日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

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2013年6月16日渋谷教会
何を大切にするか(前半)
        コリントの信徒への手紙一 4章1〜13節                                               加藤 享
 
[] 牧師の役割
或る教会で他の教派から移ってきたけれども、会衆主義のバプテスト教会はどうしても馴染めないと言って、去って行かれた方がいました。「神の僕として特別に召された牧師先生も、長い信仰生活を忠実に送ってきた自分も、昨日バプテスマを受けて教会員になったばかりの人も、教会総会では皆同じ一票で事を決めるのはどうしても納得がいかない。先ず牧師先生が、その次には自分のような信仰暦の長い信者の意見が尊重されて当然ではないか」と言うのです。
 
また或る教会の牧師就任式で近隣教会の代表が「牧師先生を中心にして教会が発展していきますように」と祝辞を述べておられました。牧師先生の霊的指導の下に教会員が一致協力して伝道の進展をはかるというのでしょうか。たしかに牧師のいない教会では、役員同士の意見がばらばらで後任の牧師招聘すらもスムーズに決まらないという例を耳にします。教会の一致は牧師が要(かなめ)なのでしょうか。「神の僕として特別に選ばれた牧師先生の権威」とは何でしょうか。
 
[1] 船底で船を漕ぐ務め
コリント教会では、勝手にパウロを担ぎ上げたり、アポロを担ぎ上げてグループを作り、張り合うことで教会の一致が損なわれていました。そこでパウロは3章では、パウロもアポロも主がお与えになった分に応じて、植える、水を注ぐという働きをした奉仕者に過ぎず、成長させてくださる神こそが大切だと言いました。
 
そして今日の4章では、先ずパウロは「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と述べています。
 
仕える者」と訳された語は、本来は「下の漕ぎ手」です。昔の地中海で活躍した大型の軍艦ガレー船には櫓を漕ぐ場所が二段、三段の階層になっていました。そして船尾に座をしめるリーダー格の男が太鼓を打つように規則正しく板木を叩くと、各階層の奴隷たちがその音に合わせて一せいにオールを漕ぎます。単調でしかも 全力を振り絞って漕がなければならない過酷な労働です。その下層の漕ぎ手を「下の漕ぎ手」と言い、「人の下で働く者」「仕える者」を指すようになりました。
 
パウロはコリント教会を創設した自分も、後に来て奉仕したアポロも、キリストの前では最下層で船を漕ぐ奴隷だと言います。また神の秘められた計画、すなわちこの世の知恵をもってしては悟ることの出来ない、神の知恵である十字架のキリストの福音を委ねられた管理人だと述べています。この管理人も主人の家の管理を任された僕で、身分は奴隷です。主人に対して絶対的な忠実さが求められていました。
 とにかくパウロ曰く、牧師先生は船長ではなくて、船底で忠実に船をこぐ漕ぎ手の一人なのですね。あるいは主人の家の管理を任された奴隷なのですね。
 
そう自覚するパウロは、コリントの教会と自分やアポロとを対比させて、あなた方はキリストを信じて優れた者、賢い者、強い者になり尊敬されているが、私たちはキリストのために愚か者となり、弱く侮辱されている。あなた方は勝手に大金持ち、王様になっているが、神さまは私たち使徒を、まるで死刑囚のように世界中の見世物になさったと言っています。
 
ローマではネロの迫害の時、大きな円形競技場に集まった見物人の前で、クリスチャンたちは十字架刑にされたり、飢えたライオンの餌食にされて食い殺されました。 ペトロもパウロも、そのような殉教の死を遂げたと言われています。どうしてパウロは、使徒であり、コリント教会の生みの親である自分を、そのように弱い、惨めな者として強調したのでしょうか。
 
それはパウロがキリストに仕える者だからなのです。パウロは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外何も知るまい、と心に決めてコリント伝道を始めた」と2章で述べました。パウロが絶対の忠実さで仕える主人のイエス・キリストは、十字架につけられて人々の嘲笑のなかで死んでいかれた救い主なのです。
 
