日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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[聖書]使徒言行録2章36〜42節
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

[序] 菊地兄の死を悼む
教会員菊地敏明兄が、去る10月6日(火)午後1時37分に心筋梗塞で急逝されました。7日(水)にご家族だけで密葬されました。9日(金)午後伊藤三恵子姉と私とで奥様を弔問して参りました。密葬には小久保富成牧師夫妻が福島から駆けつけられた由。教会としては妹さんの遠藤富美子姉とご相談して、しかるべき日時に記念会を守りたいと願っております。

分級に出席されるようになり、月末に10月からの新しい聖書教育をお届けしました。ところが4日、お見えにならなかったので、声をかけようと思っていた矢先です。2日(金)には元気に妹さんの店チイロバを手伝われたのに、翌朝体調が悪くなり、広瀬病院に行き、点滴を受け、少し入院してはということになりました。月曜日には体調も回復し、火曜日の午後1時過ぎに自分で爪を切り、口ひげを整えておられたそうです。奥さんも未だ信じられませんと言っておられました。驚きました。残念です。

昨年の8月17日の礼拝では、敗戦を満州で迎えた証をしてくださいました。引き揚げ後、折角シベリヤ抑留から帰られた父上が病死され、ご苦労なさいました。しかし幼少の折に、父上から特訓を受けた書道に復帰し、創作書道の独自な境地を拓かれました。会堂のこの書「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み。何という喜び」は、私が一昨年1月、川越教会臨時牧師としてご奉仕を始めるに当って、書いていただいたものです。菊地兄弟はこの書と共に、いつも私たちと一緒です。ご遺族の上に、主の慰めをお祈りいたします。

[1] 先ず罪の赦しを
さて使徒言行録の第二回目です。私たち人間にとって何が一番大切でしょうか。やはり命でしょう。菊地さんも腸に難病をもち、苦しんでおられました。しかし自分以上に奥さんの健康状態を心配して、病院に連れて行ったり、散歩に連れ出したりお世話しておられました。奥さんも自分の方が先ではないかと思っておられたようで、「嫌だよ、おれが先だと行ってしまいました」と話して居られました。

やはり何と言っても命が大切です。その命の豊かさを損なうものとして、病気や貧しさが嫌われ、恐れられるのです。ところがイエスさまは罪の赦しこそ、豊かな命に欠かせない。先ず罪の赦しを求めなさいとおっしゃいます。全身が麻痺して動けない病人に向って、開口一番「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。

私たち人間を苦しめているのは私たちの罪だ。私たち一人一人の罪深さが、私たちの人生を苦しめている。私たちは罪を犯すことで、せっかく与えられている命を損ないながら、他人を苦しめ、また自分を苦しめて生きているということを、先週は北九州市の小学校5年生N君の自殺が担任教師の責任だとする裁判判決を具体例として、考えました。

私たちは、死んだ命を取り戻すことが出来ません。我が子を失った親の悲しみを癒すことも出来ません。また自分を責める自責の念から逃れることもできません。私たちは自分の罪を償うことが出来ないのです。罪は赦されるよりほかないのです。ですから神さまは、すべての人を救う救い主イエス・キリストを、十字架にお付けになることで、私たちの罪の裁きを執行済みにして、無条件で赦して下さいました。 そして、私たちが、罪赦された者として互いに赦し合い、愛し合って生きる救いを備えて下さったのでした。ですから私たちは、何はともあれ、先ずイエス・キリストに、罪の赦しを切実に求めるべきことを、前回学びました。

[2]聖霊を受けて説教を語りだす
さて墓から復活なさったイエスさまは、40日間にわたり弟子たちに現われ、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受けて、地の果てに至るまで、私の証人となる」という任務を与えて、天に上って行かれました。すると神さまは、心を合わせて熱心に祈っている弟子たちに、約束通り聖霊を注いでくださいました。その様子をルカは「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2:2)と記しています。激しい風とは、神さまの自由自在な働きの現れでしょう。響き渡る物音とは、誰をも驚かせずにはおかない働きを示します。

「そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった」炎はエネルギーを生み出します。火力発電所では轟々と燃える重油が電力を生み、生活全般を支える働きをしています。聖霊が信じる者を動かして、救いのみ業を至る所で繰り広げる原動力として、一人一人にもたらされたのです。
「舌」とは「言葉・国語・異言」とも訳される語です。事実、弟子たちは、聖霊に満たされるや、説教を語り始めました。ユダヤ人を恐れて家の中に閉じこもって祈っているだけだった弟子たちが、外に出て大勢の人々に向って、神さまの偉大な救いのみ業を、堂々と説教し始めたのです。後で議会に引き出されて語った時には、その大胆な態度に、大祭司・議員・学者たちはすっかり驚いてしまったほどでした。

しかも弟子たちの最初の説教を聞いた人たちは、世界各地で生まれ育ちながら、神殿のあるエルサレムに来て暮らし始めていた信心深いユダヤ人たちでした。彼らがガリラヤ出身の弟子たちの説教を、まるで生まれ故郷の言葉を聞くかのように理解出来たので、驚いています。ルカはそれを「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と説明しました。これはどういう現象だったのでしょうか。

(1)12人の使徒たちが力を与えられて、それぞれ違う世界各地の言葉で語りだし、聞き手が自分の分かる言葉の説教者を囲んで聞いたというのでしょうか。
(2)聞き手が皆、弟子たちの語るアラム語を理解できる力を与えられたからでしょうか。
(3)使徒たちが聖霊の導くままに不思議な言葉(異言)で語りだし、聞き手もそれを理解する力を与えられて、説教が分かったのでしょうか。

何も説明がありませんので、私たちの理解を超えた現象です。とにかくルカがここで言おうとしたのは、弟子たちの説教が、世界各地から集まった人たち皆に通じたということでしょう。言葉の違いで不自由を覚えている私たちにとって、実に羨ましい現象です。

言葉が違うとは、歴史も文化も、生活習慣も違うことを意味します。そしてその違いが私たちを、どうしても仲良く一つにさせない障害になっています。ところが  聖霊が語らせる言葉、すなわち神さまが力強く働く所では、言葉の違う者同士の間に、一致し合う共通理解が生まれたのでした。これは本当に素晴らしい聖霊の恵みではないでしょうか。


(後半へつづく)


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