日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

礼拝説教2013年

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20131117日川越教会
いと小さき者から(後半)
[2] 終わりの日の約束
 神さまが創造された世界は、悪のない楽園でした。楽園の中央に命と善悪を知る木とが一体となって植えられていました。神さまはこの木の実だけは食べてはならないと、園を  管理するアダムにお命じになりました。善悪の判断は神が下す命は神が与える。人が勝手にしてはならないという、神さまの命令です。そうです。善悪の基準は一つでなければなりません。人がそれぞれ自分で善悪を決めるから、人よって善と悪が異なり、そこで衝突、争いが起こるのです。命も人が勝手にしてはなりません。
 
しかしアダムとエバは禁じられていた木の実を食べてしまいました。アダムとエバの家庭に兄が弟を殺すという殺人事件が起こりました。楽園は失われてしまったのです。神の 創造された世界が、今日このようになってしまったのです。預言者たちは、人の犯す数々の罪神の裁きを厳しく預言します。滅びを語ります。しかし同時に、歴史の究極、終わりの日に神さまが備えておられる平和をも明らかにしました。それがイザヤやミカが語った「終末の平和」「終わりに日の約束」です。
 ここで示されているのは、世界中の人が、主が示される道を歩もうとして、神さまの許に集まって来るということです。神さまが善悪を示して、争いを裁き、戒めてくださるならば、戦争で決着をつけることがなくなります。剣も槍も核兵器もいらなくなります。皆で生産に励み、仲良く分け合い助け合って暮していけます。皆さん、このほかに究極的平和の道があるでしょうか。
そこで大切な課題となるのが、では神さまの御心をどのように聞き取っていくかです。
イザヤは「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」という言葉で、ダビデの子孫から、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する平和の主の誕生を予言しました。(イザヤ11:1〜10) 一方ミカは、「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。」(5:1)と預言したのです。
 エフラタはベツレヘムの古い名前です。ですから昔はエフラタと呼ばれたベツレヘムと言うことです。ダビデ王の出身地です。ユダヤの人たちにとっては、世界を救う救世主はダビデ王のような方と思う人が多かったのでしょう。人々はダビデ王の子孫からということで、ダビデの輝かしい栄光を期待しましたが、しかしイザヤの預言は、弱い人、貧しい人を正義と公平で守るお方でした。またミカの預言では、ユダの氏族の中で最も小さい者という視点でベツレヘムが選ばれ、平和の王が生まれ出ると、予言されたのでした。
 
