日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

礼拝説教2009年

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[聖書] ヨハネによる福音書1章43〜51節
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

[序] 出会いの喜び
去る3月25日に、藤沢に住む18歳のAさんがお祖母さんと、遠路はるばる我が家を訪ねて来られました。お昼時近かったのでお弁当持参で、私たちも一緒にいただきました。 高校を卒業して、4月から大学に進学するのでご挨拶をというのです。彼女が小学生時代の夏休みにシンガポールで働いていた叔母さんのところに遊びに来て、教会の礼拝に初めて出席しました。休みに二度ほどシンガポールに遊びに来ては、礼拝に出席したでしょうか。

藤沢の近所の教会に通い始めるようになりました。父親からは成人するまではダメと禁じられていて、バプテスマを未だ受けることが出来ないでいますが、信仰の証を書いて持って来て、見せて下さいました。教会の中高生の会で卒業のお祝いをしてくれるので、その時その証を読むのだそうです。お祖母さんはその証を未だ見せてもらっていませんでした。

Aさんとシンガポールの教会との関係は、2〜3回礼拝に出席し、ガウンを着てジュニア聖歌隊の賛美に加わり、私の説教を聞いてくださっただけです。それなのに大学に入学しますと、わざわざ私たち夫婦に川越まで会いに来てくださるという思いをお持ちだったのです。小学生の時に初めて礼拝に出席してイエスさまに出会ったということが、Aさんの心の内では、これほど大切なことだったのですね。私は牧師としてイエスさまの教会にお仕えさせて頂いている光栄を、あらためて深く感じました。

ナタナエルは、友人のフィリポに誘われてイエスさまのところにやってきました。そして神の子救い主に出会って弟子になりました。私も中学時代に聖書を読み始め、クラスメイトに連れられて目白ヶ丘教会の礼拝に出席し、主イエス・キリストとの決定的な出会いを経験しました。今朝はヨハネ福音書の1章から、ナタナエルとイエスさまとの出会いを学びましょう。

[1] 来て、見なさい
イエス・キリストの先ぶれ役を果たしていたバプテスマのヨハネは、自分がイエスさまにバプテスマを授けた際に、聖霊が親しくイエスさまの上に降るのを目の当たりにしました。そして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証しました。それを聞いて彼の二人の弟子が、イエス さまに従い始めました。その一人アンデレは、早速自分の兄ペトロに「私たちはメシアに出会った」と言って、彼を連れて来ました。もう一人の弟子とは、マタイ、マルコ福音書の記述からみて、おそらくゼベダイの子ヨハネで、彼も兄のヤコブを連れて来たのではないでしょうか。

ガリラヤへ行こうとされたイエスさまは、フィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と言われました。するとフィリポは早速、ナタナエルを訪ね、「私たちは旧約聖書(律法と預言者)に書かれてある方(メシア)に出会った」と言いました。

ナタナエルは未だイエスさまに直接会っていません。そこで彼はフィリポにこう答えました。「ナザレの人で、ヨセフの子イエスという人だって?ナザレから何か良いものが出るだろうか」 メシアの到来を予言する旧約聖書の中には、ナザレという地名など全く出て来ません。そのような無名の田舎町から、イスラエルの王となるメシアが出るはずがないと、ナタナエルは思ったのです。あんな片田舎から、或いはあんな学校から優秀な人物など出るはずがないなどという偏見を、私たちでもつい言ってしまうことがあります。

しかしフィリポから「来て、見なさい」と言われますと、ナタナエルはイエスさまに会いに来たのでした。ローマ帝国の属国になってしまったイスラエル王国を再興する救い主メシアが現れてくれますようにという願いと期待が、ナタナエルの内に強くあったので、とにかく一度会って見ようと思ったのでしょう。イエスさまは彼を見ておっしゃいました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」「どうしてわたしを知っておられるのですか」「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」

パレスチナのいちじくの木は大きく枝をはり、その木陰でラビと呼ばれる律法の教師を囲む法座が、よく開かれていたそうです。ナタナエルも法座に加わり、律法を学びながら自分の道を懸命に模索していたのです。その彼を「まことのイスラエル人だ」とイエスさまはおっしゃいました。イスラエルとは、第三代目の先祖ヤコブが、神さまから頂いた名前です。

