日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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(前半より続く)
2013818日川越教会
       たといそうでなくても(後半)   加藤 享
                [聖書] ダニエル書3章13〜30節
 
[3] 国王によって造られる神々
 ダニエル書の2章では、ネブカドネツァル王が、何度も見る夢に不安になり眠れなくなりました。ダニエルはその夢の示す意味を明快に解き明かしました。それは「王国が次々と起こっては滅びていくこと、しかし歴史の終わりには、すべての国を滅ぼして永遠に続く国を天の神は興される」 という神のお告げでした。それを聞いて王は、ダニエルの前にひれ伏して、「あなたたちの神は  まことに神々の神、すべての王の主」と告白しています。
 
 それなのに続く3章では、巨大な金の像を建てて、全ての家来、諸国、諸族、諸言語の人々にひれ伏して拝めと命令を下しています。これはバビロン王の絶大な権威の前に皆がひれ伏し、絶対服従せよという命令です。手中の権力をいつ奪われかと怯える権力者の姿が透けて見えます。そして金の像を造って神として拝めと命じるのですから、その神は王によって造られた神ということになります。権力者によって造られ、権力者に利用される神々。王の家来の一人に過ぎない神。なんと安っぽい神でしょうか。
 
 朝鮮民族を支配した日本の国家権力も、全家庭、全教会の聖壇にも神棚を置かせ、「気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮、八百万の神に向かって最敬礼!」と礼拝を強制しました。世界各地の権力者に よって次々を造られていく神々ですから、八百万の神なのですね。シンガポールでも占領すると直ちに皇大神宮の分社・昭南神社を建て、全ての宗教指導者も含めて、参拝を強制しました。ですから日本が負けると真っ先に、跡形もなく壊されてしまいました。
 
 その上、その神を拝まない者を燃え盛る火の炉に投げ込むことをさせる神とは、何と非情、残酷な神なのでしょうか。今日の週報巻頭言にも紹介しました、殉教者朱牧師夫妻を拷問に処した警察官に、このような行為をさせた天皇という生き神さま、天照大神とは、何という残酷・非情な神なのでしょうか。天皇は、天皇という名がアジア各地でどのように残酷・非情な行為を人々にさせたかという責任を自覚しているのでしょうか。また現在日本国の総理大臣という地位にある安倍さんも、東条英樹に代表される総理の名の下で行われた、数々の恐ろしい行為の責任を継承していることに気付いているのでしょうか。
 
 酒枝先生は、は果たして実在者なのか、あるいは信者の信念、あるいは思想なのかと問いかけています。神さまは、昔アブラハムを選びお召になった時「祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記1223)とおっしゃいました。神さまは、地上のすべての氏族を祝福される神なのです。その神さまがナザレのイエスとしてこの世に生まれて歴史の実在者となり、貧しい者たちに寄り添って生きて下さり、十字架刑に処せられて死に、墓より復活して天に戻っていかれました。私たちはこのお方を、ご自身を世に啓示された神キリストと信じます。
 
イエスキリストは「私は良い羊飼いである」「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」また「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章)とおっしゃいました。神さまは、私たち一人ひとりの命を豊かにして下さるために、ご自分の命も捨ててくださいました。それが十字架の死です。神さまとはこのように、ご自分の命まで捨てて、私たち一人ひとりに命を豊かに与えてくださるお方なのです。自分を拝まないからといって殺したり、残酷な拷問にかけたりする神とは、全く正反対のお方です。どちらが真の神でしょうか。天皇も天照大神も巨大な金の像も、それを建てた国王も、神ならざる神です。
 
[] 真の愛を分け合う
 良い羊飼いイエス・キリストはおっしゃいました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ1016)この囲いに入っている羊とは、現在イエス・キリストを自分の羊飼いと信じて教会という囲いに属している信者でしょう。しかし世界には教会に属していない人々が大勢います。
 
 全ての民を祝福する神・イエスキリストの目と心は、その人々にも注がれているのは当然です。そしてその人々が命を豊かに受けるためにも、ご自分の命を十字架で捨ててくださったのでした。そして「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言い切っておられます。十字架に現された神の愛の呼びかけは、世界中のどんな人にも聞き分けられると、神さまは確信 しておられるのです。
 
