日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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201377日川越教会
        人を生かす言葉(後半)
              加藤 享

 
[2] 言葉かけの大切さ
 
 青年時代に、重い心身の障害児の施設「島田療育園」を見学しました。7才から13才位の子どもたちがベットに寝かされていました。自分で手を使えない。歩けない。しゃべることも出来ない。ただベットの上にごろんと寝かされているだけの子どもたちでした。部屋がシーンと静かで、子どもの部屋とは思えません。
 
 そこへ看護師さんがにぎやかに入ってきて、「○○ちゃん さあお散歩しようか」と一人の子をおんぶして、部屋の中を歩き始めました。すると今まで無表情だったその子が活き活きとした子どもの顔になりました。「今日は!お元気ですか」と看護師さんが、背中を傾けて、その子の顔を隣のベットの子の顔に近づけて、ご挨拶をさせました。すると二人ともニコッと笑うのです。
 
 看護師さんの話によると、いろいろ話しかけながら、ゆっくりご飯を食べさて上げるのを、子どもたちが一番喜ぶのだそうです。看護師さんの手記にこうありました。「この子たちでも、食欲だけでは満足しないものを持っている。この子たちが求めているのは、私たちの言葉かけ。心のこもったお相手なのだ。この子たちは人間らしく生きるために、この言葉かけを必要としているのだ」
 
 札幌の聾学校幼稚部の佐藤先生が「うちの子だって聞こえるよ」という本を出しました。それを読みますと、「同じ両親の許で育っている兄弟でありながら、耳に障害があって言葉の聞こえにくい子どもは、良く聞こえる子よりも知識が少ないばかりか、自分勝手で性格にゆがみのみられる場合が多い。どうして同じ親に育てられながら、そのように違ってくるのだろうか。大きな原因は、母親がどうせこの子は聞えないからと諦めて、言葉かけをしなくなってしまうからではないか」とありました。
 
 母親は、まだ言葉がよく理解できない赤ん坊に、おしめをかえ、乳を飲ませ、あやしたり、寝かせたりしながら、毎日何百回となく話しかけます。「育児とは、たゆまない我が子とのおしゃべり」と言われている通りです。赤ん坊は言葉を全く持たないで生まれてきます。しかし何かにつけて語りかけてくれる母親からの言葉が、体の中にどんどん注ぎ込まれることによって、やがて一杯になり、溢れ出るようにして、口から言葉が出るようになるのだそうです。
 
 こうして言葉を身につけていきながら知識を増やし、言葉で考え、言葉で自分の意志を伝え、言葉で決意して行動を起こすようになっていきます。そこで言葉が貧弱な人は、他の人とうまく交われないばかりでなく、思想も貧弱になり、実践力も乏しいと言われるようになっていくのだそうです。札幌聾学校幼稚部の先生は、「耳に障害があっても、耳のよく聞こえる子ども以上に言葉かけをして上げてほしい。そうしたら豊かな人格の人に育っていきます」と訴えていました。
 
[3]  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる
 主イエスはおっしゃいました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 そこで先ず、私たち人間の口から出る言葉であっても、私たちが人として生きていく上で、言葉がどれほど大きな素晴らしい力をもっているかを、身近な例からお話しました。次に神さまと私たちとの関係に於いて、言葉を考えてみることにいたしましょう。
 
「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」――ここには、神さまは私たちに、言葉をもって語りかけてくださるお方だという信仰があります。今私たちが守っている礼拝を見てみましょう。賛美歌、祈り、聖書朗読、説教と、どれも言葉を媒介にした神さまとの交流で組み立てられています。特に聖書によって神の言葉が朗読され、その聖書の言葉の説き明かしとしての説教が、礼拝の中心にあります。皆さんは説教を通して、聖書の言葉を深く聞きとり、祈りや賛美歌で応答しつつ、この一週間を生きていこうとしておられます。
 
宗教によっては、荘厳な儀式供え物を捧げることを中心にした信仰とか、護摩をたいてお経を読みつつ祈りをささげる信仰、厳しい戒律を守り、修行善い行いを積んでいく信仰とかいろいろあります。その中でキリスト教信仰は、神さまが私たちにお語りになる言葉を、聖書から聞きとり、その言葉を食べて、養われ、生きていく 信仰と申せましょう。
 