昔ヤコブは兄エサウが受ける家督を、父を騙して横取りし、兄の恨みと怒りを買い、遠くの国に逃げ出しました。20年後に故郷に戻ってくることにしましたが、兄が大勢の郎党を引き連れて迎えに来たという知らせを聞くと、兄が復讐にやって来たのではないかと、恐怖に襲われました。そしてヤボク川のほとりで夜通し祝福を求めて、神さまと祈りの格闘をしました。そして遂に「お前は神と人と闘って勝った」と言われて、イスラエルという名を頂いたのでした。

イエスさまは、イスラエルの王を待望するナタナエルの熱い祈りを見てとって、ヤコブと同じだねとおっしゃったのでしょう。自分の内にある熱い願いをパッと受けとめて下さったイエスさまのお言葉が、ナタナエルの琴線に触れました。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」 行くべき道は決まった。このお方に自分の人生を託そうと、彼は瞬間的に決意したのでした。


(後半につづく)

(前半よりつづき)


[2] どん底で見た夢
一目見ただけで、ナタナエルの心をパッと見抜いてしまわれるとは、イエスさまはやはり私たちとは違いますね。しかし神さまには全てがお見通しで、嘘・偽りやごまかしは効かないとしますと、これはまた、実に恐ろしいことではないでしょうか。

日本には「さわらぬ神に祟りなし」或いは「近寄る神に罰当る」ということわざがあります。神さまになれなれしく近づいて、うっかり失礼なことをしてしまったら、罰があたって祟られる。なるべく距離をおいてお付き合いした方が無難だというのです。これは裏を返せば、「自分の内面を、神さまにも他人にも余り知られたくない」という人間の心理を表す諺ではないかなと、 私は思います。

でも聖書が記す神さまと私たち人間との関係は違いますね。ヤコブは人を押しのけてでも得しようと才知を働かせる人間でした。年老いて目が見えなくなった父が「お前は本当にエサウなのか」と幾度も念を押したのに、神の名を持ち出してまで騙し抜いて、家督を受け継ぐ祝福の祈りを横取りしました。その結果、従者も連れずたった一人で800キロ離れた母の実家に逃避する破目になりました。夜は石を枕に地べたに横になっての野宿です。

しかしこの惨めなどん底状態で、神さまは彼に素晴らしい夢を見せて下さいました。天と地との間が階段で結ばれて天使が上り降りしているのです。これは神さまと彼との間に祈りの通路がしっかり通じているという意味です。そして「何処へ行こうともお前を守り、見捨てない。必ずこの土地に連れ帰る」という神さまの約束をお聞かせになったのでした。どうして神さまはこんなヤコブに、とことん優しいのでしょうか。

それは神さまが彼の祖父アブラハムに対して、「わたしは、あなたとあなたの子孫の神となり、祝福を与える」と約束して下さったからです。ですから神さまは、アブラハムへの約束をそのまま彼の孫ヤコブに対しても守り、たとえ全ての者に見捨てられても、私は見捨てないと語り聞かせてくださったのでした。ヤコブは神さまの変らぬ愛にふれて、自分の罪深さを悔い改めて立ち直りました。

神さまは悪を憎まれます。嘘・偽りを退けられます。だから遠く距離をおいて、信心に見合うご利益をいただけるお付き合いをしようというのが、多くの日本人の考えでしょう。しかしヤコブは、自分の罪深さの故に打ちのめされ、どん底に落とされた時にこそ、何としても祝福を頂こうと神さまと格闘したのでした。人格的欠陥をもつ私を私以上に知り抜いておられる神さまだからこそ、全幅の信頼をよせて、その神さまの導きに従っていく信仰――これが聖書が示す神さまと私たちとの関係なのです。

ナタナエルについて「この人には偽りがない」とイエスさまはおっしゃいました。我が身を守ろうとする自衛本能を備える私たちは、反射的に体裁をとりつくろうとします。ですから一切のごまかしや嘘と無縁に生きていける人は居ないのではないでしょうか。ナタナエルも例外ではないと思います。では偽りがないとはどういうことでしょうか?