 神の名のもとで、人々を痛めつけ、服従させていく神は、神ではありません。この世の権力者に利用され、操られている偽の神です。僕の姿をとり、国籍、宗教、地位を問わず、苦しむ者、悲しむ者、病む者、貧しい者、弱い者、虐げられている者たちに寄り添い、慰め、助け、癒して下さるお方こそ、真の愛の神さまです。
 
 言葉が違う、文化が違う、宗教が違う――これが世界を一つにしない根本原因です。どうしたら共通理解が持てる世界が生まれるのでしょうか。しかし人は皆、真の愛を求めています。人と共に愛を分け合って生きる喜びを求めています。どんな人でも、そのような命の飢え渇きを心の底に抱いているのではないでしょうか。世界は共通しているのです
 
「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ご自分自身を十字架にはりつけにして、世界のすべての人に、豊かな命を生きる者にして下さる愛にこそ、全世界の人々の心を包んで、一つにする力があると、主イエスは確信しておられるのです。
 
 私たちクリスチャンも、十字架を掲げて、人々を弾圧し、殺してきています。羊飼いの命と全く相反する行為を繰り返して、敵を作ってきました。今こそ一人ひとりが、十字架の愛にしっかりと立たなければなりません。世界の何処へでも出て行って、そこに暮す人々と十字架の愛を分かち合い、共々に神の羊の群れを作って参りましょう。
                                  完
2013818日川越教会
       たといそうでなくても (前半)   
                               加藤 享
[聖書] ダニエル書3章13〜30節
  これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。 今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
  シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。
  間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」 ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。
 
[] 信仰の証
 ダニエル書第1章では、捕囚になってバビロンに連れて行かれたダニエル達4人の少年が、宮廷の豊かな食事を食べず、野菜と水だけで3年間を過ごして、他のどの少年よりも秀でた青年に成長し、王のそば近くに仕えるようになった信仰の強さを学びました。第2章では、繰り返し見る夢に恐れをなし、心が混乱した王の諮問に答えて、その夢の意味を明快に解いたダニエルが、彼の前にネブカドネツァル王の方が思わずひれ伏して「あなたたちの神は、まことに神々の神、すべての王の主」と言わせています。そして今日の3は、ダニエルの3人の友人シャドラク、メシャク、アべド・ネゴの信仰の証です。
 
[1] 燃え盛る火の炉を畏れない信仰
 王は自分の絶大な権力を誇るために、都の近くの平野に高さ27m、幅2.7mの巨大な金の像を建て、楽器の合図とともに、家来はいうに及ばず、諸国、諸族、諸言語の人々も皆ひれ伏して拝むように命じました。拝まない者は直ちに燃え盛る炉に投げ込まれます。しかしシャドラク、メシャク、アべド・ネゴは拝もうとしませんでした。ユダヤ人でありながら高い地位についている彼らを妬む家来たちは、早速3人を中傷して王に訴えました。
 
 王は怒りに燃え、彼らを呼び出しで申しました。「もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」しかし3人は静かに きっぱりと答えました。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉の中から、わたしたちを 救うことができる神さまです。また王よ、あなたの手からわたしたちを必ず救ってくださいます。  たといそうでなくても、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  
ネブカドネツァル王は血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じて、彼らを、上着、下着、帽子等の衣服を着けたまま縛り上げ、7倍も熱くした燃え盛る炉に投げ込みました。ところが間もなく王は驚いて立ち上がり、叫びました。「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
 
王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけました。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」 炉の中から出て来た3人を調べましたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火の匂いすらしません。ネブカドネツァル王は言いました。
 
「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても 自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」 こうして王は、 彼らをバビロン州で高い位につけたのでした。
 
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは絶大な権力を誇る国王に向かって、「神さまは、燃え盛る炉の中から私たちを救い出すことがお出来になる方です。ですから王の手からも必ず救ってくださいます。しかしたといそうではなく、この身が焼き殺されるとしても、それは神さまがそうお考えになってなさることですから、それをよしとして受け入れます。神さまに対する私たちの信仰は変わりません」 と言い切っています。何と素晴らしい信仰でしょうか。私たちの多くは、目先の危機から逃れる手段として、神仏に手を合わせて、助けを祈り願います。かなえられなければ、信じるに値しない神仏、無力な神仏と見限り、他の宗教に移っていきます。どちらが真の信仰でしょうか。
 
