日本バプテスト川越キリスト教会 Baptist Kawagoe

加藤享牧師,山下誠也協力牧師の礼拝説教・教会週報のメッセージ、イベント・行事案内

礼拝説教2009年

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[聖書]エレミヤ書1章4〜14節
主の言葉がわたしに臨んだ。 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。 見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」 主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる/この地に住む者すべてに。

[序] 違う人生を生きる
89才の女優森光子が、国民栄誉賞を受けました。舞台「放浪記」の林芙美子役を48年間2000回以上も続けて居ます。今後も主演を続けるという旺盛な意欲-――私よりも一回りも年上です。偉いですね。誰しもが拍手を惜しみません。加藤享よ、しっかりせよという思いが湧いてきます。

一方その放浪記で女流作家として25才でデビューした林芙美子は、幼い時から行商人の両親に連れられて各地を放浪し、貧しさゆえに悲しいこと、苦しいことを味わい尽くしました。その経験を優れた才能で数々の作品に仕上げて、大勢の人の心を動かしました。しかし読者にいつ忘れ去られるか不安に苛まれ、原稿依頼は無理を承知でも皆引き受けて、深夜も机に向かっていたそうです。濃いコーヒーとタバコを一日50本。心臓麻痺に襲われて47才の若さで急逝しました。「花の命は短くて 苦しきことのみ 多かりき」という言葉が有名です。哀しいですね。

同じ放浪記を舞台にしながら、二人の女性、林芙美子と森光子の生き方はまた何と違うことでしょうか。このお二人だけではありません。私たち一人ひとりも平凡な市民としてではありますが、それぞれ違う人生を生きています。この違いはどこから生じているのでしょうか。
聖書教育では、今月エレミヤを学びます。彼はイザヤと同じ南王国ユダの預言者です。でも二人の人生も違います。私たちは、イザヤとエレミヤを比べながら、自分の人生の足取りをどう進めていくべきかを考えてみることにいたします。

[1] 自然を逍遥する青年
イザヤはウジヤ王が死んだBC740年頃に預言者として神さまから召されました。
エレミヤはそれから6代後のヨシヤ王の治世13年、BC626年頃に神さまから召されました。預言者としては114年程イザヤの後輩に当ります。日本でいえば、初代神武天皇の少し後の時代です。

イザヤはエルサレムの都の貴族の家に生まれました。ウジヤ王の死に際して、国の行く末を案じて、神殿にこもり祈っている時に、聖なる神さまの臨在にふれて、預言者に召し出されました。エレミヤはエルサレムの郊外の田舎町アナトトの祭司の家に生まれました。内村鑑三はエレミヤを「余の特愛の預言者」と呼んでいますが、自然を逍遥する青年エレミヤの姿を推測して、こう述べています。

「多分アナトト付近を独り歩みし時、あるいは古きオリーブ樹の下に、独り黙想にふけりし頃、彼の心琴に幾度となく触れし、細きかすかな声があったろう。彼は幾度となく消さんとせしが、しかしその声は去らなかったであろう。彼は遂に彼の預言者として神に預定されしものであるを、信ぜざるを得ざるに至ったのであろう」

内村鑑三がこのように自然を逍遥する青年の姿を推測したのは、今日の1章11〜12節によると思われます。「エレミヤよ、何が見えるか。」「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」

アーモンド(口語訳「あめんどう」)は、パレスチナではすべての木に先がけて1月の終わりか2月の初めに花をつける木です。私たちが長く暮した雪国札幌で言えば、雪解けの3月末に咲く「こぶしの花」に当るでしょう。エレミヤはアーモンドの花ではなく、アーモンドの枝と答えています。芽のふくらみを目ざとく見つけているのです。シャーケードの枝を見ながら、神さまのショーケードに気がついて、召命を悟っていくエレミヤの心の動きを見て、自然をよく観察しながら、其処ここに神さまの声を聞き取って精神形成をしていった若きエレミヤを内村鑑三は心に描いたのでした。

万物が眠っている冬の最中に、あざやかな花をつける目覚めの木のように、混沌とした歴史の中で、神さまが独り、目覚めて見張って居られます。預言者を送って語らせたご自分の言葉を、どのように実現させようかとはかりながら、見張っておられます。神さまは先ず預言者を通してお語りになる。それから出来事を起こして、歴史を綴っていかれるのです。そこで関根訳は「『目覚めの木の枝が見えます。』
よく見た。なぜならわたしは目覚めて、わたしの言葉を実行しようとしているから」と分かりやすい訳になっています。