聖書をよく読んでいたナタナエルは、ナザレとメシアがどうしても結びつかないと疑問を抱きました。しかしフィリポから「来て、見なさい」と言われると、疑問は疑問としながらも、とにかく イエスさまの許にやって来ました。この態度に自分の知識や判断に固執せず真理を真剣に求め続ける、彼の謙虚な心が現われています。救い主メシアとの出会いを求める誠実さを、偽りがない心だとイエスさまは評価して下さったのでしょう。

[結] もっと偉大なことを見る
初めて会っただけなのに、自分の内にある熱い思いを理解して下さったイエスさまに、ナタナエルはこのお方について行こうと、瞬間的に決心しました。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 あなたは神の子です――これは間違っていません。でもあなたはイスラエルの王です――は間違っています。イエスさまは全世界の救い主なのです。

イエスさまはナタナエルにおっしゃいました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
神の天使たちが人の子の上に昇り降りするとは、神さまとイエスさまとの一体性を表します。

バプテスマのヨハネは、イエスさまにバプテスマを授けたときに、天が開けて神の霊が鳩のように降るのを目の当たりにして、弟子たちに証しました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
世界の全ての人を罪の滅びから救い出すために、ナザレのイエスとなってこの世に来てくださった神さま。十字架にかかり、ご自分の肉を裂き、血を流して死んでくださることによって私たちを罪から贖い出してくださった神さま。そして私たちを支配している死を打ち滅ぼして、墓より復活し、天に戻って行かれた神さま。ナタナエルも他の弟子たちも、イエスさまが明らかにしていかれる神さまの偉大な救いのみ業を、これから見ることになるのです。

しかし百里の道も一歩からです。イエス・キリストと出会い、従うことによって信仰生活は始まるのです。私が信仰告白をしてバプテスマを受けてから3年ほど経った時でしょうか。自分の罪深さに愕然として泣き崩れたことがありました。熊野牧師に「バプテスマを受けるのは早過ぎました、今こそ受けるべき時です」と申し上げました。「いや、バプテスマを受けて信仰生活を続けて来たから、深い罪の自覚が与えられたのだよ」と先生はおっしゃいました。

牧師になりましてからも、自分のような者が牧師を続けていてよいのだろうかと、身をすくませる思いに襲われる山坂を幾度も経験してきました。一体いつになったらイエスさまの弟子らしい弟子になれるのでしょうか。でも最初の一歩がありましたから今日があるのですね。もっと偉大なことをあなたは見ることになる――そうですね。一年一年、それまで見えなかった神さまのみ業の偉大さ、素晴らしさが見えて来ています。イエスさまの恵みの豊かさが分かるようになってきています。有難いことです。嬉しいことです。

イエスさまと出会えて、本当に良かった、何と言う幸せ者だろうかと思います。皆さんはいかがでしょうか。そして自分を目白が丘教会に連れて来てくれた辻成史君に感謝しています。アンデレは兄のペトロを連れて来ました。フィリポはナタナエルを連れて来ました。一人ひとりが、家族を友人を誘っています。人生を変えてくれるイエスさまとの出会いを、身近な人に提供して参りましょう。  

[聖書]ヨハネによる福音書18章28〜38節a
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。 そこで、 ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ピラトは言った。「真理とは何か。」

[序] 本当の救い主とは
イエス・キリストはユダヤ人たちにとって一番大切な祭り、過越祭の金曜日に十字架にかけられて、30数歳の地上の生涯を閉じられました。しかし日曜日の朝、墓より復活なさり、絶望に沈む弟子たちに現れ、40日間にわたって彼らの信仰を甦らせ、確かなものにしてから、天に戻っていかれました。

イエス・キリストは日曜日に群衆の歓呼を受けてエルサレムの都に入城し、神殿の境内で人々に教え続けられました。木曜日の日没と共に金曜日が始まりました。最後の晩餐後に ゲッセマネの園でいつものようにお祈りしておられる時に、逮捕され、大祭司の審判を受ました。明け方にローマ総督ピラトの官邸に回されて、ローマ法に基づいて十字架刑の判決が下り、午前9時に十字架につけられ、午後3時過ぎに息を引き取られたのでした。

札幌時代の剣道仲間に、創価学会の信者さんがいました。私がキリスト教会の牧師と知って、いろいろなことを教えてくれました。彼はキリスト教についてこう教えられていました。「十字架刑という、この世で最も重い犯罪者の受ける刑罰で、なすすべもなく処刑されたような人物がどうしてこの世を救うことが出来るだろうか。もし彼が世を救い、人を救う力を持つ者ならば、処刑に打ち勝つ力を現すはずではないか。我が日蓮上人は、鎌倉幕府の役人によって首を切り落とされようとしたが、その刀が三つに砕けて、処刑が出来なくなったのです。」