こうして、世界に究極の平和をもたらす王は、世の貧しい者、弱い者を守るために、最も小さな町から誕生するお方という神さまの御心が、預言者イザヤ、預言者ミカを通して示されたのでした。
[3] 権力者の実の姿
 私たちは、来月になりますとイエス・キリストのお誕生を祝うクリスマスを迎えます。  東の国の占星術の学者たちが、不思議な星の光に導かれ、ユダヤに新しい王が誕生したと信じて、エルサレムの王宮を訪れました。ヘロデは王である自分の他に、新しい王が誕生したとすれば、それは救世主メシアに違いないと思い、祭司長や律法学者たちに尋ねました。彼らは直ぐに聖書から、「それはベツレヘムです」と言って、ミカの預言を示しました。これほどミカの預言は、ユダヤの人々にしっかりと受けとめられていたのですね。
 博士たちは、再び星に導かれて小さな町ベツレヘムへ向かい、貧しい馬小屋で誕生したイエス・キリストをひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬の贈り物を献げて、喜びにあふれて  帰っていきました。しかし聖書のミカ書によって、キリスト誕生の場所を確認したヘロデ王祭司長律法学者たちも、そのまま都の王宮や神殿に留まって、貧しい救い主の誕生を拝もうとはしなかったのです。
 それどころか、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺で誕生した2才以下の男の子を殺しています。祭司長や学者たちは、やがて成長して神の国の到来を宣べ伝える救い主イエス・キリストを、神を冒涜する危険人物として逮捕し、十字架にはりつけて殺してしまいました。これが権力者の実の姿なのでした。
この世の権力者たちは、手に入れた権力、特権をいつまでも持ち続けることに汲々とします。自分の地位を脅かす者は、権力をふるって打ち倒し、我が身の安泰をはかります。これでは、争いが絶えません。平和はもたらされません。神さまが世界を創造された時、この世界は楽園でした。神さまが善悪をお裁きになり、皆はそれに聞き従ったからです。全ての者が皆、神さまの裁きに聞き従う――これこそが楽園の原則です。
 ですから、イザヤもミカも究極の平和は、世界中の人々が、主の示される道を求めて集まって来る。そして主が争いを裁き、強い国を戒められる時、「剣は鋤に、槍は鎌に打ち直され、戦いはなくなる」と語ったのでした。では、神さまの裁きとは、どのようなものなのでしょうか。 
[結] 天国をつくる心
 イエス・キリストは、終わりの日に天国へ迎えられる人について、マタイ福音書2534節以下で、こう語られました。「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 報いを求めず、最も小さい者に食べものを与え、一杯の水を飲ませ、宿を貸し、着物を分け与え、病床を見舞い、故なく牢に入れられた人を慰めた人が、天国に迎えられるのです。イエスさまは、この世の最も小さい者を私の兄弟とおっしゃいました。私たちの世界では、小さな者、弱い者は見向きもされません。力ある者、大きな者ほど大事にされます。理想に燃えた若き医師徳田虎雄さんも、必死になって衆議院議員という権力者になり、重んじられて、徳洲会病院を350も全国につくる大物になりました。そして75才の今、事業を大きくすることで身に負ってしまった悪を、裁かれる身となったのです。
 天国を備える神さまの御心は、最も小さい者、弱い者を大切にし、共に寄り添って生きていく心こそ天国をつくる心だとおっしゃっておられるのです。ですから最も小さな町ベツレヘムを選んで、救い主を誕生させたのです。貧しいナザレの大工の息子イエスとして成長し、貧しい者、弱い者の友として福音を語り、権力者の悪に負けて十字架に殺されながら、天国を創り上げる神の愛の勝利、本当の平和への道筋をお開きになったのでした。
この世の最も小さい者、弱い者の中に、世界の平和があるのです。神さまはクリスマスを通して、最も小さい者、弱い者こそ大切にすることから、世界の平和を創りだしていくようにと、訴えておられるのです。最も小さい者をわたしの兄弟であるとおっしゃる神の子イエスさまのお言葉・天国をつくる心を、私たちの心にしっかりと受けとめて、自分の人生を選び取り、生きていき参りましょう。    完

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20131117日川越教会
いと小さき者から
加藤 享
[聖書] ミカ書5章1節
 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
 
マタイによる福音書2章1〜8節
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 
[] 大きくなろうとする誘惑
 先週の新聞には徳洲会病院グループの徳田理事長一族あげての衆議院議員選挙違反が、連日にわたり大きく取り上げられました。今から40年ほど前に鹿児島県南の島々に、救急医療を十分に施す病院をと叫んで徳洲会病院を建てようとした若い医師徳田虎雄さんの 報道を読んだ記憶があります。その徳洲会病院グループが今日では、日本全国に350施設、医師職員27000人の巨大なグループになっていたとは、驚きました。
 
 病院の設立には県庁の認可が必要です。若い医者が県庁に申請に行っても課長の応対どまりで、地元の医師会の反対にあうと認可がおりません。政治力の必要を痛感して、徳田さんは鹿児島県で衆議院選挙にうって出て、3回目にやっと当選しました。すると県庁に行ってもすぐに知事と面会でき、病院認可もスムーズにいくようになったのだそうです。こうして病院の発展のための衆議院の議席確保が息子にも受け継がれ、組織上げての選挙活動が継続されてきたのでした。
 
 さらに選挙活動には建設・設備業者も動員されたと報道されました。一つの病院開設に80億円かかります。不況の中でそのような工事に参加できることは、業者にとって大きな助けです。こうして徳洲会の威力は拡がっていったのでした。徳田一族の利得は膨大だと報じられていますから、いずれ経理の不正にも捜査が及んでいくでしょう。
徳洲会グループが大きくなるほど、全国の医師会との軋轢も大きくなります。ますます政治家たちの間に支持を拡げていく政治力が必要になります。良い医療の普及をという若い医師の理想と情熱から始まった徳洲会病院の働きが、力が増すにつれて悪にまみれた組織に成り果ててきたとは、本当に残念であり、また恐ろしいことです。
 