これは「神は愛の神さまだ」という信仰に基づいているからにほかなりません。 
真実の愛は、愛する相手の自由・自主性をどこまでも尊重します。自分の思いを一方的に相手に強制し、自分の思い通りに相手を動かそうとする愛は、相手を真実に愛している愛ではありません。言葉で愛を伝え、言葉で愛の絆を結び、愛を育てていく――ここに真実の愛があるのではないでしょうか。
 
 神さまは、聖書の言葉に基づく私の説教を通して、今皆さん方お一人お一人に語りかけておられます。しかし皆さんはその語りかけを聞かない自由をお持ちです。また聞いても、それに応答しない自由をお持ちです。会社ではそうはいかないでしょう。上司の指示はしっかり聞かなければなりません。そして言われたことは必ず実行して、結果を出さねばなりません。
 
 しかし神さまは、私たちを真実に愛して下さっておられるので、私たちの自主性を尊重し、聞く・聞かない自由、応答する・しない自由という全き自由の中に私たちを置いて下さり、たとえご自分の期待とは違う行動をとったとしても、それなら勝手にしろと見限らず、変らない愛を持って、更に語りかけ続けて下さるのです。私たちを在るがままの私として受け入れて、愛して下さっているからです。そして私たちに正しい命の道を歩ませようと、語り続ける神さま。このように言葉をもって私たちと結びつこうとしておられる神さまこそ、真の愛の神さまではないでしょうか。
 
 その愛の神さまが私たちに語りかけてくださる言葉こそ、私たちに真実の道命の道を歩ませて下さる言葉です。パンだけで生きるのなら、他の生き物と同じです。神さまのお姿に似る者として造られ、この世界の管理を委ねられた人間として生きようとするのならば、神さまの口から出る一つ一つの言葉を聞いて生きていかなければなりません。
 
[] 神の言葉を食べて生きる
 預言者エレミヤ40年間にわたり、神の民に下される神の裁き、エルサレムの破壊、南王国の滅亡を預言し続けましたが、神の民は王をはじめ皆、聞きいれて悔い改めませんでした。そして紀元前597に、ヨヤキン王以下重立った人々が捕虜となってバビロン王国へ引き立てられて行きました。第一次捕囚です。その後に王にされたゼデキヤ王も、バビロンに反旗をひるがえして11年目の紀元前587に殺され、都のエルサレムは破壊され、王国は滅亡したのでした。
 
 エゼキエルはエルサレムの神殿に仕える祭司でしたが、第一次捕囚の一人として、バビロンへ連れて行かれました。そして5年目の年に、バビロンのケバル川のほとりで祈っている時、神さまから預言者として召されました。エゼキエル書12章に記されています。
 
 神さまはエゼキエルにお語りになりました。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」 エゼキエルの前巻物が差し伸べられました。その巻物には、表にも裏にも哀歌と、呻きと、嘆きの言葉が記されていました。「人の子よ、この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」
 
エゼキエルは口を開き、命じられるままに巻物を食べました。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」  彼がそれを食べると、それは蜜のように口に甘くなりました。 主は言われました。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。
 
 巻物とは、神の言葉が書き記されている巻物です。その神の言葉が、哀歌(悲しい言葉)と、呻きと嘆きの言葉だというのは、その神の言葉を聞いた者を、大きな悲しみと呻きと嘆きに溢れさせる厳しい言葉だという意味でしょう。しかし、聞く者をそのように苦しめる神の言葉を、残さずに全部胃袋に入れて腹を満たすと、不思議なことに蜜のように甘くなったのです。これは神さまの言葉を聞いて、悲しみ、呻き嘆いて悔い改めるならば、甘い蜜のような救いの喜びをいただけるということでしょう。
 
 こうしてエゼキエルは、祖国を失い、敵地で生きる同胞たちを、神の言葉を聞いて悔い改めさせ、蜜のしたたる人生へと導く預言者に召されたのでした。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる言葉によって生きる」 これは神さまがモーセに語られた言葉です。(申命記8:3) 神さまはその言葉を800年後の国が滅びるという危機のなかでエゼキエルを通して示されたのです。そして更に600年後にイエス・キリストを通して私たちに語りかけて下さいました。
人はパンだけで生きるものではありません。神さまの口から出る一つ一つの言葉を聞くことによって、生かされていくのです。私たちはこの大切な言葉を、今日新たな思いで聞きとりましょう。そして聖書を通して語りかける神さまの言葉を、しっかりと聞き、その命の言葉を食べて胃袋を満たし、今日を生きて参りましょう。            完
 
