日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

礼拝説教2011年

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2012年9月2日川越教会

                  どちらが本物か[後半]

                                         加藤 享

(前半より)

 丹頂鶴自然公園の実験によりますと、丹頂鶴の卵は保温器で温められても最後の10日間言葉かけをされないと雛が殻を破って生まれてこない。言葉がかけられることによって、卵の内にある命がひきだされて、生きるものとなるのだそうです。まして私たち人間は、言葉をかけられていくことによって人格が形成され人間になっていくのです。ですから人間を創造された神さまが、言葉をもって私たちに絶えず語りかけ、私たちの人格を養い育てていこうとされることは当然ではないでしょうか。

 仏教徒は沈黙する仏の前で自己との対話に精進し、ととのえられた自己、優れた人格を確立していくといわれます。私はそのような自分との対話に精進する方に深く敬意を抱きます。でも神さまとの対話と自分との対話を比べる時、私にとっては真の神さまとの対話の方が、人格を育んでいくにあたってはるかに優っていると思えるのです。

 何故ならば、私のような者が一人で語り始めると、どうしても手前勝手な自我のこだわりから抜け出ることが困難だからです。神さまああしてください、こうしてくださいという祈りは、神さまを召使にして自分の欲を果たそうとする自己中心的なご利益信仰に他なりません。神さまから正しい命の言葉を聞き、自我のこだわりから引き離されて、真実に応答していこうとするところで、私の人間としての在るべき人格が創られていくのではないでしょうか。私にとっては、もの言わぬ神をつくって拝むことは、自分を卑しくしていく道だと思うのです。

[2]神さまとの真実な交わり
 日本のプロテスタントの信仰の発生地は、横浜・熊本・札幌です。札幌の場合は「青年よ、キリストにあって、大志を抱け(Boys, be ambitious in Christ)」の言葉で有名なDr. William Clarkの感化を受けた青年たちから始まりました。クラークは北海道開拓使長官の黒田清隆に招かれ、札幌農学校初代教頭として明治9年(1876年)に来日しました。

 彼は横浜に上陸して、昼間から酒に酔って醜態をさらしている若者を幾人も見かけて驚きました。そこで横浜から苫小牧までの船旅の途中で、アメリカから持ってきたブランデーの箱を全部海に投げ捨て、札幌滞在中はアルコールを一切口にしなかったそうです。彼は聖書も沢山持って来ました。聖書をもって生徒の人格教育をしようとしたのです。黒田長官は国立学校だからそれは困ると反対しましたが、それでは教育に責任が持てないからアメリカに帰ると言われて、仕方なしに許可したそうです。

 クラークは聖書を教え始めてしばらくしてから、「耶蘇の信徒の誓約(イエスを信じる者の誓約)」を書いて第一期生に示しました。すると16人全員が署名し、翌年に入学した第二期生15人もそれに署名したそうです。クラークは僅か10ヶ月しか 札幌に滞在しませんでしたので、第二期生は直接クラークの教えに接していません。しかしこの誓約にこめられたクラークの信仰は大きな影響を二期生にも与え、彼らの中から宮部金吾、内村鑑三、新渡戸稲造などの優れた信仰者が出たのでした。

 この誓約は二部から成っており、罪を贖うキリストの救いを信じること、それゆえに十戒を守る生活を送るというものです。すなわち十戒を守る生活が彼ら若者たちの信仰生活のしっかりとした枠組みとなり、札幌バンドの若者たちの成長を導いたのでした。宮部金吾17才、内村鑑三16才、新渡戸稲造15才の時に誓約しています。

 僅か10ヶ月間しか教えずに帰国したにもかかわらず、後から入学してきた生徒たちにまで素晴らしい生涯を送らせた教育の成果は、とりもなおさず「耶蘇の信徒の誓約」が生み出したものに他なりません。キリスト信仰と十戒を心に刻むことが、どれほど大切かを改めて知る思いがします。

 十戒の最初の言葉に注目しましょう。 「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」これは神さまの自己紹介です。神さまとはどういうお方なのでしょうか。私にどんなことをしてくださるお方なのでしょうか。ここで神さまは、ご自分がイスラエルの民にどんな事をしてくださったかを単純明快に語っておられます。それは奴隷から自由人への解放者でした。

 奴隷とは人間らしく生きていけない状態をいいます。貧しさや弱さの故に、周りから人間扱いされなくなっている場合もあるでしょう。あるいは自分の意志の弱さから自分で人間らしく生きられなくなっている場合もあるでしょう。また強い者の理不尽な暴虐によって、しいたげられている場合もあります。しかし神さまはそのような奴隷状態から私たちを救い出し、神さまから与えられた本来在るべき姿をもって自由に生きていけるようにしてくださるお方なのです。

 続いて十戒の第一の戒めを見てみましょう。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」 英語のKing James Version では ”Thou shalt have no other gods before me.”