[2]  弱さと愚かさの究極に救いを見る信仰
日本人に人気が高い水戸黄門の諸国漫遊記では、悪人どもとの最後の大立ち回りの最中に、格さんが指し出す印籠に記された葵の紋所・天下の副将軍の威光で「静まれ、静まれ」と一同を平伏させて悪を成敗します。この痛快さこそまさに正義だと、皆は納得するのです。
 
人々はキリストに対しても「救い主なら今十字架から降りてこい」と葵の紋所を求めました。ところがイエス・キリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら、人々の嘲笑の中で死んでいかれました。水戸黄門と比べるならば、無残な敗北者にしか見えません。しかし死刑を執行したローマ兵隊長は、その敗北者を目の当たりにして「本当に、この人は神の子だった」とつぶやいたのでした。(マルコ1539
 
越後のちりめん問屋のご隠居さんは、葵の紋所で天下の副将軍の威光を現わします。しかしイエス・キリストは十字架の上で絶叫しながら息を引き取っていかれたお姿で、神の子であることをお示しになりました。このキリストを救い主と信じる私たちの信仰は、弱さと愚かさの究極に、神さまの無限に深い憐れみと救いを見ていく 信仰なのです。ですからパウロは、十字架のキリストと同様に自分が弱い者、愚かな者、侮辱される者であって当然だと、自覚していたのでした。
 
ところがコリント教会の人々は、パウロとアポロを比べて、どちらがより優れているかを自分たちで判定して、片方を持ち上げ、片方をないがしろにして、徒党を組みました。これに対してパウロは、コリント教会の人たちは、親分を選んで担ぎ上げようとしているのだから、自分たちは子分だと思っているのだろうが、それは違う、逆だと言っています。
 
そうです。入社試験の例を考えて下さい。応募者と、その優劣を判定する試験官とどちらが上でしょうか。合格者がどんなに優れているとしても、そういう彼を選ぶ試験官の方が経験・知識が上なのです。ですからパウロをアポロより優れた牧師だと判定する、或いはその逆にアポロをパウロより優れた教師だと判定するあなた方は、パウロやアポロよりも信仰が豊かになったのであり、勝手に信仰の大金持ち気分王様気取りを演じていることになるのだと、指摘したのでした。
                 (後半へ)
201362日川越教会
神に呼び出された青年(後半)
                    加藤 享
 
(前半より)
 
[2] 何が見えるか
 
私や山下先生、喜美子や伊藤三恵子さんは、若いときに目白ヶ丘教会で熊野(ユヤ)清樹牧師の説教を聞いて育ちました。先生は色々なエピソードを説教の中で繰り返し語られました。「もう何回目だと指折り数える人も居るだろうが」とおっしゃで語られましたから、今でも鮮やかに甦ってきます。そのなかの一つです。
 
先生が熊本県人吉の小学校時代のこと、習字の時間に受持ちの先生が、柱によりかかりながら外を眺めていました。突然一人の子を呼んで窓のそばに立たせ「何が見えるか」と尋ねました。その子は首をかしげるだけでした。「もうよい。席に戻りなさい」 次の子が呼ばれました。「何が見えるか」その子も首をかしげるだけでした。
 
習字を書いていた子供たちは俄然興味をそそりました。幾人目かに「熊野」と呼ばれました。先生の傍らに立って外を眺め渡しました。「何が見えるか」いつもながらののどかな田舎の風景です。特別変った様子はありません。ところが校庭と地続きの農家の縁先で、子守さんが赤ん坊を抱きながら、こくりこくりと舟をこいで居眠りをしているのに気付きました。赤ん坊を縁側から下に取り落としたらケガをします。「先生、危ないです」「そうか、行って起こして上げなさい」熊野少年はとんで行ってその子守さんを起こして、教室に戻って来たそうです。
 
「何が見えるか」「先生、危ないです。」「そうか、行って起こして上げなさい」 皆が皆、危ないと気が付くわけではありません。ですから危ないと気付く心は天与の才の一つ、神さまから与えられた賜物gifyt)ではないでしょうか。あめんどうの枝を見ながら、預言者に召されたエレミヤと神さまとの会話と重なるお話ですね。
 
