日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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[聖書]イザヤ書6章1〜10節
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」

[序] 祈る青年イザヤ
南王国のウジヤ王が死にました。ウジヤは父アマツヤが北王国と戦って徹底的に打ちのめされた後を受けて16才で王になりました。彼は井戸を掘り、農業を振興させて豊かさを取り戻し、見事に国を再建しました。ところがやがておごりたかぶり、神殿で礼拝を捧げる際に、祭司に代わって香をたこうとしたのです。神さまの怒りにふれ、たちまち重い皮膚病になってしまいました。人前に出ることができないので息子ヨタムを摂政にして、王位を保ちました。

在位52年間、とにかく強力な指導者が死んだのです。厳しい国際情勢の中で、小さな国の将来はどうなるのでしょうか。青年イザヤは、おごり高ぶりから、神の厳しい怒りにふれて重い皮膚病になった国王の姿を目の当たりに見ています。富む者たちの間に道徳的荒廃が広まっています。貴族の一員として、自分はどのように国家に対する責任を果たして生きていくべきか。イザヤは神殿で祈り続けていたようです。BC740年頃のことでした。

[1]全く質を異にする神さま
イザヤは突然「高く天の御座に座しておられる神さまを見た」という経験をしました。でも見たといっても神さまがどんなお姿なのかについて、彼は何も述べていません。神さまの衣のすそが、神殿いっぱいに広がっていたと述べているだけです。意地の悪い言い方をすれば、彼の見たのは、神さまのお姿ではなくて、神さまの衣のすそに過ぎなかったのです。それでもイザヤは、神さまを見たと言い切っています。

そして彼は、セラフィム(天使でしょう)たちの歌う賛美歌を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされたと彼は述べています。彼は天使の賛美歌を耳で聞きました。神殿の入り口の敷居が揺れ動くのを、体で感じました。同時に神殿が煙で満たされるのを、目と鼻で確認しました。イザヤは、自分の目や耳や鼻や皮膚や体全体で「神さまを見た」という体験をしたのでした。これは「神さまを見た」と言うよりは「神さまの臨在にふれた」と言った方が分かりやすいでしょう。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 「聖」という字は「ひじり」と読み、儒教では「徳の最もすぐれた人」を意味します。私たち以上の世代は天皇を神と崇める教育を受けましたが、当時の日本では、「聖」とは「聖上」といって天皇を表しました。一般には「道をきわめた第一人者」を「楽聖」「剣聖」といいますね。また「清らかで汚れのないこと」「尊くおかしがたいこと」を「神聖」と言っています。

しかし聖書に使われる「聖」は、それらとは全く違う、独特のものです。旧約聖書が書かれているヘブル語では、「分ける」「分離」を意味します。ですから神を「聖なる方」と言えば、「他の一切とは 分離された、質の全く異なるお方」「神さまは私たち人間や他の一切のものとは、全く質の違ったお方」と言うことになります。

ですから、神さまを見るという時には、人間や動物、或いは山や空や海を見るのとは違うのは、当然です。それでイザヤは、「神さまを見た」と言いながら、私が「神さまの臨在にふれた」と言い直したような述べ方しか出来なかったのでした。

私たちはTVの画像を見るように神さまを見、TVの音声を聞くように神さまの声を聞くことは出来ません。でもイザヤが体験したように、神さまが私たちの体に備えて下さっている、いろいろな働きを通して、神さまの存在に触れ、お心を感じ、その思いを知り、神さまの意志と計画を聞き取ることが出来ることを、イザヤは教えてくれているのです。

[2] わたしは汚れた唇の者
イザヤが聖なる神さまを見た時、すなわち聖なる神さまの臨在にふれた時に、彼はとても大切な経験をしています。5節をご覧下さい。彼は思わずこう叫びました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 汚れた唇の者とは、「心の中から汚れた言葉が次々と口に出てくる罪深い者」という意味でしょう。そして彼は、自分が自分自身の罪深さのゆえに滅んでしまうという思いに襲われて、震え上がってしまったのでした。