[2] 日本人が神の名でやったこと
 去る15日は我が国の敗戦記念日でした。政府主催の全国戦没者追悼式での安部首相の式辞には、「加害責任についてふれていない」と新聞は大きな見出しで報道していました。
私は先週福岡新生教会の世界宣教リバイバル聖会に出席して来ましたが、そこで日本の 朝鮮支配で殉教を遂げた牧師の息子さんが書いた、両親が拷問された記録を読みました。
今日の週報の巻頭言に一部分を紹介しておきましたので、ぜひお読みください。
 
 ここでは、40年前によく読まれた安利淑さんの自伝「たといそうでなくても」(待晨社)の初めの部分をご紹介します。ダニエル書と丁度同じ事件が起こったと書き始めています。
 
 「あの時と同じように、日本人はその八百万(やおよろず)の神々を偶像化して、それを全東亜に強制的に広めるために、都市や郡や村々にまで一番高くよい場所に日本の神社を建てて、官吏たちに強制参拝させた。そして学校や官庁や各家庭に至るまで、神棚を配り、強制的に拝ませた。ついには教会の聖壇にまで神棚が置かれた。クリスチャンたちが礼拝する前に、先ず日本の神棚に最敬礼をさせるため、刑事を教会に配置した。日曜日になると各教会で刑事達が鋭い目を光らせて、信者の行動を監視していた。時には制服の警官が聖壇に上って見下ろしながら、煙草を口にくわえて目を光らせていた。
 
もし牧師が反対するか、不遜な態度に出たら、すぐに引き立てて行き、耐えきれない拷問にかけて半殺しにするのであった。そしてその家族には配給を全然やらずに飢えさせ、虐待を重ねていく。このために人心は乱れ、弱い者は日本人の犬となって、日本人よりももっと悪辣になり、強い者は殺された。一般民は日本人を悪魔のように恨み、呪うように  なった。―――気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮八百万の神に向かって最敬礼!」安さんは女学校の教師として集団参拝の時に最敬礼せず、彼女の逃亡生活が始まったのでした。
 
 この本の序文で酒枝義旗先生が、「信仰不信仰戦いこそ世界史最大のテーマだ」というゲーテの言葉を引用してこう述べています。「神は実在して歴史の歩みを導き、また信じる者一人ひとりの生涯を顧みたもう方であるのか、それともキリスト信者だけが抱いている一種の信念、または思想に過ぎないのか。この本は数千年前にアブラハムを選び導き給うた神が、今もなお変わることなく信じて従う者を、どんな時にも愛し、慰め、教え、導き、すべてを益にして下さる生ける神であることを、数々の体験を通じて証している。」
             (後半へ続く)
2013年8月4日川越教会
               何を大切にして生きるか(後半)
〜 ダニエル書1章1〜21節〜
     加藤 享
 
 
[3] 神の栄光を現すために
 ここでこの点について、イエス・キリストの救いにあずかった信仰者の信仰を新約聖書から学ぶことにいたしましょう。ダニエルたちは、神ならざる神、すなわち偶像に先ず捧げられた王宮の肉類と酒で自分を汚すまいと決心しました。これに対して新約聖書では パウロが「世の中に偶像の神など存在しないのだから、偶像に供えられた肉かどうかで心配する必要などない」と言い切っています。(Ⅰコリント10:4)「多くの神々がいるように思われているが、私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出て、この神へ帰って行くのだ」とも言っています。(Ⅰコリント8:5〜6)
 
しかし偶像に備えた食べ物は食べないとしている人の信仰も尊重して、その人をつまずかせないように、愛の配慮を勧めています。そして「わたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」とさえ言っています。(Ⅰコリント813)すなわち「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すために」(Ⅰコリント1031)を心がけていくのです。
 
ダニエルたちも自分たちの信仰の量りに従って真剣に祈り、あのような決断を貫きました。そしてイスラエルを滅ぼしたバビロン王の宮廷で、神さまの栄光を現すことができたのでした。「神さまの栄光を現すこと」それが大切なのですね。
 