熊野先生はお父さんを早く亡くしたので、中学校に進まず高等小学校を出て、内務省の衛生試験所で働き始めました。しかし試験管をふるっている毎日の生活が、何か他人の仕事をしているような気がして、仕方がありません。「自分でなければならない仕事があるはずだ。」こうして牧師になる道を神さまから示されて、東京に出て中学2年に編入し、神学校への道を歩み始めたのでした。
 
ああ、わたしは若者にすぎませんから」と尻込みするエレミヤ中にも、既に生まれる前から、「シャーケード」から「歴史を見張っている神さまの眼差し・ショーケード」に気付く賜物が、授けられていたのでした。主は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、言われました。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
 
神さまからこう言われてしまうと、エレミヤは返す言葉がなくなってしまいました。小さな村の祭司の息子です。どれ程の学歴の持ち主か。都の神殿や王宮で語るとすれば、貴族出のイザヤとは違い、軽くあしらわれる惨めさを味わうことになるでしょう。彼の尻込みも当然でした。
 
ところが神さまはおっしゃいます。「わたしがあなたを誰のところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」 そうです。何を語るのか。自分が考えたことを語るのではありません。神さまが語れとお命じになる言葉をそのまま語ることが、預言者の任務なのです。
 
混沌とした時代の流れのなかで、ただ自分の思いのみで安楽に毎日を送っている多くの人々。神さまはどのように歴史を導こうとしておられるのか、その言葉を語る預言者に聞き従うことこそが、私たち人間にとって最も大切ではないでしょうか。
 
[結] 聖書から神の言葉を聞きとる
日本が戦争に負けた時、学校で教科書の間違いを、先生の指示で、習字の墨と筆で黒く塗りつぶす作業をさせられました。こんなに間違っていたことを学んでいたのかと、愕然としました。時代が変わろうと墨で消されることのない、本当の真理を学ばなければならないという思いが、心の底からふつふつとこみ上げてきたことを、今でも忘れません。
 
軍人になって天皇陛下に命を捧げるという人生の目的を失い、新しい目的をつかもうと、本を読み漁りました。聖書を手にしました。その聖書が私を惹きつけました。しかし分からないことだらけ。友人の教会に連れて行ってもらいました。説教を聞きながら聖書を読んでいくうちに、私に対して神さまが呼びかける言葉として、聖書に向かい合うように導かれました。聖書から神さまが私に語りかけておられる言葉を聞き、神の御心に従って生きる信仰を与えられました。神さまは、私を牧師にお召しになりました。
 
どう生きたらよいか迷う時に、私たちは正しい判断を示す言葉を必要とします。その言葉を聞いて考え、自分の言葉で語りながら、自分の考えがまとまっていきます。そして言葉で決意を表明し、行動を起こします。このように言葉で私の人格が形成され、言葉で私の生き方が綴られていくのです。人間の言葉を聞くことによってすら、私たちは人間として成長していくのですから、神さまの正しい命の言葉を聞くことが、私たちにはなおさら大切ではないでしょうか。
 
私は聖書を読みながら、今どう生きるべきかを示す神さまの言葉を聞き取って従う生活を続けて今日に至りました。本当に幸いな人生を歩んで参りました。特に聖書から聞きとる神さまの言葉をお取次ぎする牧師の務めを長くさせていただいておりますことを、心から感謝しています。
 
「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とエレミヤに語られた神さまは、皆さんお一人ひとりにも語りかけておられるのです。
 
 皆さんは、その語りかけをお聞きになっていませんか。今日のスケジュールの中でどうすることが、神さまの御心でしょうか。どちらを選ぶべきか、何をなすべきか、聖書を読みつつ、祈って御心を聞いて参りましょう。神さまの霊、聖霊が私の心に働きかけて、神さまの言葉を、聖書を通して示してくださいます。
 
 私たちの人生の違い――それは一人ひとりに対する神さまの期待、ご計画の違いです。貴方でなければならない仕事、貴方にして欲しいと神さまが願っておられる任務を、各自が信仰をもって聞きとり、神さまの御心にあるご計画を、実現させて参りましょう。     完
201362日川越教会
神に呼び出された青年(前半)
                     加藤 享
 