彼にさそわれて、学会の集会に二度ほど出席させてもらいました。300人位の集会でしたが、医者のグループのリーダーが立って、「処女マリアから生まれたとか、死後三日目に復活したなどという非科学的な教えが、どうして人を救い世を救えようか」と言って、医者という科学者の立場から、キリスト教を誤った宗教だと批判していました。

「ベツレヘムの馬小屋で誕生し、ゴルゴタの丘の上で十字架に処せられ、三日目に復活されたイエス・キリストは、人を救い世を救う本当の救い主なのか」これは2000年来問い続けられてきた人類のテーマでありましょう。来週は主の復活をお祝いする復活節イースター礼拝です。そこで今日の聖書箇所は、ローマ総督ピラトの官邸での審判の場面です。
イースター礼拝を前にして、イエス・キリストとローマ総督ピラトとを対比させながら、私たちの信仰を確認したいと思います。

[1] 自殺したピラト
明け方に起こされたピラトは、イエスさまを引き立てて来たユダヤ教指導者らに尋ねました。
「どういう罪でこの男を訴えるのか」
「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」 
「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」 
「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」 

旧約聖書に記されている律法によりますと、「神を冒涜する者は、共同体全体が石で打ち殺す」(レビ記24:16)と規定されています。そしてこのナザレのイエスは神の子メシアだと自称して民衆を騙している。これは明らかに神を冒涜する行為であり、死刑にすべきだと言うのがユダヤ教当局の主張でした。ローマ帝国の支配下にある今は、死刑については、総督の許可が必要だったのでしょう。

しかしピラトの立場からすると、自分の権限は政治・経済・刑事事件の処罰であって、神の子メシアが誰かというようなことは、信仰の教義上の見解の相違であり、宗教問題です。ローマ政府の行政官としては立ち入る必要のない事柄です。ですから彼は、イエスさまがユダヤ人の王なのかどうかという点を、繰り返し質問しています。しかしそこで明らかになったのは、イエスさまの王国とは、この世に属するものではないということでした。もしもこの世に属する王国ならば、部下たちが王なるイエスを守って戦ったはずです。

「それでも王国の王には違いないのではないか」 その問に対するイエスさまの答えは、私の王国は真理の王国なのだということでした。真理に耳を傾け、真理につこうとする者の王国なのです。ピラトは「真理とは何か」とつぶやいています。真理を証する王、真理に耳を傾ける国民。これまで考えても見なかった言葉、全く異質な言葉に直面して、ピラトは戸惑いを抱いたのでした。

しかし彼が政治犯ではないことだけは確かです。ピラトは「私はローマ法に抵触する罪をこの男に何も見出せない」として、繰り返し釈放しようと頑張りました。ところが「ユダヤの救い主と自称するのは、ユダヤの王と自称することで、ローマ皇帝の支配に背くことだ。その男を釈放するなら、貴方が皇帝に背いている」と反撃されて、ピラトはとうとう我が身を守るために、政治的反逆罪として、イエス・キリストに十字架刑の判決を下す破目になったのでした。

ピラトは解放奴隷の出身だったと言われるほど、卑しい身分の出でした。テベリウス帝の信頼を受けて重く用いられたセイヤヌスの腹心の部下になり、出世してユダヤ総督に任じられ、難しい勤めを10年間も続けたのですから、有能な行政官だったのです。ところがセイヤヌスが失脚して、ローマ政府内に後ろ盾が居なくなるとやがて解任され、遂に自殺してしまったと伝えられています。イエス・キリストを十字架刑にしてまで我が身を守ろうとしたのに、また何と憐れな結末でしょうか。


(後半につづく)

(前半よりつづき)


[2] 御心を成し遂げられたイエスさま
一方のイエス・キリストも、ベツレヘムの家畜小屋で生まれるという貧しい出生でした。ナザレの村大工ヨセフの子として成人されました。30歳の頃バプテスマのヨハネよりヨルダン川で バプテスマを受けた時、神の霊の特別な降臨を受け、神の子としての自覚を明確に授けられました。そして救い主キリストとしての公の生涯を歩み始められました。しかし都のエルサレムを活躍の舞台とはせず、ガリラヤの田舎を中心に、貧しい庶民の間で、み言葉を語り、病気で苦しむ者を癒し助け、悲しむ者を慰め、死人をも甦らせて、足かけ3年間、神の国の到来を宣べ伝えられました。