(後半へつづく)

(前半からのつづき)


[2] 何が見えるか
私は目白ヶ丘バプテスト教会で16才から32才まで16年間熊野(ユヤ)清樹牧師の説教を聞いて育ちました。神学校時代6年間、副牧師になって2年9ヶ月も含まれます。説教の中で良く語られたエピソードの一つをご紹介します。

熊本県人吉の小学校時代のことです。習字の時間に受持ちの先生が、柱によりかかりながら外を眺めていました。突然一人の子を呼んで窓のそばに立たせ「何が見えるか」と尋ねました。その子は首をかしげるだけでした。「もうよい。席に戻りなさい」次の子が呼ばれました。「何が見えるか」その子も首をかしげるだけでした。

習字を書いていた子供たちは俄然興味をそそりました。幾人目かに「熊野」と呼ばれました。先生の傍らに立って外を眺め渡しました。「何が見えるか」いつもながらののどかな田舎の風景です。特別変った様子はありません。ところが校庭と地続きの農家の縁先で、子守さんが赤ん坊を抱きながら、こくりこくりと船をこいで居眠りをしているのに気付きました。赤ん坊を縁側から下に取り落としたらケガをします。「先生、危ないです」「そうか、行って起こして上げなさい」熊野少年はとんでいってその子守さんを起こして、教室に戻って来たそうです。

「何が見えるか」「先生、危ないです。」「そうか、行って起こして上げなさい」あめんどうの枝を見ながら、預言者に召されたエレミヤの話になる度に、私は一体幾度このエピソードを聞いたことでしょう。人吉の小学校の先生と目白ヶ丘教会の牧師の言葉が私の心に刻まれています。その言葉が今日川越教会で、皆さんにこのように語られています。これが言葉の素晴らしさなのですね。

熊野先生はお父さんを早く亡くしたので、中学校に進まず高等小学校を出て、内務省の衛生試験所で働き始めました。しかし試験管をふるっている毎日の生活が、何か他人の仕事をしているような気がして、仕方がなくなってきました。「自分でなければ出来ない仕事があるはずだ。」そして牧師になる道を神さまから示されて、東京に出て中学2年に編入し、神学校への道を歩み始めたのでした。

「何が見えるか」「先生、危ないです」皆がみな、危ないと気が付くわけではありません。ですから危ないと気付く心は天与の才の一つ、神さまから与えられた賜物(gift)ではないでしょうか。「ああ、わたしは若者にすぎませんから。」と尻込みするエレミヤ。しかし彼の中には、既に生まれる前から、「シャーケード」から「ショーケード」に気付く能力が、備えられていたのでした。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(1:5)神さまからこう言われてしまいますと、エレミヤは返す言葉がなくなってしまったのではないでしょうか」

[3] わたしの言葉を語れ
しかし「諸国民、諸王国に対して語る預言者の生涯」などという召命はアナトト村で育ったエレミヤには大き過ぎます。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし主なる神さまは彼におっしゃいました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(1:7〜8)

エレミヤの学歴がどの程度のものだったのでしょうか。日本の教会について良い点を一つあげるとすれば、牧師の学位を重視しないことでしょう。私自身も、聖書の言葉を少しでも的確に説き明かすことを最重要課題として、今も勉強に励んでいる積りです。そして牧師としてはそれで十分で、別に博士号を持たねば肩身が狭いなどと思う気持は全くありません。ところがアメリカやアジヤでは、学位の肩書きがとても大事のようです。日本の小さい教会も、やがてそのような風潮に染まっていくのでしょうか。

エレミヤも都や神殿や王宮で語るとすれば、経験不足、肩書不足で軽くあしらわれる惨めさを、嫌でも味合うことになるでしょう。彼の尻込みも当然でした。ところが神さまはおっしゃいました。「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。」