 パウロは「偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」「あなたたちは悪霊の仲間になってほしくありません」(Ⅰコリント10720)と述べています。社寺の祭礼には、飲み食いし、踊り狂い、淫行に走る状況が日本でも見かけられます。大きな神社や寺の門前には、淫らな宿屋が立ち並び、参詣者が精進落しをすると言われています。それが真の信仰者の姿なのでしょうか。
 私はお酒については、若い時は、社交上すすめられれば飲むという立場をとっていました。しかし私が目白の副牧師時代に、学生センターの主事を代行していた時のことです。センターに泊まって管理人をしてくれていた実に真面目な大学生が居ました。新潟の出身で父親とよく酒を飲み合う育ちでしたが、上京してクリスチャンになり、断酒しました。ところが或る晩、ウイスキーをがぶ飲みして狂乱状態になり、ホールのガラスをたたき割り、床の上をのたうちまわりました。電話で通報を受けタクシーで駆けつけ、彼を押さえつけ12時間格闘しましたが、遂に119番に電話して緊急入院させました。私も負傷しました。失恋してたまらなくなり、夜の街に出て行ってウイスキー瓶を買ってきて、一気に飲みほしたのでした。私はこの好青年を狂人にする酒の恐ろしさに身震いしました。それからは飛行機に乗った時の食事で、白ワインを少々口にするだけに決めました。
 
 「青年よ、大志を抱け」で有名なWクラーク博士は札幌農学校に赴任する時、アメリカから持参したウイスキーと葉巻を海に投げ捨て、代わりに聖書をもって教育することを 黒田長官に強く求めて承認させました。彼が横浜の白昼の路上で酩酊狼藉を働く若者の姿を幾人も見かけたからでした。前途ある有能な若者を、あたら酒・たばこで滅ぼさせてはならないと、自分に強く言いきかせて、禁酒禁煙を通したのだそうです。
 
[] 主を畏れることが知恵の初め
 バビロン王は、国家に役立つ人材を、自分が滅ぼしたユダ王国の王族貴族の中からも見出そうとしました。「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年」と記されています。そして更に宮廷で3年間特別に養成訓練をして、選んだのでした。今日の世界でも社会が求める人材とは、全くこの通りで、変わっていないのではないでしょうか。ですから親たちはわが子を小さい時からこのような人間に育てようと、懸命に教育訓練しています。
 
 でもこれに対して少年ダニエルたちは、NOと叫び、異なる行動をしたのでした。その 原理は「自分を汚すまい」 神さまを畏れ敬う信仰から出た決断です。今日の礼拝の冒頭でも司式者に「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」(箴言910)の御言葉を読んでいただきました。
 
まさにダニエルたちは、王が求めなかった神を畏れる信仰を第一にしましたので、王が求める以上の健康、知恵、知識、理解力、判断力、行動力、更に霊感にも秀でた働き人に成長していきました。何を大切にして生きるか。神を畏れる信仰を第一にして生きること―― これが今日のメッセージです。
 
このメッセージを私たちは今日心に新たにいたしましょう。礼拝を第一にすることこそが、子育てに一番大切なのだと再確認いたしましょう。そしてそれを証して参りましょう。                              
                                   完
 
2013年8月4日川越教会
            何を大切にして生きるか(前半)
                       ダニエル書1章1〜21節〜
                            加藤 享
 
[]  三人三様の人生
 8月に入りました。5月から旧約聖書をイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書と読み進めてきましたが、今月の4回の礼拝はダニエル書を学びます。ダニエル書の舞台はユダ王国を滅ぼしたバビロン帝国の宮廷です。祖国の滅亡を同じく体験しながら、エルサレムで預言者として生きてきた老年のエレミヤは、エルサレムに留まり、やがてエジプトに移って死にました。エルサレムの神殿の祭司だった若いエゼキエルは、捕囚の人々の間で暮らし、ほどなく預言者として召され、預言活動を続けてバビロンで生涯を終えます。一方少年ダニエルはバビロン王とペルシャ王に仕えて宮廷で生涯を送りました。三人三様です。
 
[] 自分を汚さない信仰
さてダニエル書の第1章です。バビロン王ネブカドネツァルは、ユダ王国から優秀な人材を捕虜として連れてきました。彼らをしっかり教育訓練して、拡大していくバビロン大帝国の世界統治に役立てようとしたのです。特に王族・貴族の中からこれはと思う少年を選んで、特別に宮廷で3年間養成訓練をし、その中から自分の身近に仕える者を得ようとしました。その候補者の中に、ダニエル3人の友人も選ばれました。
 
この少年たちは、先ずカルデア風に名前を変えさせられました。さあお前たちはユダヤ人ではない。カルデア人になったのだぞというのでしょう。宮廷の食事を毎日与えられることになりました。エリートとしての特別扱いです。そしてカルデア人の言葉と文書(モンジョ)を学ばせられました。ところがダニエルたち4人は、宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心して、食べ物は野菜と水だけにしてほしいと侍従長に申し出たのです。
 
