日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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(前半からのつづき)


[3]教会が負担になる心
献金は、会費や税金とは全く違います。会費を人よりも沢山払う人は特別会員として、その会のなかでは特別待遇を受けます。税金も、多額納税者は、国から褒章を授与されるという名誉を受けます。もしも多額な献金者が、教会の中で同じ様な優遇を受け、大きな顔をするようになったら、教会は他の会や国と同じになり、教会ではなくなっていく―――これは教会破壊です。

サタン(悪魔)とは、神の救いの御業を破壊しようとする力を言います。ペトロがアナ二アに「あなたはサタンに心を奪われた」と厳しく言ったのは、このことなのでした。

献金は自分の意志で自由に決め、喜んで献げるものです。献金しないと救いを失うというものではありません。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われました。救いは無料でいただいた神さまからの贈り物なのです。献金額の多少で天国の席順や教会内の地位が決まることなど決してありません。

救いは恵みによって頂いた神さまの贈り物ですから、信者の間で自分を誇ることも出来ないし、その反対に自己卑下してもいけないのです。ですからアナ二アとサフィラは、気がすすまないのに無理して土地を売る必要などありませんでした。また売った代金の99%を手許に残して、1%だけ献金してもよかったのです。

「神さま、ごめんなさい。私たちは未だ喜んで全部を献金出来ません。」「主よ、今はこれで精一杯です。このささやかな献金をお受け取り下さい」とお祈りするなら、神さまは微笑みながら「それで良いのだよ」とお受け下さるでしょう。

他の人のように献金が出来ないことを、どうして恥ずかしいと思うのでしょうか。また全部献げたら誇れるなどと、どうして考えるのでしょうか。ペトロはアナ二アに言いました。「どうして、こんなことをする気になったのか」しかし悲しいことですが、アナ二アとサフィラの心は、私たちの内にも時として起ります。それは献金や奉仕が重荷になって教会に足が向かなくなる現象です。
もしも献金や奉仕が重荷になってきたら、無理して頑張らずに、「出来なくなって来ました。少し減らします」と神さまに申し上げて、軽くすればそれで済むことです。それが気軽に言えないのは、恥ずかしいとか、皆に悪いからと思うからではないでしょうか。人の目が気になって、神さまの心が忘れられてしまいました。イエス・キリストに現わされている神さまの絶大な愛が、忘れられてしまいました。これは、献金で評判をよくしようとしたアナ二アとサフィラ夫婦に通じる心ではないでしょうか。

この心が、霊の家・教会からクリスチャンを引離し、霊的な死をもたらします。このようなマイナスの証が、人をつまずかせ、教会を壊していくことになります。神さまは、私たちを在るがままの姿で受け容れて下さいました。献金・奉仕で受けを良くしなければと考える必要など全くないのです。また、良く出来ないと神さまから冷たくされるなど全くないのです。

[結]弱さを担う決断
財産の共有というエルサレムの初代教会の素晴らしい証は、結局永続きしませんでした。この美しい証は、修道院、宣教会、ある種の団体等でだけに受け継がれて、今日に至っています。一般の教会では、見られなくなりました。何故でしょうか。

理由の第一は、初代教会が、生産手段を持たなかったからで、信者の財産が売り尽くされてしまったら、この共同生活を継続できなかったからです。第二は、教会がアナ二アとサフィラの心を教会から取り除くことがどうしても出来なかったからだと思います。

ペトロはアナ二アに「あなたは、サタンに心を奪われた」と言いました。そうです。   献金や奉仕て誇りたかぶろうとしたり、良く出来ないので恥ずかしくて教会に行くのを止めてしまう思いを起こさせるのは、サタンの仕業です。キリスト教会は、神の教会を破壊するこのサタンと戦い続けて来ました。

初代教会では、一人として持ち物を自分のものだと思う者が居らず、すべてを共有していました。しかしその思いについていけない人の出て来ました。そしてサタンの餌食になってしまったのでした。沢山の献金を献げながら、心臓が止まって死んでしまったアナ二アとサフィラの姿に、サタンの仕業の恐ろしさを見せつけられて、教会は愕然とさせられました。

ではアナ二アとサフィラの二人を墓に葬ったら、それで事態は解決したのでしょうか。弱い人を切り捨てることで、悪魔のパン種を一掃し、二度と起らないようにできたのでしょうか。あれほど聖霊が力強く働いた教会でも、否それだからこそ、多くの人の熱心な働きがプレッシャーとして受けとめられ、苦しくなってくる人が生まれるという現実を、教会は深く自覚させられたのです。

後に教会は、食べ物の問題で同じ様な事態に直面しました。「何を食べても良い」「否、汚れる物を食べてはならない」という見解の違いで、教会内に裁き合いが生じました。そこで パウロはこう言っています。「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(汽灰螢鵐硲検13)「信仰の弱いひとを受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(ローマ14:1)「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり」(ローマ15:1)

初代教会は、弱い者を切り捨てることによっては、問題が解決しないこと、むしろ強くない者の弱さを担って共に生きることを何よりも大切にしようと決断したのです。そうです。私たちの目的は財産共有の理想的な生活スタイルをこの世に実現していくことではありません。弱さを共に担い合うことによって、世界のすべての人と一緒に神の国に入ることです。イエスさまも、この世でその様に生きられたのでした。

私たちの川越教会も、どんな人とも一緒にイエス・キリストを礼拝し続けて行くことに最善を尽くす教会にして参りましょう。私たちの信仰が成長していくにつれて、他の人に対するいたわりが深められ、互いに喜び合い、豊かな命に生きる者になっていく教会にして参りましょう。聖霊が満ち溢れる教会になるよう、心を注いで祈って参りましょう。


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