201377日川越教会
         人を生かす言葉(前半)  
                加藤 享
 
[聖書] エゼキエル書28節〜3章4節
  人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。 彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」  わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。
マタイによる福音書4章1〜4節
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
 
[] 聖書を通読する恵み
  聖書は、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合計66巻の文書から成り立っています。内村鑑三は聖書研究の著述活動を通して、聖書の信仰を大勢の日本人に紹介した功労者ですが、こう述べています。「聖書66巻を通読してみて、我々は明白な一事の印象を得る。それは、救われる道はイエス・キリストによる以外、天下になしということである」
 
救い主キリストが来りたもうことを待ち望みつつ、歴史の中で生きた人々の信仰の証を書き記した旧約聖書。ナザレのイエスとしてこの世に来て下さった救い主と出会って救いにあずかった者の証しと、救い主が新しい天地をもたらして下さる終末の黙示録新約聖書です。私たちはとかく新約聖書に偏りがちですが、旧約聖書をも努めて読んで、イエス・キリストを信じる信仰を豊かにしていきたいものです。
 
私たちは聖書教育のカリキュラムに従って、教会学校で聖書を学んでいますが、今年は5月から11月までの7ヶ月間、旧約聖書を読むことになっています。それによって、イエス・キリストを救い主とする聖書の信仰が豊かにされることを期待しています。さて5月のイザヤ書、6月のエレミヤ書に続いて、今月は同じ預言書エゼキエル書です。エゼキエル書も48章ありますから、4回の日曜ではごく限られた部分しか学べません。この機会にご自分で一応通読なさることをお勧めします。
 
[] 人はパンだけで生きるものではない
 イエス・キリストは、救い主としての働きを開始される前に、荒野で40日間の断食の祈りをされました。その時、悪魔から三つの誘惑を受けました。その第一が「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」主イエスはお答えになりました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4:4)
 
 私が青年時代に私の牧師から繰り返し聞かされたお話の一つ。明治時代の日本のキリスト教会の指導者の一人植村正久牧師は、徳川幕府の旗本の家の出身でした。靖国神社近くの富士見町教会牧師を長く勤められました。名古屋で特別伝道集会の奉仕をされた時のことです。或る金持から大層立派な食事のもてなしを受けました。先生は出されたご馳走を喜んで全部平らげた後で、「しかし○○さん、貴方は毎日このようなご馳走を食べておられるのですか?貴方は豚だねー」と言ったそうです。
 
 もてなした挙句に「豚だねー」などと言われたら、普通の人なら腹を立てるところですが、さすがに大きな商売をしている人物です。「先生。それはどういう意味でしょうか?」と静かに質問したそうです。「そうでしょう。毎日うまい物をたらふく食べて満足しているだけなら、豚と変りないでしょう。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 神の口から出る一つ一つの言葉に養われてこそ、人間ではないでしょうか」と植村先生はおっしゃったそうです。
 
 その金持は「本当にそうだ」と心を打たれ、それから聖書を読み、教会に通い始めて、立派なクリスチャンになったそうです。「しかし、貴方は豚だねー」私もご馳走に満腹した時、この声が聞こえてくるような思いになる時があります。人間食べ物がなければ、どんな人でも死んでしまいます。生きていく上で食べ物は絶対に必要です。ですから主イエスも「人はパンで生きるものではない」とはおっしゃっていません。「人はパンでだけで生きるものではない」とおっしゃったのです。
 
 貧しい人々に食べ物を豊かに与えることで、世界を救うキリストであることを現したらどうかという声。この声は今でも強力に響いてきます。そこらにごろごろしている石を次々とパンに変えて配ったら、主イエスはたちどころに、世界中の人々から「世界を救う王の王」として崇められることでしょう。しかし経済が豊かになれば、それで人間は皆幸福になるかというと、そうではありません。日本でも経済が復興し学校の校舎が新しく立派になったら、生徒が荒れ始め、いじめ、不登校、自殺という深刻な教育問題が起こってきたのでした。経済的に豊かになるだけでは, 私たち人間は幸福にならないのです。
  (後半へ)
 2013年6月23日川越教会
      心で結ばれる新しい契約(後半)
                加藤 享
[3] 自発性の大切さ
 以前のことですが、フィンランド政府が15年がかりで健康調査をしました。4045才の管理職を600人づつ2グループに分け、Aグループはタバコ、アルコール、糖分の摂取を抑え、毎日運動し定期検査や栄養調査を受けました。Bグループはただ定期的に健康調査に回答を書き込むだけで、自由に生活します。
 
