日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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[聖書]イザヤ書1章10〜17節
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。

[序] 最上の人生
私は日本が戦争に負けて、それまで抱いていた人生の目的を失いました。どう生きていくべきかを必死に模索し、聖書に出会いました。ひとりで読んでもよく分からないので教会に通い始めました。そしてイエス・キリストを救い主と信じて従う人生を選び取りました。以来58年の年月がたちました。

もしも聖書と出会わず、イエス・キリストを信じないままに人生を送ったとしたら、私は今何処でどのように生きていることでしょうか。二つの人生を同時に送って、比較することが出来ません。これまでクリスチャンとして生きてきた自分を、現在どのように受けとめているかをお話することしかできません。

現在私は、自分がクリスチャンになって今日まで生きてこれたことを「本当に良かった。最上の人生を歩んでこれた」と皆さんに申し上げることができます。殊に牧師一筋に生きてくることが出来た−−これほど有難いことはないと感謝しています。もう一度人生を与えられたら、また牧師をさせていただきたいと願っています。

聖書教育のカリキュラムでは、7月から9月の3ヶ月間は、旧約聖書の預言書の中からイザヤ書、エレミヤ書、ヨナ書を学びます。7月4回はイザヤの預言です。イザヤとはどのような預言者だったのでしょうか。今の私がイザヤの預言を読んで聞き取った神さまからのメッセージをお取次ぎさせて頂きます。


[1] 旧約聖書と新約聖書をつなぐ預言者
キリスト教信仰はユダヤ教の中から生まれました。旧約聖書と新約聖書を併せて信仰の規範・正典としていますが、ユダヤ教は旧約聖書のみを正典としています。旧約聖書は救い主メシアを来たりたもうお方と、待ち望む未来形或いは約束として記しています。ですからユダヤ教の人々は今なお、メシヤの来臨を待ち望んでいます。

一方メシアはあのナザレのイエスとなって来たりたもうたと、完了形で記されているのが新約聖書です。ですから新約聖書には、イエスこそ待望されてきたキリスト(メシア)であることを示す旧約聖書の記述が沢山、引用されています。特にイザヤの言葉が一番多く引用されています。ですからイザヤは、旧約聖書と新約聖書をつなぐ最も重要な預言者だと言えましょう。
新約聖書に真っ先に引用されているのも、イザヤの預言です。

新約聖書の書き出しは、イエス・キリストの系図です。これは神に選ばれた民イスラエルの歴史を、代表的族長や王の系図から27人選んで記すことで、旧約聖書の歴史を総括したものです。そしてこの系図の流れから、イエス・キリストがいよいよ誕生されたとして、新約聖書が始まっているのです。この時天使はヨセフに対して、740年前に神さまがイザヤを通して語られた預言がいよいよ実現するのだと言って、受胎告知したのでした。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)

このように大事な預言を次々と新約聖書で用いられている預言者イザヤは、BC740年頃 預言者として神さまに召されました。20才頃でしょうか。そして約40年余の間南王国ユダの都イスラエルで預言活動をした後沈黙し、80才頃に殉教の死を遂げたと言われています。国王と会って話が出来る貴族か祭司の一人でした。ちなみに日本書紀によりますと、日本の初代神武天皇はBC660年に即位したとありますから、神武天皇以前の人物ですね。そのような昔の人の言葉が、今日なお大きな影響を私たちに与えているのです。不思議ですね。

[2] 聖なる神さまの厳しい声
イザヤの時代は、北のアッシリア帝国の興隆期で、イスラエルはその厳しい圧迫により、BC 721年には遂に北王国が滅亡し、やがて南王国もアッシリアに従属せざるを得なくなりました。イザヤ書1章では、南王国ユダの惨めな状況が語られています。「お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは異国の民が食い尽くし」「頭から足の裏まで、満足なところのない」状態だとイザヤは申しています。それは聖なる神さまを侮り、背き去ったからにほかなりません。

しかし国がこの様な状態に陥っても、エルサレムの都に住む王族と特権階級は、豊かな暮らしが出来たようです。彼らは神殿に沢山の供え物を捧げて、神の加護による我が身の安泰を強く祈り求めました。毎週の安息日礼拝だけでなく、新月祭やいろいろな祝祭を盛大に行ないました。神殿の祭司たちは数多く献げられる雄牛・小羊・雄山羊を処理して神に献げる作業に忙殺されて、手も衣服も血まみれになる毎日を神殿で送っていました。その時イザヤの心に疑問が生じてきたのです。
この様な礼拝を果たして神さまがお喜びになっているのだろうか?神さまのみ声が響いてきました。「お前たちのささげる多くのいけにえが、私にとって何になろうか。」「むなしい献げ物を再び持ってくるな。」「お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。」「悪を行なうことをやめ、善を行なうことを学べ」 