[1] 預言者イザヤとミカ
 今日の聖書は旧約聖書の預言書の一つミカ書です。ミカは、サマリアを都とする北王国が紀元前721年にアッシリヤに滅ぼされるという歴史の激動期に、あの大予言者イザヤより少し遅れて南王国で預言者として働きました。イザヤは貴族の出でエルサレムの都で活動しましたが、ミカはエルサレムから南西40kmのモシェレト・ガトという農村地帯出身の庶民でした。ですから貧しく虐げられた人々の立場から、都に暮す権力を握る豊かな者たちへの神の裁きを語りました。
 
ミカから100年後に、エレミヤがエルサレムの神殿で神の裁きを語り、死刑にされようとした時に、幾人かの長老たちが立ち上がり、預言者ミカの名をあげてエレミヤを弁護しています。エレミヤ書2617節以下を紹介いたしましょう。
 
この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」
 
 地方の庶民の一人であるミカでしたが、彼の預言は100年後にも、このように心ある人々の間に覚えられていたのでした。憲法記念日を迎えた今年の5月5日に、私はイザヤの  有名な預言から「剣を鋤に 槍を鎌に」と題して説教をしました。イザヤ書2章の預言です。
 
「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
 
イザヤのこの素晴らしい預言は、そのままミカ書の4章1節以下にも記されているのです。この預言は、ミカがイザヤから聞いて語ったのでしょうか。イザヤがミカから聞いて語ったのでしょうか。関根正雄先生は別の預言者の言葉を、二人がそれぞれ引用したのだろうと解釈しています。いずれにしても、世界の究極の平和を、このように民に語った  預言者ミカは、イザヤと共に優れた預言者でした。

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(前半より続く)
2013818日川越教会
       たといそうでなくても(後半)   加藤 享
                [聖書] ダニエル書3章13〜30節
 
[3] 国王によって造られる神々
 ダニエル書の2章では、ネブカドネツァル王が、何度も見る夢に不安になり眠れなくなりました。ダニエルはその夢の示す意味を明快に解き明かしました。それは「王国が次々と起こっては滅びていくこと、しかし歴史の終わりには、すべての国を滅ぼして永遠に続く国を天の神は興される」 という神のお告げでした。それを聞いて王は、ダニエルの前にひれ伏して、「あなたたちの神は  まことに神々の神、すべての王の主」と告白しています。
 
 それなのに続く3章では、巨大な金の像を建てて、全ての家来、諸国、諸族、諸言語の人々にひれ伏して拝めと命令を下しています。これはバビロン王の絶大な権威の前に皆がひれ伏し、絶対服従せよという命令です。手中の権力をいつ奪われかと怯える権力者の姿が透けて見えます。そして金の像を造って神として拝めと命じるのですから、その神は王によって造られた神ということになります。権力者によって造られ、権力者に利用される神々。王の家来の一人に過ぎない神。なんと安っぽい神でしょうか。
 
 朝鮮民族を支配した日本の国家権力も、全家庭、全教会の聖壇にも神棚を置かせ、「気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮、八百万の神に向かって最敬礼!」と礼拝を強制しました。世界各地の権力者に よって次々を造られていく神々ですから、八百万の神なのですね。シンガポールでも占領すると直ちに皇大神宮の分社・昭南神社を建て、全ての宗教指導者も含めて、参拝を強制しました。ですから日本が負けると真っ先に、跡形もなく壊されてしまいました。
 
 その上、その神を拝まない者を燃え盛る火の炉に投げ込むことをさせる神とは、何と非情、残酷な神なのでしょうか。今日の週報巻頭言にも紹介しました、殉教者朱牧師夫妻を拷問に処した警察官に、このような行為をさせた天皇という生き神さま、天照大神とは、何という残酷・非情な神なのでしょうか。天皇は、天皇という名がアジア各地でどのように残酷・非情な行為を人々にさせたかという責任を自覚しているのでしょうか。また現在日本国の総理大臣という地位にある安倍さんも、東条英樹に代表される総理の名の下で行われた、数々の恐ろしい行為の責任を継承していることに気付いているのでしょうか。
 
 酒枝先生は、は果たして実在者なのか、あるいは信者の信念、あるいは思想なのかと問いかけています。神さまは、昔アブラハムを選びお召になった時「祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記1223)とおっしゃいました。神さまは、地上のすべての氏族を祝福される神なのです。その神さまがナザレのイエスとしてこの世に生まれて歴史の実在者となり、貧しい者たちに寄り添って生きて下さり、十字架刑に処せられて死に、墓より復活して天に戻っていかれました。私たちはこのお方を、ご自身を世に啓示された神キリストと信じます。
 