王に命じられていた侍従長は困りました。「お前たちの申し出を受け入れて、お前たちの顔色が悪くなったら、私の首が危うくなるではないか」「どうか10日間試してください。そして私たちと他の仲間と比べてみて、その上で決めてください」10日たってみると、  ダニエルたち4人の顔色と健康が、宮廷の肉類と酒を食べていた者たちよりも優れていました。そこで4人は肉類と酒を除いた野菜と水だけで3年間の養成期間を送ったのでした。
 
 主なる神の民としての契約の書律法には、清い生き物汚れた生き物とがきちんと区別されています。しかも生き物のについては特別な思いを持っていて、食べる場合の血抜きは徹底していました。日本人とは大分違いますね。そこで宗教の違う外国人と食事を共にしないユダヤ教徒との衝突が、新約聖書のあちこちに記されています。
 
 そればかりではありません。国王の食べ物は神に捧げてから食卓に運ばれたようです。バビロンの神に捧げられた肉類や酒を食べることは、その神の加護にあずかることを意味します。だからダニエルたちは、真の神ではない偽の神、すなわち偶像なる神に捧げられた宮廷のご馳走で、真の神から授かったこの体を汚すことは出来ないと思ったのではないでしょうか。さて私たちなら、どのような行動をとったことでしょうか。
 
 神さまはこの純真な信仰を喜び、侍従長に好意をもってこの少年たちに対応するように導いて下さいました。大国バビロンの侍従長です。相手はバビロンがひねり潰した小さな国ユダから捕えられてきた少年たちです。ごちゃごちゃ言わずに王様の命令に従えと𠮟りとばすことも出来たはずです。ところが自分の首をかけて、言い分を受け入れてくれたのです。これは見えざる神さまの働きというほかありません。しかも美酒美食の少年たちよりも健康にしてくださったのです。9節に「神の御計らいによって」と記されています。
 
[2] 神の守りと恵み 
この少年たちは、生まれ育った都で一家親族に囲まれて恵まれた生活を送ってきました。それが遠く離れた異国の地で捕囚として生きねばならなくなったのです。不安でいっぱいだったことでしょう。そこに思いがけない出世話が舞い込んできました。相手に気に入れられてチャンスをものにしたいと、誰しもが必死になるのではないでしょうか。ところがダニエルたち4人は、国王が示したよりも悪い条件で自分たちを扱うように申し出たのです。未だ少年です。私たちにこのような行動がとれたでしょうか。
 
 小林英二兄はその道の専門家ですが、栄養のバランスのとれた適度な食事こそ老人に至るまで全ての人にとって心身健やかに過ごす基本だと言われています。育ち盛りの若者が野菜と水だけでよいはずがありません。でもダニエルたち4人は、神ならざる神の加護のもとにある栄養たっぷりの食事を拒否したのでした。「自分を汚すまいと決心した」からです。
 
 思うに、彼らは自分の心も体も、神さまが深い御心をもって創り、この自分にお委ね下 さったものという信仰をしっかり持っていたのですね。自分の出世・栄達よりも神さまの 御心にかなう生き方をすることが大切だと思ったのですね。ですから神さまも、彼らの信仰に応えて、健康ばかりでなく、学問・知識・能力においても優れた若者に育ててくださったのでした。
 
17節をご覧ください。「この4人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた。」 特にダニエルは「幻も夢も解く力」すなわち神さまからの霊感を豊かに受ける能力もいただいたのでした。こうして4人は3年間の養成期間を終えると、国王の諮問にも合格してそば近くに仕えることになったのでした。
 
私は運動能力の豊かな子供でした。走っても、相撲をとっても、泳いでも一番でした。小学校5年でツベルクリン反応が陽転し、過激な運動をしないよう医者から注意されたのに、平気で暴れ回って遂に肺結核を発病させ、6年生一年間休学の憂き目にあいました。敗戦後の東京の中学校は、教科書も食糧も不十分なので授業もろくに行われません。暇をもてあまして野球ばかりしました。そして野球部に入り選手生活に明け暮れしました。  一度休学した身体なのだから、過激な運動を控えろと医者や母に再三注意されましたが、自分の体の丈夫さを過信していたのです。そして高校2年の終わり、遂に喀血して入院、手術まで受け、足掛け7年の療養生活を余儀なくされました。
幸い中学3年の秋から教会に通い始めていましたので、次第に聖書の信仰が分かってきました。「この私も神さまによって創造されたもので、神さまのものなのだ。神さまから私に貸し与えられている。神さまの建てた家に加藤享の表札をかけて住まわせていただいている借家人なのだ。家を大切にして暮さなければいけない」と知り、脳天を一撃されました。自分の体は自分の思うように使えると思い込んでいたのです。その結果学業も友人から大きく遅れ、親に看病の苦労を掛けるこのような惨めな日々を送っているのです。自分の愚かさを痛感させられました。
 