 剣道では、相手の真正面に我が身を置き、相手の目を見据えながら相手の全身を捉え、相手の心の動きを察知して、全身全霊を込めた攻防をする修練を積み重ねていきます。相手と自分の間に邪念を入れてはなりません。瞬間の動きが乱れるのです。

 これと同じ様に、神さまの真正面に我が身を置き、真剣に神さまに向かう時には、神さまと私以外の何物も入る余地はありません。一対一で全身全霊を込めて相対峙することは、剣道以上に信仰においては大事なことではないでしょうか。

 友だちは少ないより多いほうが良い。しかし一体となる夫と妻の場合は一対一、その間に他の何者も入る余地はありません。アブラハムとサラ夫婦になかなか子どもが生まれなかった時、サラは自分の召使ハガルにアブラハムの子を生ませて、跡取りにしようとしました。しかしアブラハムとサラとの間にハガルが割り込んでくることによって、夫婦の愛に亀裂が生じました。そこでサラはハガルを追い出してしまいます。(創世記16章)随分手前勝手なひどい話です。でも夫婦の真剣な一体性と一夫多妻とは決して両立いたしません。

 だとしますと、神さまと私との関係も当然一対一でなければなりません。もしも神さまを二人・三人持つことが出来るとすれば、その神さまと本当に一体となることを求めていないからに他なりません。神さまと一体にならずに、どうして神さまの真実の命を受けることが出来ましょうか。あっちの神さまと相談し、こっちの神さまにお願いして、本当に真実の信仰が確立するのでしょうか。

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」神さまの前に立つのは私です。右を見、左を見てさてどうしようかという問題ではないのです。「あなたにはーーーあってはならない」あくまでも私が問われています。私が全身全霊をこめて神さまの御前に立ち、真っ直ぐに神さまを見上げ、神さまから真剣に聞き、応答していくことが信仰なのです。そしてそこから人間としての真実さ・誠実さが生ま
れてくるのです。

[結]御言葉に聞き従って生きる
 カルメル山での対決で、エリヤは集まって来た民すべてに呼びかけました。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら主に従え。もしバアルが神であるならバアルに従え。」

 バアルは大地の生産力を、地に宿る超自然的な霊の力だとして、神格化した神です。しかし雨が降らず飢饉になれば、地は干からびていきます。作物を豊かにもたらすバアルの力は衰え、無力さを現します。飢饉になればバアルはどうすることもできないのです。豊かな収穫をもたらすアシュラの女神も同じです。だから預言者850人が、朝から午後3時まで大声で叫び血を流して呼ばわっても、答えることが出来なかったのは、当然でした。

 偶像は、ご利益を求める人間が作り上げた、神に値しない像でしかありません。それを有り難がたらせ、人々に拝ませているのは、その宗教を利用して自分の支配権を確立しようとしている王妃イザベルの政治的たくらみでした。エリヤの問いかけに民衆が一言も答えられなかったのも、主の預言者を迫害し殺しまくるイザベルの権力を恐れたからでしょう。

 支配権力と結びつき、利用されて堕落する宗教のおぞましさを、私たちは歴史のなかで繰り返し学んできました。宗教と政治の混同、教会と国家の癒着は、人権を  抑圧し、批判を許さぬ国家権力の神聖化と、教会の世俗権力化をもたらします。  政教分離の原則はバプテストの先達が勝ち取ってきた大切な嗣業であることを、あらためて自覚したいと思います。
 
 先週、東日本大震災の最中での、山浦医師の証をご紹介しました。津波に襲われ九死に一生を得た山浦さんは、瓦礫の山の中で涙を激しく流します。しかしその時「わが神わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスさまの叫びが心に響いてきました。そして「よし、へこたれないぞ!」と決意したそうです。どうしてでしょうか?