[聖書]エレミヤ記1章1〜13
 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
  主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。   見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと、見張っている(ショーケード)。」 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる、この地に住む者すべてに。」
 
[] 預言者エレミヤの登場
 私たちは、5月に旧約聖書の預言者イザヤを学びましたが、今月はエレミヤの予言を学びます。エレミヤ書の書き出しによれば、彼は南王国の都エルサレムから北東56km離れた小さな村アナトトに暮らす祭司ヒルキアの子です。北王国がアッシリアに滅ぼされてから約68年後の紀元前650年頃に生まれたと言われています。そしてヨシア王(BC640 609)の治世第13年(628)に神さまから預言者に立てられました。イザヤよりより114年程後輩の預言者、しかし釈迦よりも100年近く昔の人です。聖書の世界は仏教よりもずっと古いのですね。
 
 1章の3節によりますと、彼はゼデキヤ王の治世11年(587)にエルサレムの都がバビロンによって落城し、南ユダ王国が滅び、主だった大勢の人々が捕囚となってバビロンに連れて行かれる迄、預言者の活動を続けたとあります。(13)しかし実際には、その後エジプトへ連れて行かれ、そこでも予言活動をして死にました。国が滅びる激動の時代に、50年近く神さまに用いられた預言者です。
 
[1] エレミヤの召命
新共同訳聖書では、1章4節の前に「エレミヤの召命」という小見出しがついていますね。この召命という言葉は、日本の代表的な辞典「広辞苑」(岩波1955年版)、また新しい「実用新国語辞典」(三省堂1987年版)には記載されていません。1989年に講談社から出た「日本語大辞典」に至ってやっと登場します。そこにはこう記されています。「キリスト教用語。神が特定の人を選んで一定の仕事をたくすこと。またその仕事、vocation
 
 このように召命という言葉は日本固有の文化にはなかったものでキリスト教用語 なのです。聖書には、言葉をもって語りかける神さまと、その語りかけに応答して生きた人間、又それを無視して生きた人間の人間模様が歴史を通じて記されています。
 
日本語大辞典によりますと、召命とは、1)神が選ぶ 2特定の人に 3)仕事をたくすという、三つの要素から成っていると説明されています。これをエレミヤ書1章に適用すると、「1)主なる神がアナトトの祭司ヒルキヤの子エレミヤを選んだ 2)主は彼を生まれる前から預言者に決めていた。3)主は彼に諸国民・諸王国に対する預言者の仕事を託した」ということになります。
 
エレミヤの冒頭の言葉に注目しましょう。「主の言葉がわたしに臨んだ。わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」
 
この私は偶然にこの世に生まれて、今生きている者なのでしょうか?居ても居なくてもかまわない者、つまらない存在なのでしょうか?こんな者でも親が懸命に愛し、育ててくれた、だからくだらない生涯を送っては申し訳ない、せめて親の恩に報いなければ、と生きる意義を説く人もいます。否、違います。私は偶然この世に現れたのではありません。私を形造り、誕生させ、この世で生きる者にして下さったお方がいらっしゃる。世界の創造主、神さまがいらっしゃる――これが聖書の信仰です。
 
私を母の胎内に宿し、形造り、育て、この世に誕生させた神さまは、私の生涯にご自分の計画、期待を託して、私を誕生させて下さった。私はその期待を担って今を生かされている――これが青年エレミヤが聞きとった神さまの言葉、「母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」だったのです。
 
ではエレミヤはこの召命を何時、どのようにして明確に受け取ったのでしょう。内村鑑三はエレミヤを「余の特愛の預言者」と呼んでいますが、こう推測しています。「多分、青年エレミヤがアナトテ付近の郊外を独り歩みし時、あるいは古きオリーブ樹の下に独り黙想にふけりし頃、彼の心琴に幾度となく触れし、細きかすかな声があったろう。彼は幾度となく打消さんとせしが、しかしその声は去らなかったであろう。彼は遂に彼の預言者として神の預定されし者であることを、信ぜざるを得ざるに至ったのであろう」
 
