日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

全体表示

[ リスト ]

(前半からのつづき)


[2]罪からの救いを切実に求める
多くの教会が掲げている聖書の言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)ですね。どうして疲れるのでしょうか。罪の重荷にあえいでいるからです。イエスさまは休息を与えると呼びかけて、人々を招いていらっしゃいます。イエスさまから与えるものは何か?罪の赦しです。

医者のルカは、全身が麻痺して寝たきりの人が癒された奇跡を詳しく記しています。病人を運んで来た男たちは、込み合う家の中に玄関から入れないので、屋上に上がり屋根に穴をあけてイエスさまの前に病人をつり降ろしました。「人よ、貴方の罪は赦された」学者やファリサイ派の人々は心に敵意を抱きました。「この男は神を冒涜した。神のほかに罪を赦せる者はいない」「あなたの罪が赦されたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」そしてイエスさまは病人におっしゃいました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を讃美しながら家に帰って行きました。人々は罪を赦す権威をお持ちの方の奇跡を目の当たりにして、恐れに打たれたのでした。(ルカ5:17以下)

私たち人間にとって、何が一番大切かと言えば、やはり命でしょう。でもその命の内容が問題です。そして命を損なう病気の癒しが切実な願いになります。ところがイエスさまは罪の赦しこそ、豊かな命に欠かせないとおっしゃっておられるのです。宗教改革者ルターもこう言っています。「罪の赦しのあるところ、そこにいのちと祝福がある」皆さん、私たち人間を苦しめているのは私たちの罪だ。私たち一人一人の罪深さが、私たちの人生を苦しめているのだということを、私たちはしっかり自覚しているでしょうか。

一昨日の朝刊に、北九州市の小学5年生N君が06年3月16日に自殺したのは担任の女性教諭の体罰が原因だとの判決が出たと報じられていました。当日午後N君が振り回した新聞紙を丸めた棒が女子生徒に当ったと聞き、先生は「謝りなさい」と大声で注意。N君が「謝った」と反論。言い争いになりました。先生は席に座っていたN君の胸ぐらをつかんで体をゆすり、N君は床に倒れ落ちました。N君が「帰る」と言うと先生は「帰りなさい」と大声で言い放ち、教室を飛び出したN君が数分後に戻ってくると「何で戻った」と再び怒鳴りました。飛び出したN君は、午後4時50分ごろ自宅で首をつっているのが見つかった由。判決は5年生になってから約1年間にわたり先生から頻繁にしかられていたと認定して「担任への不満を抱えていたところに、この懲戒を受けて衝動的に自殺に及んだ」と指摘しているそうです。

小学5年生といえば手に負えないやんちゃ坊主だったのでしょう。しかし1年間にわたり頻繁に叱られていたというのですから、先生にとっては余程合性の悪い生徒だったようです。でも担任教諭は自ら進んでその職についた教育者のはずです。親が我が子を虐待するのとは違います。どうして受持ちの生徒を自殺に追い込むような一年間の過し方をしたのでしょうか。N君との関係のこじれをどれほど苦慮し、改善を図ろうとしたのでしょうか。事件後に退職しているようですが、この様な判決が出て、自分の罪の重さに、生きていられない心境に追い詰められているのではないでしょうか。お気の毒です。

学校という教育現場でも、生徒たち同士、生徒と先生、先生たち同士、それに親までが加わって、互いの人格を大切に出来ず、傷つけ合い争う苦悩が、日常的に発生しています。私たちは教育という大事な生活分野でも、罪を犯して毎日を生きている。せっかく与えられている命を損ないながら、他人を苦しめ、また自分を苦しめて生きている。これはおかしい。間違っている。この罪から救われて生きていかなければならないという思いを、私たちは真剣に持つべきではないでしょうか。幸せないのちに生きることを願うならば、私たちは、罪からの救いを切実に求めるべきではないでしょうか。

[結] 十字架の恵み
寝たきりの病人に向ってイエスさまは「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。直説法完了形の動詞です。「病気を治してあげるけれども、その前に片付けなければならないことがある。あなたの罪だ。自分の罪に気付き、悪かったと謝りなさい」などとはおっしゃっていません。「もう貴方の罪は私が償っているよ。貴方は既に赦しの中にいる」とお告げになったのでした。

皆さん、私たちは自分の罪を償うことが出来るでしょうか。N君を自殺に追い込んだと判定された担任の先生は、その罪をどのようにして償いますか。死んだ命を取り戻すことは出来ません。親に与えた痛手を癒すことも出来ません。また自責の念という自分の心に負ってしまった傷を癒すことも出来ません。たとえ自殺しても、それでお詫びが済むものでもありません。ましてや罪の償いはできません。皆さん、よくよくお考え下さい。私たちには罪を償うことは出来ないのです。罪は赦されるよりほかないのです。

ですから神さまは、すべての人を救う救い主イエスさまを、十字架にお付けになりました。イエスさまが、肉を裂き、血を流して命を捨て、死んで下さることで、私たちが受けるべき罪の裁きを代りに受けて下さいました。私たちの罪の裁きは、イエスさまの十字架で、執行済みにされたのです。つまり罪は無条件に赦されてしまったのです。そして神さまは、さあ安心して、罪赦された者として生きていきなさいとお告げになっておられるのです。ですからイエスさまは、端的に、無条件の赦しを宣言なさるだけだったのでした。
これが聖書が宣べ伝える神の救い、罪の赦しです。

これから私たちは主の晩餐式を守ります。イエスさまは十字架に引き渡される前の晩、地上での最後の食卓で、パンを裂き「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしを記念してこのように行ないなさい」とお配りになりました。また杯も同じように感謝の祈りと共に、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。

私たちはこの礼典を守る度に、無条件で罪を赦し、神の子にしてくださる契約を結んでくださっている神さまの愛、豊かな恵みを覚える。記念する。そして感謝を新にするのです。一緒にパンと杯をいただく仲間。皆等しく、赦されている同士です。だから互いに赦し合い、受け容れあって、神の子らしくその愛の中で共に生きていこうとの決意を新にするのです。主の晩餐式は、イエス・キリストによる罪の赦しの証です。

私たちはなかなか罪を認めようとしません。しかし私たちを苦しめているのは、私たちの罪です。そして私たちは自分で罪を償うことは出来ません。罪は赦されるよりほかないのです。イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しを、神さまの恵みとして、素直に有難く受け容れましょう。神さまに赦され、愛されていることを感謝して、赦されている者同士として、互いに赦し合い、愛し合って生きて参りましょう。ここにしか本当に安らかで豊かな命はないのですから。

イエス・キリスの命に働いた霊・聖霊をいただいて、罪の赦しの福音の証をして参りましょう。私たちの使徒言行録を書き綴ってまいりましょう。  


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事