 主が叫ばれた言葉は、詩編22編の冒頭の言葉です。その後には「私たちの先祖は貴方により頼み、救われてきた。助けを求めて救い出され、裏切られたことはない」という絶対的な信頼が歌われているのす。だから山浦さんは「命を助けられた自分も、神さまの御用に用いられて働かなければ」と思ったのでした。これが信頼を寄せて神さまからの語りかけを聞きながら、それに答えて生きていく信仰者なのですね。

 神さまは、必ず私たちの叫び、呼びかけに答えてくださいます。どんなに絶望的な状況になろうとも、必ず救いの御業を行われるお方です。信じて、神さまの語りかけに耳をすませ、御言葉に聞き従い、神さまの御用に用いられて生きる生き方をして参りましょう。     完

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2012年7月22日川越教会

               赦されて生きる[後半」

                                   加藤 享


 律法を守ることに熱心な人たちが、主イエスのところに姦通の現場で捕らえられた女を連れてきました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」すると年長者から始まって一人また一人と立ち去って、皆いなくなってしまいました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」(ヨハネ8:10)

 この女性を処刑する資格のある者が、律法に一番熱心な人々の間にも一人も居な かったのです。私がその場に居たとして、石を取らずに立ち去ったら、自分も罪を犯した者であることを言い表したことになります。「何だ。牧師のくせに」と責められ、面目丸つぶれです。だから嘘をついてでも、自分の名誉を守らなければなりません。
 ところが主イエスの前からは、律法を厳格に守っている人たちが皆、立ち去ってしまいました。しかも「年長者から始まって」とあります。長老として尊敬されている人が正直に自分もこの女性と同じですと告白したことになります。偉いなーと思いませんか。主イエスの前に立つと、自分の罪深さを率直に認めざるを得なくなるのですね。

 そうです。主イエスはおっしゃいました。「あなた方も聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:27〜28)口語訳・新改訳では「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と訳されています。

 もしもどんな女性を見ても、男は変な気持になってはならないというのなら、やはり イスラームの世界のように、女性みんなに黒いベールをすっぽり被って貰わなければなりません。律法学者やファリサイ派の人々が主イエスと女を残して、皆立ち去ってしまったという光景を、私たちは心に刻みつけておかなければならないのではないでしょうか。そして主の祈りを真剣に唱えなければなりません。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」

 [3] 神に対して罪を認める
ダビデの悔い改めの態度に、おやっと違和感を覚える点があります。彼の懺悔は「私は主に罪を犯した」の一言のみで、夫ウリヤに対して、またバトシェバに対しての謝罪の表明がありません。神さまに謝りさえすれば、それで一件落着したと思ったのでしょうか。有名な懺悔の詩、詩編51はまさにこの場面で生まれた祈りの歌と言われています。(実はバビロン捕囚の民がダビデと我が身を重ね合わせた詩だそうです)

 その6節に「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」とあります。罪を犯したとありますから、この作者も誰かをひどく傷つけたに違いありません。当然その相手への懺悔がなされるべきです。でもこの詩の作者は、自分は神さまに対してのみ罪を犯しましたと告白しているのです。

 そうです。彼は神さまから指摘されて、初めて自分は、神の目に悪事と見られる罪を犯したのだと気付かされたのです。神さまから罪だと宣告される悪事、すなわち罪は神さまに対してなされたと自覚されて罪となるのです。

 ですから相手を越えて先ず神さまに懺悔する。その時懺悔が本当の懺悔になるというのが聖書の信仰です。ルカ福音書の「放蕩息子のたとえ」でも、彼は家に帰って来て父に申しました。「お父さん、私は天に対しても、また貴方に対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)

 人間相手に自分の行いを吟味するなら、こちらにも何がしかの言い訳が出てきます。美しい女性が裏庭で水浴びしたからつい誘惑されたとか、折角戦地から呼び戻していたわっているのに、家でくつろがず守衛所で寝るなどと片意地をはるから戦死させたとか。しかし聖なる神さまの前でとなりますと、どんな言い訳も自己弁解に過ぎず、全面的に罪を認め、懺悔する外ありません。それは人格の屈服ですから、屈辱であり苦痛の極みです。しかしその時、懺悔ははじめて真実の懺悔となるのです。

 しかし神さまは聖なる神であると同時に、はるかにまさって赦しの神、愛の神です。御前に打ち砕かれて懺悔する魂に、神さまは全面的な赦しを与えて下さいます。それは本当に徹底した完全な赦しです。そして懺悔の本当の恵みをいただけるのです。私たちはこの赦しを受けた時に、生き返ります。
 