イエスキリストは「私は良い羊飼いである」「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」また「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章)とおっしゃいました。神さまは、私たち一人ひとりの命を豊かにして下さるために、ご自分の命も捨ててくださいました。それが十字架の死です。神さまとはこのように、ご自分の命まで捨てて、私たち一人ひとりに命を豊かに与えてくださるお方なのです。自分を拝まないからといって殺したり、残酷な拷問にかけたりする神とは、全く正反対のお方です。どちらが真の神でしょうか。天皇も天照大神も巨大な金の像も、それを建てた国王も、神ならざる神です。
 
[] 真の愛を分け合う
 良い羊飼いイエス・キリストはおっしゃいました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ1016)この囲いに入っている羊とは、現在イエス・キリストを自分の羊飼いと信じて教会という囲いに属している信者でしょう。しかし世界には教会に属していない人々が大勢います。
 
 全ての民を祝福する神・イエスキリストの目と心は、その人々にも注がれているのは当然です。そしてその人々が命を豊かに受けるためにも、ご自分の命を十字架で捨ててくださったのでした。そして「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言い切っておられます。十字架に現された神の愛の呼びかけは、世界中のどんな人にも聞き分けられると、神さまは確信 しておられるのです。
 
 神の名のもとで、人々を痛めつけ、服従させていく神は、神ではありません。この世の権力者に利用され、操られている偽の神です。僕の姿をとり、国籍、宗教、地位を問わず、苦しむ者、悲しむ者、病む者、貧しい者、弱い者、虐げられている者たちに寄り添い、慰め、助け、癒して下さるお方こそ、真の愛の神さまです。
 
 言葉が違う、文化が違う、宗教が違う――これが世界を一つにしない根本原因です。どうしたら共通理解が持てる世界が生まれるのでしょうか。しかし人は皆、真の愛を求めています。人と共に愛を分け合って生きる喜びを求めています。どんな人でも、そのような命の飢え渇きを心の底に抱いているのではないでしょうか。世界は共通しているのです
 
「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ご自分自身を十字架にはりつけにして、世界のすべての人に、豊かな命を生きる者にして下さる愛にこそ、全世界の人々の心を包んで、一つにする力があると、主イエスは確信しておられるのです。
 
 私たちクリスチャンも、十字架を掲げて、人々を弾圧し、殺してきています。羊飼いの命と全く相反する行為を繰り返して、敵を作ってきました。今こそ一人ひとりが、十字架の愛にしっかりと立たなければなりません。世界の何処へでも出て行って、そこに暮す人々と十字架の愛を分かち合い、共々に神の羊の群れを作って参りましょう。
                                  完

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2013818日川越教会
       たといそうでなくても (前半)   
                               加藤 享
[聖書] ダニエル書3章13〜30節
  これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。 今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
  シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。
  間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」 ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。
 
[] 信仰の証
 ダニエル書第1章では、捕囚になってバビロンに連れて行かれたダニエル達4人の少年が、宮廷の豊かな食事を食べず、野菜と水だけで3年間を過ごして、他のどの少年よりも秀でた青年に成長し、王のそば近くに仕えるようになった信仰の強さを学びました。第2章では、繰り返し見る夢に恐れをなし、心が混乱した王の諮問に答えて、その夢の意味を明快に解いたダニエルが、彼の前にネブカドネツァル王の方が思わずひれ伏して「あなたたちの神は、まことに神々の神、すべての王の主」と言わせています。そして今日の3は、ダニエルの3人の友人シャドラク、メシャク、アべド・ネゴの信仰の証です。
 
[1] 燃え盛る火の炉を畏れない信仰
 王は自分の絶大な権力を誇るために、都の近くの平野に高さ27m、幅2.7mの巨大な金の像を建て、楽器の合図とともに、家来はいうに及ばず、諸国、諸族、諸言語の人々も皆ひれ伏して拝むように命じました。拝まない者は直ちに燃え盛る炉に投げ込まれます。しかしシャドラク、メシャク、アべド・ネゴは拝もうとしませんでした。ユダヤ人でありながら高い地位についている彼らを妬む家来たちは、早速3人を中傷して王に訴えました。
 