 内村がこの様に自然を逍遥する青年の姿を推測したのは、11112節の言葉によると思われます。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと 見張っている(ショーケード)。」
 
 「アーモンド(シャーケード)(口語訳では「あめんどう」)は、パレスチナではすべての木に先駆けて1月の終わりか2月の初めに花をつける木です。私たちが長く暮した北海道の札幌でいえば、雪がまだ積る3月末に、山の麓に咲くコブシの花にあたるでしょうか。万物が眠っている真冬のさなかに、早くもあざやかな花を咲かせる準備を始める木の細い枝に現れる変化を、エレミヤも観察していたのです。
 
混沌とした歴史の中で、神さまが独り、ご自身の裁きと救いの御業を行われる時期を見計らっておられます。神さまは自然の変化を鋭く観察している青年エレミヤに注目されました。そして御自分がこれから成し遂げようとしていることを、この若者に お示しになったのでした。再び神さまは言われます。「何が見えるか。」エレミヤは答えました。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」これは、北の強国の攻撃によって、南王国も滅ぼされる災いが襲いかかってくるという予告でした。
                (後半へ)
2013519日川越教会
美しい足よ(後半)
         加藤 享
(前半より)
[2] 弟子たちの足を洗われた主イエス
 ヨハネ福音書が記す主イエスのお姿が浮かんできます。4章にサマリアの町はずれの井戸端で、真昼時に人目をしのんで水を汲みにきた女性に、主イエスは言葉をかけられました。主との会話を通してこの女性は、主が待望の救い主ではと思い始めました。彼女は水がめをそこに置いて町に行き、人々を連れて来ました。この時主は弟子たちにおっしゃいました。(4:3542
 「あなたがたは『刈り入れまでまだ4ヶ月もある』と言っている。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」主はサマリアのこの女性の中に、サマリヤの人々の救いという収穫の最初の一束を見ておられたのでした。そして事実、それから二日間滞在して、多くのサマリア人を救いに導かれたのでした。主イエスは、将来の出来事を今に引き寄せて、見据えておられるお方でした。
 
 その主イエスが十字架にかけられる前の晩に、弟子たちと最後の食事をおとりに なった時のことです。食事の前に上着を脱ぎ、たらいに水を汲んで弟子たち一人ひとりの足を洗い、腰にまとった手拭いで拭きました。(13:4〜5)主は何故、弟子たち皆の足を洗われたのでしょうか。勿論、身を低くして謙遜に仕え合うことの大切さを教えるためでした。しかしそれだけではありません。
 
最後の晩餐の後、主が逮捕されるや弟子たちは皆逃げ散ってしまいました。弟子の筆頭ペトロなどは、イエスを知らないと三度も嘘をついて我が身を守ってしまいます。しかし主はその先を見ておられるのです。主の十字架の死によってもたらされる救いの福音は、この弟子たちの足が、全世界のすべての人々に、告げ知らせることを。
 
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足、平和を告げ、救いを告げ、恵みの良い知らせを伝える足は、なんと美しいことか――ですから主イエスは弟子たちが逃げ散る前に、十字架の福音を告げる伝道者の足の美しさを、弟子たち一人一人の足にご自分の手で直接ふれて、伝えられたのではないでしょうか。
 
 十字架の死の後で墓に葬られた主は、三日目の朝に復活して弟子たちの前にご自身を現して、彼らにお命じになりました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また地の果てに至るまでわたしの証人となる」(使徒言行録1:8)そしてその約束通りに、50日たった五旬節の朝に、聖霊が弟子たち一人ひとりの上に豊かに注がれて、彼らは皆、世界の色々の言葉で福音を語る伝道者になったのでした。
 
 キリスト教徒を迫害していた熱心なユダヤ教徒のパウロも、復活されたキリストと出会って回心し、聖霊に導かれて、福音を世界に伝える伝道者として生涯を献げました。彼もローマの信徒たちへの手紙にイザヤの言葉を引用しています。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(ローマ1015
 
[] イザヤの予言の成就
 イザヤは、今日の予言に引き続いて、「主の僕の苦難と死」を語りました。(52135312)「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」と語りながら、そのお方は「輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだと」「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼が受けた傷によって、わたしたちは癒された」「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」
 