 忌まわしい過ちから、完全に解放されるからです。それは文字通り、魂の再生です。「わたしは主に罪を犯した」と告白し懺悔した時、ダビデが得たものはこれでした。ですから醜い罪を乗り越えて、新しい人生をスタートさせることができたのでした。信仰が人を高め、強くする力はここにあるのです。

[結]  赦されて生きる恵み
 「欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」(ヤコブ1:15)と聖書は語ります。死を生み出す欲望を私たちは、皆持っているのです。心からの恐れを持ち、「我らを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」と主の祈りを唱えつつ、一日一日を送らなければなりません。

 「罪を犯さない者は一人もいません」(列王記下8:46)とダビデの子ソロモンは祈りを捧げました。罪を犯してしまったならば、いち早く神さまに告白して、赦しを求め、悔い改めなければなりません。そのために日々の祈りを欠かせません。礼拝を大切にすることです。ダビデのように罪を厳しく指摘してくれる神さまの使いを、身近に持つことです。

 罪や失敗、挫折に打ちのめされて、いつまでも立ち直れない人が多くいます。しかし神さまへの罪の告白は、完全な赦しを頂けるのです。十字架にかかりながら「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ私に代わって死んで下さった救い主キリストが、執り成して下さっているからです。

ダビデはあれほどの罪を犯していながら、立ち直りました。そして最後まで生き抜いて、自分の使命を果しました。どんな罪を犯してしまっても、信仰をもって良い生涯を生き抜くことをこそ、神さまは心から望んで居られるのです。
 
 赦されて生きる者は、傲慢になれません。これは大きな恵みです。主イエスにならって、人の足を洗いつつ、謙遜に僕の道を歩むことができます。私たちもこのように  して、互いに愛し合って生きて参りましょう。       完

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                  (前半より続く)

2012年6月3日川越教会
               深い悩み・涙の祈り(後半)
                            加藤 享


[3] 信仰をもって生き抜く
 
 神さまは、ぺニナには直ぐに子どもを幾人も授けられたのに、彼女よりも遥かに信仰深いと思われるハンナには、どうして子どもを授けなかったのでしょうか。5節に「主はハンナの胎を閉ざしておられた」と記されています。結婚した女性にとって神からいただく一番の祝福は、子どもと考えられていました。

 その神さまが胎を閉ざしておられる。祝福を拒否されるとは、余ほど罪深いのではないかと思われても仕方ありません。またぺニナもその点を突いて、ハンナをいじめたことでしょう。ハンナを苦しめた一番の悩みは、自分は神さまから見捨てられた罪深い女なのかという罪意識だったのではないでしょうか。だから祭司エリから「いつまで酔っているのか」と叱られた時、ハンナは「はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください」と強い口調で弁明しています。

 しかし詩編には「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」と歌われています。(詩119:71)これは口語訳・新改訳では「苦しみにあったことはわたしに良いことです」という訳になっています。どちらも原語に忠実な訳です。

 私たちは、人が受けている恵みが自分には欠けていると、屈辱や劣等感や罪意識にさいなまれます。これは本当に辛いことです。しかし詩編の作者は、卑しめられたこと、苦しんだことは良かった。それによって神さまの御心を深く学ぶことが出来たからと歌っています。

 そうです。ハンナは家族揃って神さまに礼拝を捧げるその時が、みじめな思いにされる苦しみを、来る年も来る年も味わい続けていたのです。そして悩み嘆き、激しく泣いて泣いて祈り続けました。そしてもしも男の子を授かったなら、生涯その子を神の御用のためにささげますと誓うまでに至りました。

 そうしたら、待望の男の子を授かったのです。彼女はそのかけがえのない子を、誓い通りに、乳離れするや祭司エリに托して、神さまにささげました。こうして神殿で育てられた幼子サムエルが、成長して大預言者となり、神さまの栄光を現わしていったのでした。

 「わたしの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい。主はお前に報いてくださる」(詩116:5〜7)この信仰を、私たちもしっかりと持ちたいものです。

[結] 謙遜に祈る者となる

 2章にはハンナの祈りが記されています。その中に次の言葉に注目いたしましょう。「驕り高ぶるな、高ぶって語るな、思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか。」(3節)「子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える」(5節)
 ハンナの前で誇り高ぶったぺニナは、その後どのような生涯を送ったことでしょうか。子どもたち共々に衰えていったのでしょう。ハンナはサムエルを全き献身者として神の御用に捧げました。すると神さまは、彼女に息子三人娘二人をお与え下さいました。私たちは、恵みを豊かに頂いて、誇り高ぶってはなりません。益々心を低くして、周りの人と恵みを分かち合い、共々に神さまに感謝していかなければなりません。 