そしていよいよ十字架について、神の子救い主の栄光を現すために、エルサレムに上られ、大祭司に捕らえられて、ピラト総督の前に立たされたのでした。このお方は、この世の地位、富、権力、名誉などへの欲とは全く無縁でした。多くの人の身代金として自分の命を献げるためにこの世に来たという使命のみに集中して、神さまの御心に従う生涯を全うされたのでした。ヨハネ福音書は、「成し遂げられた」(19:30)というお言葉を、イエスさまの十字架上の最後のお言葉として記しています。このお方をピラトは、「真理とは何か」とつぶやきながら、我が身を守るために十字架につけたのでした。

63年前のあの敗戦の年の8月15日、私は北海道北部の小さな農村で迎えました。病気静養で休学し、二度目の小学6年生の二学期が始まりました。習字道具と教科書全部を持ってくるように命じられました。「墨をすりなさい」普段とは違う先生の声に、教室は神妙になりました。「ここを消しなさい」「ここを消しなさい」 一冊ずつ頁をめくり、墨をふくませた習字の筆で、教科書の記述を次々とぬり消しました。ある頁は大きく真っ黒になりました。

昨日まで正しかったことが、一夜明けると誤りだとぬり消される――強い衝撃と共に、「時代が変り、住む国が異なっても、変らない本当の真理を学ばなければならない」という思いが、心の奥底からふつふつと込み上げて来るのを感じました。焼け野原の東京に戻って中学校生活が始まりました。本を読み漁っているうちに聖書に出会いました。読んでもよくわかりません。しかし投げ出さずに読み続けました。教科書を黒くぬりながら「本当の真理を学ばなければ」と思ったあの記憶が、私に最後まで聖書から離れさせなかったのです。
 
[結] 永遠の命をもたらす真理
今朝の説教の題を「二つの真理」としました。おかしな言葉ですね。真理は幾つもあるわけがありません。一つのはずです。ではどこで、本当か偽者かを見分けるのでしょうか。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変ることがない」(汽撻肇蹌院В横粥法/佑慮斥奸△海寮い慮斥佞亙僂襪里任后私は大勢の人間の命を死に駆り立てていった国家の言葉が、一夜を境に変ってしまう経験を味わいました。真理は永遠に変らない言葉でなければなりません。

「世と世にある欲も過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行なう人は永遠に生き続けます」(汽茱魯唯押В隠掘法\い叛い陵澆蓮▲團薀箸そうであったように、はかなく消えていきます。しかしイエス・キリストの命は、ピラトが十字架にはりつけにしても、今なお生き続けています。ですから神の御心を現すイエス・キリストの言葉こそ、本当の真理だと、私は信じています。

イエス・キリストの生と死と復活に現された神さまの言葉を土台にして、そのみ言葉を行なうことによって、はかなく消える人生ではなく、永遠の命をあらわす人生を営んでいきたいものです。     

[聖書] 出エジプト記35章20〜29節
イスラエルの人々の共同体全体はモーセの前を去った。 心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。 進んで心からする者は皆、男も女も次々と襟留め、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えて来て、みな金の献納物として主にささげた。 青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、およびじゅごんの皮を持っている者も皆、それを携えて来た。 銀や青銅を献納物としようとする者は皆、それを主への献納物として携えて来た。また、アカシヤ材を持っている者は皆、奉仕の仕事のためにそれを携えて来た。 心に知恵を持つ女は皆、自分の手で紡ぎ、紡いだ青、紫、緋色の毛糸および亜麻糸を携えて来た。 心動かされ、知恵に満ちた女たちは皆、山羊の毛を紡いだ。 指導者たちはエフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類、香料、灯油、聖別の油、および香草の香を携えて来た。 モーセを通じて主が行うようお命じになった すべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た。

[序] 教会総会に当り
今日は礼拝後に2009年度の教会定期総会を行ないます。今月末で終わる2008年度の歩みがどうだったのかを、改めて一つ一つ振り返ります。そして今年は更にこうしてはと考え合い、新しい思いをもって 4月から始まる2009年度の歩みの備えをいたします。

使徒パウロはこう言いました。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」(汽灰螢鵐12:27)) 私たちの体は数多くの部分の集合体ですが、どの部分も無くてはならぬ働きをして体全体に貢献しています。教会もそれと同じで、誰一人として、不必要な教会員などいません。それぞれの個性と働きが集まって、川越教会を形成しているのです。教会の主であるイエス・キリストが私たち川越教会に期待しておられる御心をたずねながら、2009年度の歩みをご相談いたしましょう。