 イザヤが死んで700年後に、ベツレヘムの馬小屋で誕生したイエス・キリストは、この予言通りの生涯を送られ、十字架にかけられながら、「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ、自分を十字架につけた人々の罪を、ご自分の身に引き受けて死んで下さいました。そして一切の暴力を否定し、愛し合い重荷を負い合って共に生きていく十字架による平和の道をお開きになりました。
 
今日の予言の終わり、5210節に「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」とあります。そうです。世界の究極の救いと平和は、この十字架の救い主イエス・キリストのもとに、全ての人が集まり、その御言葉を聞き、示される愛の道を歩むことによってもたらされるのです。
 
今日は十字架から50日たった聖霊降臨の記念日(ペンテコステ)です。弟子たちが 聖霊を頂いて世界に良い知らせを告げる美しい足となって、働き始めた記念日です。私たちも、聖霊の豊かな降臨を、心を合わせて祈りましょう。
 
そしてこの救い、この平和の知らせを、わたしたちも家族に、友人に、日本のすべての人々に、世界のすべての人々に、知らせていきましょう。聖霊として今も私たちと共にいてくださる主イエスは、わたしたちの足をも洗って、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」と呼びかけて下さっておられます。  完
 
2013519日川越教会
美しい足よ(前半) 
               加藤 享
[聖書] イザヤ書52章7〜10節
  いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ 「あなたの神は王となられた」と  シオンに向かって呼ばわる。 
その声に、あなたの見張りは声をあげ 皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る 主がシオンに帰られるのを。
歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。
 
[] イザヤが生きた時代
 預言者イザヤは、主イエスの誕生よりも740年ほど前に、南ユダ王国のウジヤ王が死んだ年、神さまから預言者として召されました。そしてヨタム、アハズ、ヒゼキヤと三代の王の時代に貴重な予言の数々を残し、マナセ王の時代に殉教の死を遂げたと言われています。
 
66章全部がイザヤの予言ではなく、40章以下BC586年にユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、捕囚として50年を過ごした時期のものではないか(第二イザヤ)、55章以下は更に後の時代の予言ではないか(第三イザヤ)という学説が、18世紀中ごろから強くなってきました。しかし私は、聖書が依然としてイザヤ書66章をイザヤの予言としている以上は、全てを預言者イザヤの予言として読みとっていこうと思っています。
 
 イザヤが生きた時代は、北のアッシリアが強大になり、国際関係が大きく変化した時代でした。南に位置するシリアと北イスラエルは南ユダと三国同盟を結んでアッシリアの侵略に対抗しようとしました。しかしアッシリアから一番遠い南に位置するユダはその誘いを拒否したので、シリアイスラエル同盟軍がユダに攻め込んで エルサレムを包囲しました。そこでユダはアッシリアに従属する条件で、同盟軍を北から攻撃するように願い出ました。
 
 アッシリアは早速シリヤに侵略してこれを征服し、更に北王国イスラエルも滅ぼしてしまいました。紀元前722のことです。ユダはアッシリアの強力な支配から逃れるためにエジプトに助けを求めました。そこでアッシリアの大軍がユダに攻め込み、エルサレムを包囲しました。ところがアッシリア軍18万5千人が一夜のうちに自滅してしまう奇跡が起こり、ユダは生き延びたのでした。紀元前700年頃のことです。
こうしてしばらくの間、アッシリアの脅威は収まりました。しかしアッシリアは 紀元前612年にバビロンに滅ぼされ、そのバビロンによって紀元前586にユダ王国も滅ぼされ、エルサレムは廃墟となり、王以下主だった人々はバビロン捕囚の50を過ごすことになったのでした。捕囚から開放されて帰国を赦された人々がエルサレムの神殿と城壁を再建したのは紀元前444です。国が滅び、イスラエルが廃墟にされてから143年も経ってのことでした。
 
[1] イザヤに示された予言
 私たちは去年の9月から11月にかけて、丁度その歴史を列王記下、エズラ記、ネヘミヤ記で学びました。その時私は「国が滅びるとは」「心に刻まれた喜びの叫び」「生きる力の源」と題して3回、大きな歴史のうねりのなかで、イスラエルの民がどのような信仰の歩みをしたかを説教させていただきました。読み返していただけたらと思います。後のテーブルにも置いておきました。
 