さて15年たってから二つのグループを比較したら、大きな違いが現れました。心臓血管系の病気・高血圧・死亡・自殺と、すべての項目で何とBのグループの方が発生件数がはるかに少なかったのです。医師も保健省も驚いて、結果を直ぐに発表出来ませんでした。どうしたことでしょうか?
 
B600人は健康管理は自分でと突き放されました。そこで自然と自発的に食べ過ぎ、飲み過ぎ、過労、運動不足を注意しました。A600人も勿論自分で注意したでしょうが、医者や保健所が念入りに指導してくれるので、心理的にどこか依存的なところが出てきて、それが15年間に心身の抵抗力を弱める結果を生じたのでした。
 
健康で長生きするという目的も、保健所の働きかけでやるという動機が外にある人は、自分でよく注意するという動機を内に持つ人よりも、心も体も弱く、早死にが多かった――これは私たち人間にとって、自発性がどんなに大切であるかを教えてくれる貴重な調査でした。
 
[4] 十字架によってもたらされた新しい契約
 主イエスは十字架につけられる前の晩に、過ぎ越しの食事を弟子たちと共になさいました。それが主にとって地上での最後の食事となりましたが、食事の終わりにブドー酒の杯をとり、「この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度にわたしの記念としてこのように行いなさい」(Ⅰコリント1125)とおっしゃいました、
 
ここで主はエレミヤが預言した 新しい契約が、ご自分の血、すなわち十字架の死によって成立されると宣言されたのです。エレミヤが約600年前に預言した「その日が来る」とは、イエス・キリストが十字架で死なれる日だとおっしゃったのです。
 
 また、神さまが望んでおられることを、私たちが自発的に喜んで行い、神の民として輝いて生きるという新しい生が、十字架の死によってもたらされるとおっしゃったのです。
 
 「礼拝が7日以上も間が離れたら、心がとてももたない」という嬉しい言葉を聞きます。でも一方では「どうしても礼拝に出席する気持になれないから、しばらく休む」という言葉を聞くこともあります。信仰生活を送る意欲がなえていく時があるのです。
 
 でもユダペトロの違いを思い出しましょう。ユダは主イエスの逮捕の手引きをしてしまいました。ペトロは「何処までもお従いします」と誓いながら、その夜のうちに「イエスなど知らない」と三度も嘘をついて、我が身を守ろうとしました。ユダは後悔して自殺しました。ペトロは泣いて悔い改め、主につながり続けました。
 
 神さまは私たちの弱さ、罪深さをよく知っておられます。だからイエス・キリストを 救い主としてこの世に送って下さったのです。イエス・キリストが私たちの罪の裁きをご自分の身に引き受けて十字架にかかり、執り成しをして神の赦しを私たちにもたらしてくださいました。そのことをペトロは信じ、ユダは信じられなかったのです。
 
 どんな罪も私たちを神さまから引き離すものではないこと、私たちの現実がどのようなものであっても、私たちは神の民として、永遠の契約3240の中に立ち続けることを、イエス・キリストの十字架の血が保証しているのです。だからどんな罪によっても破られない契約が、十字架の死によってもたらされる――これを「わたしの血によって立てられる新しい契約」と主はおっしゃったのでした。
 
[] 神を喜ぶ新しい心
 主イエスは律法を二つにまとめられました。「全身全霊をこめて主なる神を
愛する隣人を自分のように愛する」(マルコ122931)しかし100のう
ちわずか1くらいしか出来ない自分を情けないと思います。自分を責め始めると、信仰生活から喜びがなくなっていきます。でも主イエスは一つしか出来な
かった愛を責めるよりも喜んでくださり、残りの99はご自分が引き受けてくださ
る救い主なのです。
 