今日の聖書教育の学びは、イスラエルの民が神の幕屋を建設した時の様子が記されています。心動かされ、進んでささげようとする者が次々と献納物を持って来たので、十分で有り余るほどになりました。羨ましいですね。教会の定期総会当日に相応しい聖書の箇所です。神さまの私たちへの語りかけを聞き取って参りましょう。

[1] 赦された喜び
神さまと私たちとは、神さまが語りかける言葉によって結ばれています。イスラエルの民はモーセを通して語りかけられる神さまのみ言葉に一つ一つ聞き従うことによって、エジプトから救い出され、約束の地カナン目指して旅を続けるようになりました。神さまは神の民としての生活指針「十戒」を授けるために、モーセをシナイ山に呼び出されました。

ところがモーセがシナイ山の頂に40日間留まっているうちに、民はモーセが行方不明になったと不安に駆られて、金の子牛を造り、神さまが彼らと共にいて下さるしるしとして、担いでカナンの地に向かおうとしました。これは「いかなる像も造ってはならない」という第二の戒めの違反です。神さまは民との契約を破棄して、彼らを滅ぼし尽くすと激しくお怒りになりました。

モーセが行方不明なったのなら、どうしてモーセに代わる預言者を与えて下さいと、神さまに願わなかったのでしょうか。預言者を通して言葉を聞くだけでは、何とも心もとなくなってきたのです。神さまが自分たちの間に居て下さるということが、一目見れば分かる形で現されれば、安心出来ると思うようになって来たのです。

しかし金の子牛はものを言いません。畑のかかしと同じです。ですから担ぎ手が次第に  しゃべり始めます。聞き従うよりも、ああしましょう、こうしましょうと、金の子牛を自分たちの 都合の良いように動かすようになってしまいます。神さまとの関係が転倒して、人間が主になり、神が僕になっていきます。罪深い人間が神さまを召使にして、我欲を満たそうとしたら、自滅します。ですから神さまは断固として、NO!とおっしゃったのでした。

モーセは懸命に執り成しの祈り捧げ、懇願しました。神さまは、では滅ぼすことはしないが、これ以上彼らと共に進むことはしないとおっしゃいました。神さまに見放されたら、たちどころに敵の餌食になってしまうでしょう。民は自分たちの犯した罪の重大さを思い知らされ、嘆き悲しみ、装身具の一切を取り外して喪に服しました。

神さまは遂に御心を翻し、モーセを再びシナイ山頂に召し、赦しの言葉と共に、契約を結び直してくださいました。そして改めて十戒を石の板に記して、モーセにお渡しになりました。また前回同様に、その石の板を安置する幕屋を造るようにと、モーセにお命じになりました。モーセはイスラエルの共同体全体に告げました。「あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」 

心動かされた人々は、臨在の幕屋と全ての備品、また大祭司や祭司たち及び職員たちの衣服・祭服等のすべてに用いるために、主への献納物を次々と、進んで心から携えて集まって来ました。聖所建設の作業が開始されても、人々はなお毎朝、随意の献げ物を携えて来るので、作業全体を仕上げるのに、十分で有り余るほどになったのでした。金の子牛を造ってその前で飲み食いして踊り回った民の、この変りようには、大いに驚かされます。 一体どうしたことでしょうか。 

それはあれほど激しく怒られた神さまが、彼らを赦して下さったからに他なりません。モーセに向かってはっきりと宣言して下さいました。「主、主、 憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

私たちの罪は自分一代では終わらず、その悪影響は3代4代にまで及ぶとは、何という恐ろしいことでしょう。罪を軽々しく犯すことはできません。悪と真剣に戦い、正しく生きようと必死にならなければなりません。それでも私たちは、罪を犯してしまう弱さを抱く者です。 しかし神さまは、罪を問う前に、罪と背きと過ちを幾千代にもわたって赦すと、忍耐強い憐れみと慈しみの豊かさを宣言なさいました。そして彼らをご自分の民とする契約を、結び直して下さったのでした。「幕屋を造れ、貴方たちのただ中に住もう」とお命じになって下さったのです。何と言う有難いことでしょうか。彼らは全身に溢れる喜びをもって、幕屋建設に応答したのでした。


(後半につづく)

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