関誌「世の光」に、沖縄バプテスト連盟女性会会長野原さんの「沖縄・久米島の記憶より世界を考える」という一文が載っていました。野原さんは、沖縄本島から100キロ離れた小さな久米島の出身ですが、この小島で日本が無条件降伏した8月15日が過ぎても幾つかの家族が日本兵に虐殺されたのだそうです。

明勇さんは陸軍上等兵でしたが、6月初めに沖縄本島の戦闘で捕虜になり収容所へ入れられました。米軍が久米島を攻略する際に道案内人として連れて行かれた時に、久米島は無防備の島であることを説明したので、米軍は総攻撃を取り止めたそうです。明勇さんは米軍と一緒に久米島に上陸し、山の中に避難している住民たちに「米軍は住民に危害を与えないから、安心して家へ帰りなさい」と告げて回りました。すると8月18日に米軍のスパイだとして、日本兵たちから奥さんと1才の子供もろともに虐殺されてしまいました。

8月20日に起った谷川昇さん一家の虐殺はもっと酷いものでした。先ず彼が首にロープをかけられ、数百メートルひきずられて息絶えました。10才の長男は浜辺の小船に投げ込まれ、銃剣で刺し殺されました。奥さんは背負っていた乳児、抱いていた2才の次男をおろすように命じられ、後から首を切られました。泣き叫ぶ乳児・幼児も母親の死体の上に重ねられて、切り殺されました。7才の長女、5才の次女は隠れていた小屋から出てきたところを捕えられて、切り殺されました。夜の10時前後、月の光の下での惨劇でした。

[2] 異常な行動へ駆り立てる戦場の恐ろしさ
このように久米島では、日本が無条件降伏した8月15日以降に住民虐殺が次々と起ったのです。日本兵は戦争が終ってもどうして住民を殺さねばならなかったのでしょうか。当時の陸軍軍曹がこう答えたそうです。「我々の部隊は30名しかいない。相手の住民は1万人もいる。彼らが米軍側についたら、我々はひとたまりもない。だから見せしめのためにやったのだ」

野原さんはこう語っています。「戦争の恐ろしさとは、人間を異常な行動へと駆り立てることです。他者を憐れむ心、命を慈しむ思い等神が与えてくださった美しい心が、存在する余地を与えられません。国家や個人が自分の立場で正義を語り、自分の命を死守するためには、たとえ幼児の命を犠牲にする行為であれ、手段をいとわない。これが戦争によって変えられていく人間の姿ではないでしょうか。この久米島の惨劇は、神から離れることによって全ての人間が陥る自己中心性を、私たちに突きつける出来事だと思います。」

「私たちうちなんちゅ(沖縄人)が戦争を語る時、それは決して日本やアメリカへの恨み言や憎しみから語るのではありません。ただ憎しみと恐怖の中で、人間は誰でもこのように恐ろしい加害者になり得るという危険性を、沖縄戦を通して皆さんに認識していただきたいのです」
「平和に思える日常生活の中でも、自己中心的生き方をするのなら、私たちの人生も、あの久米島の虐殺事件の延長線上にあると思うと、身が震えます。」「事件を他人事として批判するだけで終らせず、自分自身の中に住む罪の性質に気付き、日々主の前に畏れつつ、心を守っていただくことが大事なのではないかと思うのです」「平和は政治によって実現するのではなく、私たちの心の内に先ず実現されなければならないと思います」

乳児、1才、2才、5才、7才、10才の子供たちを親もろともに銃剣で突き刺し、軍刀で切り捨てていくという残虐な行為を、兵隊たちは自分の故郷で我が子たちにやれるでしょうか。ところが戦場では我が身を守るために、次々とやれてしまう異常さ。それが戦争の恐ろしさなのですね。今年から新しく日本の女性連合会長になられた蛭川さんが、書いています。

「平和とは、幼子たちが温かいまなざしを受けて、安心して生きられる世界、平和とは、すべての命を慈しめる世界、平和とは、他者の幸福を願える世界、平和とは、互いを喜び合い尊重できる世界、その世界の実現のために神さまは私たちを召されたのではないでしょうか。」本当にそうですね。私たちはそのような平和な世界を何としても作り出さねばなりません。

沖縄の野原さんは、久米島の30人の日本兵だけが特別に残虐だったとはみていません。 自分自身の内にひそむ罪深さを見つめて、神さまから離れて自己中心的な生き方をするならば、私たちの人生もあのようになるのではないかと、身震いしておられます。だから神さまはイエスさまという救い主となって、私たちの世界に来て、生きて、十字架に死んで、復活して、天国への道を開いて下さったのでした。

[結] 望むものを何でも願いなさい
私たち夫婦はシンガポールに10年暮して、日本国内にいる人よりは歴史の一端を少しは広く知ることが出来ました。日本から遊びに来た大学生は、体験入学した地元の高校で生徒たちから戦争中の日本軍の残虐行為を聞かされて、泣いてしまいました。日本人がこの美しい国でそんなに酷いことをしたことを知らされたショックと、自分たちが日本で何も教えられずにのん気に生きてきた恥ずかしさ。 私たちは先ず知ることが大事ですね。私は久米島の恐ろしい惨劇を知りませんでした。沖縄についてもっと知ろうとしなければならないと思いました。そして祈ること。そして経験を共有し合い平和を一緒につくり上げていくことの大切さを知りました。

イエスさまはわたしにつながりなさいと呼びかけておられます。そうです。自分の命だけを大事にしているから、いざとなると、赤ん坊であろうと幼児であろうと、幾人でも殺せてしまうのです。人の命を大切にする愛が必要です。自分の命を後回しにしてでも人の命を守ろうとする行動は、自分を十字架にはりつけにした人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ、その罪を我が身に引き受けて死んで下さったイエスさまに、しっかり結びつくことで与えられるのです。

「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」 そうです。イエスさまを離れては、自分を捨てて人に仕えていく愛は、私たちの内からは生まれてこないのです。「わたしにつながり、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」 私たちは何故聖書を繰り返し読むのでしょうか。それは、イエスさまの言葉を心にいつも蓄えながら祈る時に、その祈りは必ずかなえられるからです。自己中心的な私たちでも、イエスさまの力の助けをいただいて、愛の実、平和の実を結ぶことが出来るようになるというお約束です。何と嬉しいことでしょうか。

我が身第一、何としても自分を守らねばという思いを抱いて生きる限り、この私も久米島の 日本兵になってしまうかもしれないのです。そんな人生からどのような実がなるのでしょうか。「他の人の命を大事にする。自分の命もそのために使うのだ」という心――これが「命(ぬち)どう宝」ではないでしょうか。

イエスさまに結びついて生きる大切さを、周りの方々に証して参りましょう。平和の実を結ぶ人生は、ここにしかないことを、証して参りましょう。   


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