善を行なうとは「正しい裁きを実行すること、搾取する者を懲らしめ、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護すること」でした。イザヤは特権階級の献げ物が、社会的弱者からの搾取による不正な富によるものではないのか、ということに気付かされたのでした。彼自身、貴族という特権階級に属しています。また彼が祭司だとしますと、神殿の祭りが盛大となり、献げ物が沢山献げられることは、それだけ祭司も社会的に重要、大事にされることになり、申し分なく結構なことではないでしょうか。

しかし目覚めたイザヤは、神さまの裁きと悔い改めを大胆に語り始めました。「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。それゆえ、主なる万軍の神/イスラエルの力ある方は言われる。災いだ/わたしは逆らう者を必ず罰し/敵対する者に報復する。」(1:23〜24)

彼は良心を麻痺させて、地位や身分に安住する思いを断ち切りました。良心の眼を見開き、悪を見つめて、よくぞ鋭く反省できたものです。断つという字は、左側の偏が本来は米ではなくて、糸が四つからなっていたそうです。細い糸4本位ならば、小さなナイフで十分のように思われるけれども、思いを断つには大きな斧でなければ断ち切れないという意味なのだそうです。身分や地位に付随する特権の悪を断つ――イザヤにとっても大きな斧の一撃が必要だったことでしょう。それを彼にさせたのが、聖なる神さまの声だったのでした。

[結]自分を反省する原点を持つ
シンガポール時代にミャンマーのヤンゴンを訪問した時のことです。飛行機がヤンゴン空港に到着しましたが、機内で私たち一般乗客は長い時間待たされました。窓の外を見ていますと高級軍人の制服を着た人たちやきちんとした身なりの役人と思われる人の一団が、女性と子供を出迎えていました。彼らの車が立ち去ってから、荷物が台車で山ほど運ばれて行きました。軍事政権の幹部の奥さんと子供たちがシンガポールに遊びに行って、沢山の買い物をして帰って来たところだと、隣の席の乗客が説明してくれました。彼らが税関を出るまで、私たち乗客は、機外に出られなかったのです。その後も、軍事政権トップの娘の豪勢な結婚披露宴のニュースが新聞で報じられていました。

一部の特権階級が、当然のこととして贅沢三昧に遊び暮して、何のやましさも感じない。  これがイザヤの時代だけでなく、今日でも世界の至る所で行なわれている現実なのです。これを注意する者、警告する者が彼らの周りには居ないのです。権力にこびる人たちからは、正しい言葉が語られないからです。しかし悪は必ず裁かれます。いくら強力な軍事政権でも、必ず崩壊します。聖なる神さまがお許しにならないからです。
イザヤの偉大さは、特権階級に属しながら、絶えず聖なる神さまの前に我が身を置いて、そのみ言葉を聞き続け、大胆率直に語った点にあります。私たちは、我が身を第一にする思いを断ち切ることが出来ません。殊に弱い者・小さな者の声を無視しがちです。「孤児の権利を守り、やもめの訴えを取り上げよ」という言葉が繰り返し語られています。これが聖なる神さまが求めておられる善なのです。その神さまから背き離れる時に、滅びを招くのです。

私は神さまの言葉を聞くことから離れては生きていけない牧師の立場に我が身を置きました。毎週礼拝を守らねばならない立場に我が身を置きました。有難いことです。自分の誤りは自分では気がつきません。気付いても断ち切ることが非常に難しい。でも私は聖なる神さまの前に身をさらさねばならないことによって、自分の反省の原点を持つことが出来ています。 時々大きな斧の一撃を食らいます。痛烈ですけれども、本当に有難いことです。

こう考えますと、牧師ではない皆さんは、私よりもはるかに難しい立場に身を置いておられるのです。どうぞご用心ください。どうか自分の身を誤らないように、我が身の内に反省の原点をしっかりと据えて、祝福された生涯を全うされますように。聖なる神さまの守りと導きをお祈りしています。


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