 王は怒りに燃え、彼らを呼び出しで申しました。「もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」しかし3人は静かに きっぱりと答えました。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉の中から、わたしたちを 救うことができる神さまです。また王よ、あなたの手からわたしたちを必ず救ってくださいます。  たといそうでなくても、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  
ネブカドネツァル王は血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じて、彼らを、上着、下着、帽子等の衣服を着けたまま縛り上げ、7倍も熱くした燃え盛る炉に投げ込みました。ところが間もなく王は驚いて立ち上がり、叫びました。「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
 
王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけました。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」 炉の中から出て来た3人を調べましたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火の匂いすらしません。ネブカドネツァル王は言いました。
 
「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても 自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」 こうして王は、 彼らをバビロン州で高い位につけたのでした。
 
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは絶大な権力を誇る国王に向かって、「神さまは、燃え盛る炉の中から私たちを救い出すことがお出来になる方です。ですから王の手からも必ず救ってくださいます。しかしたといそうではなく、この身が焼き殺されるとしても、それは神さまがそうお考えになってなさることですから、それをよしとして受け入れます。神さまに対する私たちの信仰は変わりません」 と言い切っています。何と素晴らしい信仰でしょうか。私たちの多くは、目先の危機から逃れる手段として、神仏に手を合わせて、助けを祈り願います。かなえられなければ、信じるに値しない神仏、無力な神仏と見限り、他の宗教に移っていきます。どちらが真の信仰でしょうか。
 
[2] 日本人が神の名でやったこと
 去る15日は我が国の敗戦記念日でした。政府主催の全国戦没者追悼式での安部首相の式辞には、「加害責任についてふれていない」と新聞は大きな見出しで報道していました。
私は先週福岡新生教会の世界宣教リバイバル聖会に出席して来ましたが、そこで日本の 朝鮮支配で殉教を遂げた牧師の息子さんが書いた、両親が拷問された記録を読みました。
今日の週報の巻頭言に一部分を紹介しておきましたので、ぜひお読みください。
 
 ここでは、40年前によく読まれた安利淑さんの自伝「たといそうでなくても」(待晨社)の初めの部分をご紹介します。ダニエル書と丁度同じ事件が起こったと書き始めています。
 
 「あの時と同じように、日本人はその八百万(やおよろず)の神々を偶像化して、それを全東亜に強制的に広めるために、都市や郡や村々にまで一番高くよい場所に日本の神社を建てて、官吏たちに強制参拝させた。そして学校や官庁や各家庭に至るまで、神棚を配り、強制的に拝ませた。ついには教会の聖壇にまで神棚が置かれた。クリスチャンたちが礼拝する前に、先ず日本の神棚に最敬礼をさせるため、刑事を教会に配置した。日曜日になると各教会で刑事達が鋭い目を光らせて、信者の行動を監視していた。時には制服の警官が聖壇に上って見下ろしながら、煙草を口にくわえて目を光らせていた。
 
もし牧師が反対するか、不遜な態度に出たら、すぐに引き立てて行き、耐えきれない拷問にかけて半殺しにするのであった。そしてその家族には配給を全然やらずに飢えさせ、虐待を重ねていく。このために人心は乱れ、弱い者は日本人の犬となって、日本人よりももっと悪辣になり、強い者は殺された。一般民は日本人を悪魔のように恨み、呪うように  なった。―――気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮八百万の神に向かって最敬礼!」安さんは女学校の教師として集団参拝の時に最敬礼せず、彼女の逃亡生活が始まったのでした。
 
 この本の序文で酒枝義旗先生が、「信仰不信仰戦いこそ世界史最大のテーマだ」というゲーテの言葉を引用してこう述べています。「神は実在して歴史の歩みを導き、また信じる者一人ひとりの生涯を顧みたもう方であるのか、それともキリスト信者だけが抱いている一種の信念、または思想に過ぎないのか。この本は数千年前にアブラハムを選び導き給うた神が、今もなお変わることなく信じて従う者を、どんな時にも愛し、慰め、教え、導き、すべてを益にして下さる生ける神であることを、数々の体験を通じて証している。」
             (後半へ続く)

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2013年8月4日川越教会
               何を大切にして生きるか(後半)
〜 ダニエル書1章1〜21節〜
     加藤 享
 