 それが分かると、99やれなかった自分を責めるよりも、1愛せたことを喜べるようになり、神さまの前に安心して立ち続けることができます。神さまをこのように親密に覚えることが出来る心――これこそ新しい心ではないでしょうか。そしてこの新しい心を持つゆえに、新しい契約の中に生き続けることが出来るのです。神の律法を喜び自発的に守ろうとする日々が生まれてくるのです。
 
エレミヤを立てて新しい契約がもたらされるという言葉を聞かせてくださった神さまを賛美いたしましょう。私たちと新しい契約を結ぶために、イエス・キリストを救い主としてこの世に送って下さった、愛の神さまを喜びましょう。
 
そして、十字架にかかって死に、新しい心を持つ新しい人に私たちを生まれ変わらせてくださる救いを備えてくださったイエス・キリストの招きに応える者になりましょう。            
                              完
 
2013年6月23日川越教会
        心で結ばれる新しい契約(前半) 
                   加藤 享
 
[聖書] エレミヤ書31章31〜34節
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
 
[] 過去を振り返り
 米国のロスアンジェルス近郊で暮している長女かおりと孫のサブリナが夏休みで4年振りにやってきました。サブリナは近所の月越小学校3年1組に2週間の体験入学の機会を与えられました。水曜日が参観日でしたので、1時間目国語の授業を参観しました。小学校の教室に入ったのは30年以上も前のことだったでしょうか。教室自体が廊下との区切りがなく、オープン構造で驚きました。きっと教育内容も私たちの時代とは大きく変わっていることでしょう。
 
 私たちの時代には、学校の校門を入ると、玄関との中間に奉安殿という神社の神殿のような造りの建物があり、天皇皇后の写真と教育勅語が収められていました。誰でもがその前で帽子をとり最敬礼をしなければ厳しく叱られました。歴史の授業は初代神武天皇から昭和天皇まで124代の名前を暗誦することから始まりました。日本は2600年以上も続いてきた万世一系の天皇を戴く世界唯一の素晴らしい国なのだから、この天皇様を神と崇めて忠義な国民にならなければならないと繰り返し教えられました。
 
 時代は15年戦争のただなかで、台湾、朝鮮に続いて、満州、支那、東南アジア、太平洋に侵略を拡大して負け戦になり、遂に沖縄を占領され、原爆二発を投下されて無条件降伏。連合軍の占領支配を受けるに至りました。3ヶ月にわたる沖縄戦の悲劇については先ほどもDVDで学び、祈りを共に捧げたところです。
 
日本は破壊の中から新しい歩みを始めました。政治・経済・そして教育も大きく変わりました。その変化の象徴が戦争放棄を誓った平和憲法の制定でした。しかし戦後68過ぎますと、戦前の歴史観に基づく日本人としての誇りを持て、憲法を改正しろという政治家の声が大きくなってきました。彼らは15年戦争で犯した、他国民に対する数々の恐ろしい罪をどのように反省しているのでしょうか。
 
[1] 神の契約を破った神の民
私たちが今月学んできている旧約聖書の預言者エレミヤも、紀元前1000年に始まるダビデ王国が413年後に滅び、バビロンの捕囚となる歴史的悲劇を経験した一人でした。滅亡に向かう王国の末期に、神の裁きによる国の敗北・破壊を、人々の嘲笑、迫害を受けつつ、孤立無援の中で預言し続けたのです。そして歴史は彼の預言通りになったのでした。
 
旧約聖書に記された神の民イスラエルの歴史アブラハムに始まります。紀元前2000年頃のことで、彼は地上のすべての民の祝福の源となるという神の言葉に従って、文明の発祥地メソポタミア地方からパレスチナ地方に移住しました。三代目ヤコブの晩年に大飢饉が起こり、一族はエジプトに避難します。其処で人口200万の民族に成長しましたが、エジプトの王朝が変わり奴隷扱いを受けるようになりました、そこでモーセの指導の下にエジプトを脱出し、パレスチナに戻ってきます。その途中シナイ山の麓で、神の民として生きる契約書として律法を授けられました。
 
彼らは石の板二枚の記された律法(モーセの十戒)を大切に箱に入れて担ぎ、荒野の旅を40年続けました。そしてダビデ王朝が確立しエルサレムに都を定めると、神殿を建てて神の箱を安置し、朝に夕に礼拝を捧げるようになりました。しかし諸民族との交流が広がるにつれ、彼らの拝む神々をも一緒に拝む者が増えてきました。
 