それ以来「神さまから授かった自分の心と体を、神さまのものとして大切にする」ことを心に刻み付けて、今日まで働かせていただいています。それにつけてもダニエルたち4人の少年は偉いなーと感心させられます。彼らは自分の体を汚すまいと決心したばかりでなく、バビロンの地で出世する道が閉ざされて、惨めな将来を送ることを恐れなかったのです。神さまはそのような彼らに、恵みをもって応えてくださいました。合格祈願、出世・成功祈願のお札が神社やお寺に沢山見受けられます。でもダニエルたちのような信仰を心に しっかりと持った上で神さまの守りと導きを祈り求めている人がどれほど居るでしょうか。(後半に続く)
20121216日川越教会
素晴らしい決断(後半)
                                                        加藤 享
(前半より)
[2] 単なる夢大切な夢との区別
では最も信じ難い立場にあるヨセフが、悩んだ末に下した決心を、どうして変えることが出来たのでしょうか。夢に現れた主の天使の言葉を、神さまからの言葉、神さまのご命令と信じて聞き従ったからです。でも夢ほどあやふやなものはありません。大体目が覚めると殆ど正確には覚えていないのが夢です。夢はすぐに消えてしまうはかないものの代表のように言われています。ですからヨセフは、「変な夢を見たものだ」と言いながら打ち消してしまうことも、出来たはずです。
 
しかしこの時のヨセフは、眠りから覚めると、苦渋の決断を変えて、天使が命じたとおり、マリアを妻として迎え入れ、父親として、生まれた子に「イエス」と名付けたのでした。彼は夢のお告げを、神さまからの語りかけとして受け取ることが出来ました。そしてそのお告げ通りを実行したのでした。ヨセフは単なる夢大切な夢とを、どうやって区別して決断したのでしょうか。
 
    ダビデの子ヨセフ
天使のこの呼びかけ「ダビデの子ヨセフ」は、ヨセフに自分が何者であるかを自覚させる言葉です。旧約聖書の預言者は「ダビデの家系から救い主が出る」との神さまの約束を語ってきました。ヨセフはたとえ貧しい村大工であろうとも、ダビデの家系に連なる者です。神さまがヨセフとその婚約者マリアを用いて、救い主をこの世界に送ろうとなさったとしても、少しもおかしいことではありません。天使の語りかけは神さまの約束に合致しています。その事実を示されて、ヨセフは本気になって神さまのお告げに心を向けたのではないでしょうか。
 
    恐れず妻マリアを迎え入れなさい
妻マリア(新改訳聖書「あなたの妻マリア」の方が原典に忠実です)――マリアは未だ婚約者です。婚約期間中なのですから婚約解消しても許されます。ところが天使はマリアを「あなたの妻」と言いました。すると彼はマリアの婚約者ヨセフではなく、夫ヨセフなのです。なぜ縁を切ろうとしたのか?式を挙げない前に子どもが出来たと言われて、正しい男としての面目を失うからです。それよりも何よりもマリアに裏切られたのではないかとの疑いと不信感は深刻です。身に覚えのない子の父親にさせられるなど、お目出度いにも程があります。でもこれらは皆、ヨセフが自分の立場ばかりにこだわる姿です。
 
 マリアはどうなるのでしょうか。たとえ石打ちの死刑を免れたとしても、不義の女とレッテルをはられて独りで子どもを産み、育てていかなければなりません。どんなにつらくて厳しい人生が待ち構えていることでしょう。生涯を一緒にと誓い合ったマリアを独りそのようにさせながら、自分だけ安閑として生きていこうとしている。それでよいのか?お前の愛はその程度のものだったのか?
 