そうです。何を語るのか。語る言葉が大切です。どう生きるか迷う時に、私たちは正しい判断を示す言葉を必要とします。言葉を聞いて考え、自分の言葉で語りながら、自分の考えがまとまっていきます。そして言葉で決意を表明し、行動を起こします。こうして言葉で私の人格が形成され、言葉で私の生き方が綴られていくのです。正しい命の言葉、神さまの言葉を聞くことが、私たち人間には本当に大切です。

エレミヤが自分の学識や力量で語るのではありません。神さまから示され、命じられた神さまの言葉を、忠実に的確に語ればよいのです。イエスさまがなさったタラントンのたとえを思い出して下さい。神さまはそれぞれに、5タラントン、2タラントン、1タラントンをお託しになりました。5タラントンの人が倍に増やして  10タラントンを神さまにお返ししました。2タラントンの人も倍に増やして4タラントンを神さまにお返ししました。神さまは二人を全く同じ言葉でほめて下さいました。

5タラントンの人は、2タラントンの人が懸命に働いて倍に増やしても、まだその上をゆく豊かな才能を、既にスタートの時点で授かっています。でも彼が持っていて私にはない3タラントンは、私が私の任務を果たしていく上では必要ないものなのですね。私の仕事は私に与えられた2タラントンで十分に倍に増やしていけるものなのです。

その意味でエレミヤはありのままの自分で、諸国民、諸王国に対する預言者の働きを果たしていくことが出来るのだよと、神さまから言われてしまいました。必要なのは、学識や肩書、人生経験の豊かさではない。神さまの語る言葉を、どれだけ   はっきりと聞きとり、的確に伝えるかなのです。エレミヤは神さまの召しを受ける他ありませんでした。

[結] 母の胎内に造る前から
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」神さまは、エレミヤが母の胎内で形造られる前に、既に彼をご存知で、彼の任務を考えてこられたというのです。考えてみますとこれは不思議なことではありません。当然のことです。川越教会のこの小さな教会堂――いいですね。私は大好きです。この会堂は2001年 1月に完成しました。でも建築家の心には、工事が始まる以前から既に出来上がっていました。それが設計図面となり、大工さんたちの手で形になっていったのです。

歴史の動きでは、南王国にもまた北からの災いが襲いかかってくるのです。滅びの警鐘を打ち鳴らし、悔い改めを迫る預言者が必要です。神さまはその任務に当てるために、エレミヤをお選びになり、母の胎内でお育てになったのでした。

この私も戦後の混乱の中で、聖書に出会い、友人に誘われて目白ヶ丘教会に導かれました。喜美子も目白に導かれ、共に結ばれました。神学校に進み、牧師になり、目白、札幌、シンガポールを経て、今ここ川越教会でお仕えしています。目白の16年3ヶ月が、札幌30年を生み出しました。目白・札幌の46年余が、シンガポール10年の働きになりました。そしてこれまでの56年余の信仰生活をもって、川越教会へのご奉仕に当っています。

これから私たちを、神さまは何処でどのようにお用いになるのでしょうか。川越が終点でしょうか。その次がまだあるのでしょうか。私たち二人の生涯は既に神さまの御心に描かれているのです。私たちはその全容を知りません、しかしその時その時に神さまが示される私へのご計画を真剣に受けとめて、お従いして参ります。

私たちの人生の違い――それは私たち一人ひとりに対する神さまの期待、ご計画の違いです。私でなければならない仕事、私にして欲しいと神さまが願っておられる任務を、信仰をもって聞き取り、神さまの御手にあるご計画を実現させて参りましょう。

[聖書]イザヤ書37章1〜7節
ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。 また彼は宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちに粗布をまとわせ、預言者、アモツの子イザヤのもとに遣わした。 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言われる。『今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。 生ける神をののしるために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろうが、ここに残っている者のために祈ってほしい。』」 ヒゼキヤ王の家臣たちがイザヤのもとに来ると、 イザヤは言った。「あなたたちの主君にこう言いなさい。『主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。 見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」

[序] イザヤが経験した国家的危機
旧約聖書最大の預言者イザヤの預言についての今回の学びは、一応今日で終ります。イザヤは南王国のウジヤ王が死んだ時に、預言者としての神さまの召しを、明確に受けました。20才頃のことでした。それからヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、3代の王の時代、40年余にわたって預言活動を行い、マナセ王に嫌われて沈黙し、やがて殉教の死を遂げたと言われています。