神さまが結んでくださった契約書十戒が記された石の板が、エルサレムの神殿に安置されていることで、神の特別な民であるしるしのようになってしまい、神の民にふさわしく生きるようにと主なる神さまから与えられているとは思わなくなってしまったのです。こうして、神の民が神の民でなくなっていきました。
 
預言者が次々と立てられ、神の裁きの警告を語りましたが、悔い改めが起こりません。遂に国が滅びるという決定的な裁きを受けることになったのでした。しかし神さまはその時に、エレミヤに30章から33章に記されている言葉を残らず巻物に書き記すようにお命じになりました。それが裁きと滅びの後にもたらされる赦しと救いの預言です。
 
[2] 新しい契約とは
 今日の聖書の箇所をもう一度読み返してみましょう。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」
エジプトから救い出された時に結んで下さった、彼らを神の民とする契約を、彼らは破って、国が滅びるという厳しい裁きを受ける。しかし見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主はおっしゃるのです。その新しい契約とはどのようなものでしょうか。それは石の板に書き記して、箱の中に納められているだけのものではなく、人々の心にそれを記され、彼らの胸の中に授けられる契約なのだと言うのです。
 
契約の内容が変わるのではなく、律法の与えられ方が変るのです。モーセを通して与えられた時は、石の板に律法が刻まれて、モーセに手渡され、彼が大切に山から持ち帰って、民たちに読み聞かせました。しかし来るべき日に主なる神がイスラエルの家と結んでくださる契約は、「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す」ことにより、主が彼らの神となり彼らは神の民となるのだと、エレミヤは語りました。
 
「胸の中」とは原語は「内部」で新改訳は「彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」フランチェスコ会訳は「彼らの内面にわたしの掟を置き、彼らの心にそれを書き記す」この箇所は新約聖書のヘブライ人への手紙8章10節にも引用されています。「わたしの律法を、かれらの思いに置き、彼らのにそれを書きつけよう」これを英語の欽定訳では「思い」をmind(知性、理性、考え)、「心」をheart(心、愛情、勇気)と訳しています。すなわちmindheartで、人間の人格的内面性を現している表現だということが分かります。
 
律法が外側から強制されるような与えられ方ではなく、私たちを内面から揺り動かす力として与えられるということでしょう。エルサレムの立派な神殿の至聖所の箱に安置されている律法に代わって、神の民一人ひとりの人格的内面に授けられる律法、これを新しい契約と言うのでしょう。
                         (後半へ)
2013年6月16日渋谷教会
何を大切にするか(後半)
             コリントの信徒への手紙一 4章1〜13節
                                  加藤 享
 
 
[2]  世の屑すべてのものの滓(かす)
今日の聖書の箇所の最後13節で、パウロは「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのもののとされています」と言っています。随分ひどい表現ですね。私は神学校を卒業して51年になりますが、少しでもそのような扱いを受けたら、打ちのめされて、とうの昔に牧師を辞めてしまったことでしょう。パウロはキリスト教信仰をローマ世界に広く伝える偉大な 働きをしたのではなかったでしょうか。どうして自分を世の屑、滓と言うのでしょうか。
 
それは十字架のキリストの僕という徹底した自覚が言わせている言葉だと思います。そうです。十字架刑とは、この世の屑と言われる最悪の犯罪者が受ける刑罰だからです。ですからキリストの使徒パウロは、世の屑・滓扱いを受けたお方の僕に徹しなければと、 自分に言い聞かせて、十字架のキリストを宣べ伝え続けたのでしょう。
 
同じコリント教会への手紙一の第3章で、パウロはキリストという土台の上に、各自が金・銀・宝石・木・草・わらで自分の教会という神殿、礼拝共同体を建てていくと言っています。キリストが再び来られる終わりの日に火をもって仕事が吟味されます。だから火に焼かれ、燃え尽きて残らないような仕事をしないようにと、警告しています。では試練にあって燃え尽きてしまう仕事、木や草やわらで家を建てるとは、何を意味するのでしょうか?
 