 なぜ国が滅びるのでしょうか。歴史に学んで世界情勢を的確に判断できなかった国王の無能さが上げられます。しかし聖書は「主の目に悪とされることを行ったから」と繰り返し語っています。主の目によって国の存亡が決まる−−人間の思惑や行動が歴史を織りなしていくように見えますが、歴史は神の御心が働く場であるというのが、聖書の信仰なのですね。それ故に私たちは神の御心を尋ねつつ、歴史に参与していかなければなりません。
 
 今日のイザヤの予言には、「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」(9節)という言葉があります。エルサレムがまだ廃墟のままになっていて、何時再建されるか見通しの経たない時の言葉だとすると、エズラやネヘミヤの帰国の頃ということになりましょうか。エズラの帰国が紀元前458年、ネヘミヤの帰国は445年です。それはイザヤよりも250年以上も後のことでした。だから第二イザヤの言葉だろうと言われます。
 
 しかし前々回に私たちはイザヤ書2章「終末の平和」の予言を学びました。イザヤが幻に示されて語った予言は、歴史の終局に神さまがもたらしてくださる、全世界の全く新しい平和です。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばなくなる 世界の到来です。
 
先週山下先生と学んだイザヤ書6章イザヤの召命も、彼が「高く天にある御座に座して居られる」聖なる万軍の主なる神さまを見上げて、御言葉を聞き取っていました。神さまの支配とご計画は歴史の究極までを視野におさめつつ、今をもお計りになっておられます。ですからイザヤの予言も歴史のはるか先の出来事を、今生きる者にも語るのです。
 
 国が滅びるとは、その国の人々が頼りにしていた神が滅びることを意味しました。紀元前2000年も昔に世界の全ての人々の祝福の源としてアブラハムを選び、その子孫イスラエルの民を通して、祝福を世界に及ぼそうとして、歴史を導いて来られた世界の主なる神さまが、バビロンによってイスラエルもろともに滅ぼされてしまったとすれば、イスラエルの民にとって、自分たちの存在そのものが全否定されたことを意味します。これは最も深刻な絶望でした。
 
 しかしイザヤに示された予言は、万軍の主は生きて居られて、廃墟となったエルサレムに、王として戻って来られるというのです。電話やラジオ、テレビの無い時代です。主から使わされた伝令が山々を行き巡り、そのよい知らせを伝えて回るしかありません。町には見張りの塔があり、走ってくる伝令を見張っていました。遂にある日、一人の伝令山の上に現れて叫んだのです。「あなたの神は王となられた。主がシオンに帰られるのを、目の当たりに見る
 
 万軍の主なる神さまがエルサレムに帰って来てくださる。民の罪を赦し救いと平和を再びもたらして下さるのです。民よ、歓声をあげ、共に喜び歌おう。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐのです。なんと嬉しいことでしょうか。
 
 それにしても、山々を行き巡り、このよい知らせを伝えながら遂にエルサレムにも到着したこの伝令の足は、汗とほこりにまみれ、石につまずいて傷つき、血に染まっていたことでしょう。しかし恵みのよい知らせを伝えてくれたです。なんと貴い足でしょうか。なんと美しい足でしょうか。
 
 20章には、イザヤが神さまから裸、はだし3年間歩き回れと命じられています。イスラエルが助けとして依り頼むエジプトとクシュ(エチオピア)の人々が、アッシリアの捕虜になり、このように恥をさらして引き立てられていくことを、行動で予言 させられたのでした。
 
イザヤはどんなに恥ずかしい3年間を過ごしたことでしょうか。はだしで歩く痛みと惨めさを身にしみて感じる日々だったに違いありません。しかし52章の場面では、伝える言葉が平和と恵みの良い知らせなのです。ああこれを伝える足は、なんと幸いな足だろう、なんと美しい足だろうと、心の底から喜びつつ、イザヤはこの予言を語ったことでしょう。(後半へ)

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