しかもマリアは「民を罪から救うお方の母となる」という大きな役割神さまから授かったと言います。それならば彼女を、夫としてしっかり支えていくことこそ、マリアを愛する男の生き方です。そしてそれがヨセフ自身にとっても、生き甲斐のある人生を送らせるでしょう。天使の助言は、愛をもって意義ある人生を送るという観点から、行動を決めなさいというものだったのでした。
 
その子をイエスと名付けなさい
 イエスとは、助ける、救うという意味をもつ名前です。神さまが自分の民を罪から救うために、マリアによってこの世に誕生させるお方なのです。この誕生によって預言者が語ってきた神さまの約束が実現されていくのです。ヨセフよ、マリアから誕生する子をイエスと名付けて父親となり、マリアと共にこの子を育てて、救い主として世に送り出す役割を果たして欲しいという、神さまの語りかけだったのでした。
 
 そこでヨセフはこの夢を、はかない夢としてではなく、神さまからの大切な語りかけと受けとめて、お従いすることにしたのでした。
 
[3]良い助言者と出会うには
その後のヨセフの生きざまを見てみましょう。彼は翌朝眠りから覚めると、マリアを妻として迎えました。そしてやがて生まれた子にイエスという名前をつけました。父親の役目です。ヘロデ王がベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を殺した時、彼は夢に再び現れた天使の指示にすぐさま従って、マリアとイエスを連れてエジプトに逃げました。ヘロデが死ぬと、また天使の指示に従って、ナザレに戻ってきて、イエスを育てました。
 
聖書はイエスの成長の様子をこう記しています。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:40、52)体も頭も心も調和のとれた成長ぶりです。これはヨセフとマリアの家庭の反映にほかなりません。イエスが成人しますと、ヨセフは歴史の舞台から静かに退場していきました。何という素晴らしい生きざまでしょうか。
 
62才の男性の文を読みました。「同僚や家族にも言えないような悩みが生じた時に、人生の本質を考えるところに立って、悩みと正面から向きあえるように支えてくれる人と相談していたら、どんなに良かったことだろうと悔やまれる」
 
若いヨセフも婚約者のマリアから「神の霊によって身重になった」と告げられて 動転してしまいました。誰にも相談できません。独り苦しみ悩みました。ひそかに婚約解消を決心したものの、なお悩んで眠れぬ夜を過ごしていると、夢に天使が現れて語りかけてくれたのです。天使はヨセフに、自分が何者かを自覚させ、悩みと正面から向き合って、どう生きるべきかを考えさせようと、導いてくれました。
 
62才の男性は良い助言者にめぐり合えなかったと嘆きました。病院の院長辻口啓造も、心の中の底なしの洞窟から、次から次へと湧き出てくる恐ろしい思いに翻弄され続けています。ところが若いヨセフは天使という素晴らしい助言者に出会って人生を 一変させました。では62才の男性も、病院の院長も、どうしてヨセフのように、天使という素晴らしい助言者と出会わなかったのでしょうか。
 
パウロは「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ114)と言っています。天使とは、神さまからの救いを受け継ぎたいと強く願う者に、神さまが送ってくださる奉仕する霊なのですね。
 
ヨセフは、自分もマリアも共々に救われたいと強く願ったのです。ですから神さまは天使をヨセフのもとにお遣わしになりました。ヨセフは遣わされた天使に聞こうとしました。そして奉仕する霊を頂きました。そして妻マリアを支え助けて、マリアに  与えられた使命を一緒に果たして行く人生、奉仕する人生を選び取ったのです。        
 
[結] ヨセフのように
 世界を闇にしているのは、私たちが自分のことばかり考えて、周りの者にいたわりの手をさしのべないからです。ヨセフも自分にこだわっている間は、心が暗闇でした。しかし神さまから送られた奉仕する霊・天使によって、自分よりも弱い立場にある マリアを思いやり、彼女に仕えていく道を示されました。そして救い主イエス・キリストを守り育てて、世に送り出していく意義ある人生を送ることが出来たのです。
 
 世界の一番低い所に救い主イエス・キリストを誕生させて下さった愛の神さまは、ヨセフだけに限らず、悩み苦しみ悲しむ者全てに天使を送って下さっておられます。自分を守ろうとする私たちに、もっと弱い立場にある人を思いやり、仕えていこうとする心を与えて、私たちを闇から救い出してくださるのです。
 
ヨセフは平凡な村の若者でした。ですから私たち誰でもがヨセフになれるのです。クリスマスを迎えるに当たって、私たちは耳をすませて、天使を通して語る愛の神さまの語りかけを聞き取ろうではありませんか。そして人に仕えて生きる喜びを輝かそうではありませんか。       
                                 完

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