ウジヤ王は一応南王国ユダを近隣諸国よりは強くて繁栄した国にしました。しかしその繁栄が社会に道徳的な腐敗・堕落をもたらしました。北にアッシリア、南にエジプトという大国にはさまれて、小さな国がこれからどう生き延びていけるでしょうか。イザヤは貴族の一人として、信仰に立って人々を教え、導かなければならないという思いを抱いたに違いありません。

イザヤは、人前をはばかる体になってしまったウジヤ王を身近に知っています。おごりたかぶることが神さまの怒りをかうという恐ろしさを、痛感させられてきたはずです。自分は、よくよく神さまの御心に聞き従って生きて行かねばならないと、自戒していたに違いありません。その彼が「聖なる神さま」の臨在にふれた時に、自分の唇の汚れを痛切に自覚させられたのでした。

彼は社会の腐敗・堕落を見て、人々に悔い改めを迫っていかねばならないとの思いを抱いていました。しかし人々が皆唇の汚れた者であるならば、その中の一人である自分だけは、唇が清いなどと言えるでしょうか。自分もまた同様に、唇の汚れた者ではないか。そこで「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」という告白に続けて「汚れた唇の民の中に住む者」という自覚が告白されたのではないでしょうか。

聖なる神さまの臨在にふれる時に、私たちは自分自身の罪深さがはっきりと示されます。そしてそれがまた、自分が身を置く社会の罪深さをも、自分の事柄として自覚さてくれるのです。イザヤはこうして自分の中に気付かずに抱いていた、自負心や自信や正義感を打ち砕かれて、徹底的に謙遜にさせられたのでした。

するとセラフィムが犠牲の供え物を捧げる祭壇の炭火を火ばさみにつまんで、イザヤの口に当て、言いました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 神さまは、自分の汚れを自覚した者に、神さまの火、聖なる霊をもって汚れを清めて下さり、彼を罪赦された預言者として立たせてくださったのでした。

イザヤは後でこう預言しています。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(57:15)

いと高く、聖なる神さまが、打ち砕かれへりくだった者、心を一番低くされた者の所に降ってきて、一緒に居て下さり、豊かな神の命を与えて下さるというという信仰です。これは何という素晴らしい恵みでしょうか。私たちの世界では、高い者が良い物を手に入れます。 しかし神さまの世界では、低い者が用いられて、豊かな命をいただけるのです。

神さまは、私たちとは全く質が違い、全てから超越しておられます。私が多少自信を持ち、何かやれそうだと思えても、神さまの前に立つと、先ず自分が持ち合わせている自信や自負心が、徹底的に打ち砕かれてしまいます。その上で罪の汚れを清めて下さり、神さまの御用に用いて下さる。そういう神さまをイザヤは聖なる神と表現したのでした。


[結] 罪を清められた者として生きる
私たち日本人の宗教心を、鎌倉時代の歌人西行法師が伊勢神宮で詠んだ歌が端的に表しています。「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」
五十鈴川で口と手をすすいで、杉の木立の中の参殿にただずむと、どのような方がいらっしゃるかはわからないけれども、もったいないという思いがしてきて、涙が自然に出てきたという心を詠い上げたものでしょう。神さまがどのようなお方であるかが、はっきりしていません。ただただ「もったいなさ、有難さに、涙のあふれ出てくる心境をもたらす何ものか」なのですね。

イザヤも神さまのお姿を自分の目ではっきりと見ることができませんでした。しかし聖なる神 さまの臨在を体験した時、彼は「私は滅びる。汚れた唇の者だ」と震えおののきました。そしてその罪深さを清めて、神さまの御用へと使命を与えて送り出してくださる神さまとの出会いをはっきりと体験しています。そしてこの聖なる神さまの御前で生きていく信仰を、生涯かけて証し続けたのでした。

先週申し上げましたように、イザヤは、神殿に捧げられる沢山の献げ物が、社会的弱者から搾取された不正の富によるものではないのかと、気付かされました。彼は良心を麻痺させて、地位や身分に安住し、身分や地位に付随する特権に慣れてしまう悪を断ち切る聖なる神 さまの声を聞いて生きることが出来たのです。

私たちも、今日イザヤの信仰を学びました。絶えず自分の罪深さを自覚して、赦しと清めをいただき、へりくだった低い心を与えられて、神さまの御用に生きる信仰の生涯を送っていきたいものです。   


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