 こうしてイスラエルの歴史の転換期に大きな働きをした預言者サムエルが、ハンナの深い苦しみと涙の祈りから誕生したのでした。貝の涙が美しい光沢をもつ真珠を生み出すと言われています。涙の祈りを神さまは大切に受けとめてくださるのです。 この確かな事実をハンナの証から学び取り、私たちも、どんな時にも心を注いで祈る者になりましょう。  完

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 (前半より続く)

2012年5月20日川越教会
                      人生の明暗(後半)
                                 加藤 享

[2] 愚かな大間違い
 
 しかしここで彼は、愚かな大間違いを犯してしまいました。戦闘開始に当たって主に誓いを立てたのです。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」(11:30〜31)

 ところが、エフタが勝利をおさめて家に帰った時、彼の唯一人の最愛の娘が、真っ先に鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来たのです。彼は衣を裂いて嘆き悲しみました。しかし主に対する誓いは破ることができません。娘も誓いの重みを十分に自覚していました。二ヶ月間友だちと山をさまよって泣き悲しんだ後に、父のもとに帰り、主の献げ物となって死にました。

 主なる神さまは、全ての人の祝福の源となるようにと選ばれたイスラエルの民に、神の民としての信仰生活の指針として、モーセを通して、律法をお与えになりました。その律法には大切に育てた家畜を献げ物として献げる規定はありますが、人間を献げることは厳しく禁止されています。「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレクの神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」(レビ18:21)

 何故でしょうか。それは他の宗教では、我が子を神に献げることが、当り前のこととして行われていたからです。日本でも川が氾濫すると、川の神を宥めるために、子どもが生贄として川に投げ込まれました。

 ではエフタはどうして、律法で厳しく禁じられている献げ物の誓いをしてしまったのでしょうか。彼は後に「わたしは命がけでアンモン人に向って行った」(12:3)と語っています。敵は十分に準備した上で集結した軍隊です。こちらは急遽呼び集められた部隊です。エフタ自身が長老たちに頼まれて、急遽指揮官についたばかりです。 

 外交交渉も、全軍を把握するための時間稼ぎでもあったでしょう。勝ち目のない命がけの戦いです。ですから彼は、我が家の大事な使用人の誰かを献げてでも、主の助けを頂きたいと、平素見聞きしている異教徒の慣習に影響されていたこもあって、誓願をしてしまったのでしょう。

 ではどうして神さまは、彼の軽率な誓いを、御自分が最も嫌う行為だと厳しく叱って、取り止めさせなかったのでしょうか。昔神さまはアブラハムに、100才になってやっと与えられた秘蔵息子のイサクをモリアの山上で焼き尽くす献げ物にせよとお命じになりました。そしてアブラハムが御言葉通りに実行しようとした時、山上に山羊を備えて、イサクの命を救って下さいました。どうしてエフタにもその様な救いの手を差し伸べて下さらなかったのでしょうか。

 榎本保郎牧師の旧約一日一章によると、アブラハムの場合は主の命令によるものでしたが、エフタの場合は自分から誓った誓願でした。ここに同じかけがえのない唯一の我が子を献げながら、一方は神の応答が与えられ、他方は神の沈黙に出会った違いがあると述べられています。神さまが求めておられるのは、私たちが御心に聞き従う信仰に立つことなのです。

 「もし貴方が助けてくださるなら、私も――します」とは、自分と神さまが対等の立場で取引していることになります。御礼として、家で働く者の誰かを献げる痛みを払いますからと、自分が決めているのです。そこで神さまは沈黙されてしまわれたのでしょう。エフタは「御心ならば勝利によって御栄光を。よしたとえ敗戦でも、御心としてお受けします。御栄光をお現わしください。」と祈り、神さまの御心に従って行動するべきだったのです。

[3]健全な人格の源
 
 エフタは母が卑しい女だからという理由で、社会から差別・排除されてしまいました。生まれながら負わされたハンデ――これは自分ではどうすることも出来ない人生のマイナス要因です。そしてそのハンデによって、多くの人が苦しみ、悩み、押しつぶされてしまいます。ところがエフタは挫けませんでした。他の町に移って、自分は自分らしく生きていこうとしていたら、彼の周りに、同じような境遇の若者たちが集まってきたのです。