カトリック教会の信者遠藤周作が、悲哀に満ちたかくれキリシタンについて、このように書いています。「我が身を守るために、毎年一回の踏み絵を役人たちの前で踏み、村に戻ると“おテンペンシャ”と呼ばれる鞭で自分の体を打ちたたき、こうして生きる悲しさを神に訴え、罪の赦しを乞いながら、それでも生き抜いてくれたからこそ、信仰が今日の私たちに繋がっているのではなかろうか」
 
このようなかくれキリシタンを、遠藤周作はキリストの土台の上に木や草やわらで家を建てた信者と言っているのでしょう。しかし3章15節をご覧下さい。パウロはその人でも「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と言っているのです。何故ならば彼らの 信仰も、キリストという土台の上に営まれた信仰だからです。そして十字架のキリストなら、そんな彼らをも必ずや受け入れてくださると、パウロは信じていたからではないでしょうか。
 
マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人が夜明け、多分6時頃、町の広場で労働者を雇いました。9時、12時、3時にも広場に行って、立ちんぼしている人を雇いました。午後5時にも仕事にありつけなかった人を雇いました。日暮れの6時、夕方の1時間しか働かなかった人から順繰りに、皆同じ1デナリの賃金が渡されました。当然12時間働いた者たちから不満が出ました。実に不合理な話です。こんなことが毎日行なわれたら、朝早くから働きにくる労働者など居なくなるでしょう。ぶどう園はつぶれます。
 
しかしこの主人は5時まで仕事を待ち続けた人辛さ、悲しさを知っていたのです。彼も家族を食べさせるお金が必要なのですから。夜明けから暑い中を辛抱強く12時間も働いた人たちは勿論立派です。彼らのおかげでぶどう園の仕事がはかどりました。パウロの言葉で言えば、金・銀・宝石にたとえられる仕事をやったのです。でもイエス・キリストは、わらの仕事しか出来なかった人にも目を注ぎ、心を寄せて、受けとめくださる神さまの姿をお示しになったのでした。
 
一番弱い者、一番惨めな低い者を見過ごしにせず、寄り添って下さる神さまの愛、それをそのままキリストの十字架が現わして下さったのでした。だからパウロは、コリント教会の人たちにこう書き送ったのでした。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(Ⅱコリント112930
 
[] キリストの教会で大切にされる心
日曜礼拝を最優先にして守って下さる教会員が核になって、真剣で豊かな礼拝 共同体が建て上げられていきます。役員として役割を担って下さる、或いは様々な委員として伝道活動を担って下さる教会員がいなければ、教会の証は社会に拡がっていきません。また献金によって財政を支えることがあって、牧師・スタッフの給料、建物の維持管理、集会や活動が実施出来るのです。このような教会員の働きがあって、渋谷教会という神の神殿、礼拝共同体が、建て上げられ、活動が拡大していきます。
 
しか私たちは、教会の土台であるイエス・キリストが、世の屑・滓といわれる十字架につけられたキリストであることを、しっかりと心に留めておく必要があります。キリストは世の屑・滓といわれる者に身を寄せ、心を寄せて生きられましたから、十字架で死なれたのでした。
 
私たちが生きているこの社会では、夕方に1時間しか働かなかった者に12時間働いた者と同じ賃金を払うなどという事は通用しません。しかしキリストの教会は12時間働けた者が、1時間しか働けなかった者に寄り添って、悲しみや喜びを共有することを、何よりも大切にする神の神殿でありたいものです。ここに教会の一致の要があるのです。
 
そのために牧師としての私も、パウロと同じように、自分が弱い者、愚かな者、侮辱される者であって当然だという自覚をもって、教会にお仕えしなければと改めて反省させられました。
 
牧師就任式でのお祝いの言葉に戻ります。「牧師先生を中心にして教会が発展していきますように」教会の一致の要は牧師ではありません。コリント教会の創設者パウロは申しました。教会の土台は十字架のキリスト。ですから教会一致の要も十字架のキリストです。牧師は船長ではありません。船底で懸命に船を漕ぐ漕ぎ手の一人に過ぎません。この説教を準備しながら、私自身がこの自覚を新にさせられました。このような機会を与えてくださった渋谷教会の皆さまに、心から感謝いたします。
 
パウロはコリント教会に書き送りました。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(コリント二1129
 
教会内ばかりでなく私たちが暮す社会ででも、この心が何よりも大切にされなければと思います。そしてそれがキリストを信じる私たちの責任ではないでしょうか. 
                               完 

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