 
[3] 神の栄光を現すために
 ここでこの点について、イエス・キリストの救いにあずかった信仰者の信仰を新約聖書から学ぶことにいたしましょう。ダニエルたちは、神ならざる神、すなわち偶像に先ず捧げられた王宮の肉類と酒で自分を汚すまいと決心しました。これに対して新約聖書では パウロが「世の中に偶像の神など存在しないのだから、偶像に供えられた肉かどうかで心配する必要などない」と言い切っています。(Ⅰコリント10:4)「多くの神々がいるように思われているが、私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出て、この神へ帰って行くのだ」とも言っています。(Ⅰコリント8:5〜6)
 
しかし偶像に備えた食べ物は食べないとしている人の信仰も尊重して、その人をつまずかせないように、愛の配慮を勧めています。そして「わたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」とさえ言っています。(Ⅰコリント813)すなわち「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すために」(Ⅰコリント1031)を心がけていくのです。
 
ダニエルたちも自分たちの信仰の量りに従って真剣に祈り、あのような決断を貫きました。そしてイスラエルを滅ぼしたバビロン王の宮廷で、神さまの栄光を現すことができたのでした。「神さまの栄光を現すこと」それが大切なのですね。
 
 パウロは「偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」「あなたたちは悪霊の仲間になってほしくありません」(Ⅰコリント10720)と述べています。社寺の祭礼には、飲み食いし、踊り狂い、淫行に走る状況が日本でも見かけられます。大きな神社や寺の門前には、淫らな宿屋が立ち並び、参詣者が精進落しをすると言われています。それが真の信仰者の姿なのでしょうか。
 私はお酒については、若い時は、社交上すすめられれば飲むという立場をとっていました。しかし私が目白の副牧師時代に、学生センターの主事を代行していた時のことです。センターに泊まって管理人をしてくれていた実に真面目な大学生が居ました。新潟の出身で父親とよく酒を飲み合う育ちでしたが、上京してクリスチャンになり、断酒しました。ところが或る晩、ウイスキーをがぶ飲みして狂乱状態になり、ホールのガラスをたたき割り、床の上をのたうちまわりました。電話で通報を受けタクシーで駆けつけ、彼を押さえつけ12時間格闘しましたが、遂に119番に電話して緊急入院させました。私も負傷しました。失恋してたまらなくなり、夜の街に出て行ってウイスキー瓶を買ってきて、一気に飲みほしたのでした。私はこの好青年を狂人にする酒の恐ろしさに身震いしました。それからは飛行機に乗った時の食事で、白ワインを少々口にするだけに決めました。
 
 「青年よ、大志を抱け」で有名なWクラーク博士は札幌農学校に赴任する時、アメリカから持参したウイスキーと葉巻を海に投げ捨て、代わりに聖書をもって教育することを 黒田長官に強く求めて承認させました。彼が横浜の白昼の路上で酩酊狼藉を働く若者の姿を幾人も見かけたからでした。前途ある有能な若者を、あたら酒・たばこで滅ぼさせてはならないと、自分に強く言いきかせて、禁酒禁煙を通したのだそうです。
 
[] 主を畏れることが知恵の初め
 バビロン王は、国家に役立つ人材を、自分が滅ぼしたユダ王国の王族貴族の中からも見出そうとしました。「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年」と記されています。そして更に宮廷で3年間特別に養成訓練をして、選んだのでした。今日の世界でも社会が求める人材とは、全くこの通りで、変わっていないのではないでしょうか。ですから親たちはわが子を小さい時からこのような人間に育てようと、懸命に教育訓練しています。
 
 でもこれに対して少年ダニエルたちは、NOと叫び、異なる行動をしたのでした。その 原理は「自分を汚すまい」 神さまを畏れ敬う信仰から出た決断です。今日の礼拝の冒頭でも司式者に「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」(箴言910)の御言葉を読んでいただきました。
 
まさにダニエルたちは、王が求めなかった神を畏れる信仰を第一にしましたので、王が求める以上の健康、知恵、知識、理解力、判断力、行動力、更に霊感にも秀でた働き人に成長していきました。何を大切にして生きるか。神を畏れる信仰を第一にして生きること―― これが今日のメッセージです。
 
このメッセージを私たちは今日心に新たにいたしましょう。礼拝を第一にすることこそが、子育てに一番大切なのだと再確認いたしましょう。そしてそれを証して参りましょう。                              
                                   完
 

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