 「ならず者」とは「何も持たない、空しい者」の意味から、「社会的立場や経済力を持たず、やけくそになったごろつき」を意味するようになった語だそうです。口語訳では「やくざ者」、新改訳では「ごろつき」と言われる連中が集まって来て「行動を共にする」と言うのですから、口語訳は「彼と一緒に出かけて略奪を事としていた」と記述しました。しかしこれでは訳し過ぎだと、私は思います。

 何故なら、盗賊集団になれば町の中で暮らせないはずだからです。またもしも彼らが反社会的な集団ならば、長老たちがエフタにギレアド族の軍の指揮官になって欲しいと要請しに来ないでしょう。すると、「やくざ」とか「やけくそになったごろつき」が集まりながらも、彼らを反社会的集団にさせない健全な規律がそこにあったことになります。そしてそれこそが、中心人物であるエフタの健全な人柄とリーダーシップによると私は思うのですが、いかがでしょうか。

 エフタは、自分が生まれた町から追い出されたことに、いつまでもこだわっていません。一応言うべきことは言いますが、長老たちが、自分たちは神さまの前で語っていると言うと、彼らを信じて申し出を素直に受けいれています。彼の健全な人格とリーダーシップの源泉も、この信仰によるのではないでしょうか。民族の歴史を通して受け継がれてきた、主なる神さまへの畏れと信頼とが、人間社会の生み出す不条理によって押しつぶされず、ゆがめられずに、人を信じ赦すという健全な人格を養い、人生を切り拓いていく原動力となっているのではないでしょうか。

[結]明暗を生きる教師
 
 エフタは明暗交差する人生を送りました。母が卑しい女だというので、成人すると家から追い出されました。遠く離れた町で一人暮すうちに、ならず者たちが集まってきました。彼らを指導することで、リーダーシップが養われ、アンモン人との戦争になると、司令官に抜擢されます。主の霊を注がれて、命がけの戦闘に大勝利します。しかし愚かな誓約をしたばかりに、勝利の喜びは吹き飛び、最愛の娘を失う深い悲しみを味わう破目に陥りました。そして士師としての役割を果たして死にました。

 エフタは人生のどの場面でも精一杯に生きました。逆境に遭っても卑屈にならず、順境に在っても驕り高ぶらず、自分の罪ゆえに大失敗を犯しても、耐え抜き、与えられた使命を全うして、死にました。人生の明暗において、如何に生きるべきかを、深く教えてくれる教師です。私の心に、彼の失敗から、パウロの言葉が響いてきます。
  
“心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、
何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを
わきまえるようになりなさい。”(ローマ12:2)
                               完

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(前半に続く)
                   わたしは何者でしょう
                                       加藤 享

[2] 神の人

 ここにエジプト人からもヘブライ人からも受け入れられずはじき出されているモーセの姿が、はっきりと浮き彫りにされています。彼は遠く東のシナイ半島を越えた ミディアンの地にたどり着き、祭司エテロのもとに寄留することになりました。娘のツィポラと結婚し、男の子が誕生します。ゲルショムと名付けました。「そこで(シャム)は寄留者(ゲール)」といった意味です。その土地で一切の地位や資格を持たず、現地の人の庇護を受けて、身を寄せて生きるしかない外国人のことをさします。

 「そこで」がエジプトを指すとするならば、モーセが40年間生まれ育った地エジプトが、もはや彼の故郷ではなくなったことを言い表したことになりましょう。40年間王女の子として王宮に育っても、彼はエジプト人にはなれなかったのでした。かといってヘブライ人も彼を同胞とは見てはくれませんでした。結局かれはエジプト人でもヘブライ人でもなかったのです。

 その様なモーセをミディアンの地は温かく迎えてくれました。彼はその地で家族を得ました。羊飼いとしての仕事も得ました。しかし40年後に神さまは彼を再び その地から呼び出して、ヘブライ人の大集団をエジプトから約束の地カナンへと移動させる40年の旅路を送らせて、生涯を閉じさせたのでした。そしてモーセの墓は ヘブライ人の誰もが知らないのです。

 神さまは、モーセが羊の群れを導きながらホレブの山に来た時、不思議な火をもってモーセを御許に呼び寄せられました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」

 神さまは、エジプトの地で苛酷な労働を強いられて、苦しみ、痛み、叫ぶヘブライ人の所に降って行き、彼ら一人一人の傍らに身を置いてくださる、そして約束の地カナンへと、救い出そうとしておられることを、モーセにお告げになりました。「だからモーセよ、今、行きなさい。わたしは必ずあなたと共にいる」と語りかけたのでした。

 モーセは答ました。「わたしは何者でしょう。エジプト人にもなれず、ヘブライ人としても認められず、今はミディアンの地の寄留者です。一体私は何人として、ヘブライ人の所へ行くのですか。また何人としてエジプト王の前に立つのですか。ヘブライ人が皆、私をヘブライ人の代表者として支持して、エジプト王の前に立たせてくれるでしょうか。或いは、エジプト人の一人として、国王のヘブライ人に対する取り扱いは間違っていると糾弾することが出来るのでしょうか。私は自分が何人なのか、根無し草のような心細さを覚えている者なのです。」

 これに対する神さまの答は、「ヘブライ人としてでもなければ、エジプト人としてでもない。わたしがお前と共にいるという神の人として、わたしに遣わされて、エジプトのヘブライ人のもとに行き、またファラオの前に立つのだ」モーセはかつて  正義感に駆られてエジプト人の監督を殺しました。しかしそれによってはヘブライ人の支持を得ることが出来ず、同胞として受けいれてもらえませんでした。モーセが立つべき所は、神が共にいまし、神に遣わされ、神の御業を為すという神の人としての召命だったのでした。

[結] 歴史を導く神の備え

 ヘブライ人の大集団をエジプト帝国から脱出させる出エジプトは、まさに大きな困難を伴う大変な仕事です。人並みはずれた優れた能力を備え、何よりもヘブライ人の支持を受けている者でなければなりません。ところがモーセはヘブライ人であってヘブライ人ではないのです。彼が尻込みして辞退し続けたのも当然でした。しかし神さまはモーセの上げる理由に一つ一つ答えて、彼を説得してしまわれました。神さまはどうしてこのようなモーセをお召しになったのでしょうか。

 誕生からこの時までの80年間の歩みを見てみましょう。第一に、彼は奴隷のように虐げられていたヘブライ人として誕生しながら、王女に拾われ、王宮で40年間教育を受けました。王族の一員として国を治める法律を学んだに違いありませえん。それが、シナイ山で律法を授かり、これを基にして神の民としての細かい法を定めるのに役立ちました。また何よりもイスラエルの脱出にあたってファラオと十回以上も交渉をしなければなりませんでした。彼が国王を恐れず、対等に立ち向かえたのも、王宮生活での生立ちが役に立ったに違いありません。

 第二にミディアンでの40年にわたる羊飼い生活で、シナイ半島からカナン南方の荒野一帯の地理、気候に関する十分な知識を持つことが出来ました。またかよわく迷いやすい羊たちを忍耐と優しさをもって導く修練も身につけることが出来ました。 だからこそ150万を超える大集団を、律法によって整えつつ、40年かかって荒れ野の中を忍耐強く導き抜くことが出来たのでした。

 神さまはイスラエルの民を大いなる民にするために、70人余のヤコブ一族を、ヨセフを用いてエジプトへ移住させて大いなる民に成長させました。次にこの大集団をカナンの地に戻すために、モーセを誕生させて王女と結び付け、40年間を王宮で教育し、ミディアンの地では羊飼いを40年経験させて訓練なさったのでした。神さまは歴史のはるかに先を見て備えをしつつ、救いの御業を進めていかれるお方なのですね。

 あのヨセフは兄たちに繰り返し言いました。「命を救うために、神はわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです」「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」まさに歴史は神さまに導かれて進められていきます。日常の出来事の内に、神さまの御心と御業を見出していく信仰の目をもたなければなりません。

 そして神さまがこの私をお用いになろうとして、お召しになった時には、神さまが共にいて下さり、神さまがお遣わしになっている信仰に立ち、お応えしていきたいものです。

 民主党の代表選挙が明日行なわれ、次の総理大臣が選ばれます。誰がなっても大して変らないのでしょうか。歴史を導く神さまは、人を選んでお用いになるのです。神によって整えられ、御用に召されるという心を持つ人が選ばれて、重責に当たってもらいたいものです。多くの人々の命を救おうとされる神さまの御心が行われますよう、政治家たちのために祈っていかなければなりません。  
                                           完

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