彼はエルサレムの都から離れることなく生涯を送りましたが、その間にエルサレムは、3回敵の攻撃にさらされています。今日の箇所は、丁度第三回目の危機に際して、晩年のイザヤの働きです。イザヤ書36章2節以下から37章終りまでの記事です。民族の危機、或いは我が人生の危機に直面した時に、私たちはどのように立つべきかを学ぶことにいたしましょう。

[1]危機に対する国王の行動
小さな南王国ユダの都エルサレムに敵の大軍が攻めて来た危機を、イザヤは3回経験しました。その第一回目がアハズ王の代、三国同盟を結んでアッシリア帝国に対抗しようとした計画に南王国が賛成しなかったので、シリヤと北王国の連合軍が攻めてきました。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と7章2節に記されています。イザヤは神さまの命を受けてアハズ王に会い、神さまの言葉を伝えます。「落着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(7:4)「主なる神はこう言われる。それは(三国同盟の計画)実現せず、成就しない」(7:7)
そして神さまの約束の確かなしるしとして「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という有名な約束が与えられたのでした。しかしアハズはイザヤに聞き従おうとはせず、アッシリア帝国に助けを求めて、シリヤと北王国を北から攻撃してもらって、我が身の安全を計ったのでした。

第二回目の危機は、ヒゼキア王の治世第14年(BC701年頃)に、アッシリアの大軍が攻めて来た時です。この時ヒゼキア王は使者をアッシリア王に遣わして、こう伝えました。「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」そして神殿と王宮の  宝物庫にあった全ての銀を贈りました。この記事は、イザヤ書では36章1節だけの記述ですが、歴史書の列王記下には18章13〜16節に記述されています。この時はイザヤが登場していませんから、きっとヒゼキア王がイザヤに助言を求めず、自分の判断で降伏したのでしょう。

そして第三回目が今日のところです。アッシリアに降伏して約13年ほど経ちました。毎年貢物を沢山取られる重い負担に耐えられなくなったのでしょう。ヒゼキア王は エジプトと同盟を結んでアッシリアに反旗をひるがえしたようです。そこでアッシリアの大軍が再び攻めてきました。BC688年頃のことです。頼みのエジプトからは援軍が来ませんでした。反旗をひるがえしたのですから、今度は降伏しても、前回のように生き延びることは難しいでしょう。絶対絶命の窮地に陥りました。

アッシリア王の使者ラブ・シャケがエルサレムに乗り込んで来て、ヒゼキアの家来と民衆に向かって大声上げて、威嚇しました。「ヒゼキアに騙されるな。ヒゼキアが『主が我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことが出来たであろうか。それでも主はエルサレムを私の手から救い出すと言うのか」(37:18)

第一回目の危機では、アハズがアッシリア王の助けという他力に頼って、我が身を護りました。第二回目の危機では、ヒゼキアが自分の持っている宝をアッシリア王に捧げて、服従するという自力の行動で、乗り切りました。第三回目は、エジプトとの同盟という他力に頼る方策に失敗しました。自分の力で何とか解決しようとするか、他人に頼って切り抜けるか、どちらもダメなら絶望して自滅するか、危機に直面して私たちがやれることは、この三つの中の一つでしょう。さてどうするか?

[2] 祈りを取り戻した国王
その時ヒゼキアは、エルサレムの神殿を完成させた時のソロモン王の祈りを思い出したようです。「あなたの民 イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください」(列王記上8:33〜34)
ヒゼキアが直面しているこの絶対絶命の窮地は、明らかにヒゼキアが判断を誤り、神さまの御心とは違う行動を取った罪の結果です。その罪を心から悔い改めて、神殿に行って祈り、神さまに憐れみを乞うならば、神さまは罪を赦して、祈りに応えてくださるのではないか。そのためにこそ、この神殿が建てられてここに在るのではないかと、気付いたのでした。ヒゼキア王は王の衣服を引き裂き、深い悔い改めを表す粗布を腰に巻いて、神殿に上りました。また宮廷長、書記官、祭司の長老などの重臣たちにも悔い改めの粗布をまとわせ、イザヤの許に派遣して、こうお願いしました。

「私たちはご覧の通りの苦難にあります。アッシリアからは、酷い侮辱を受けています。これはまさに神さまの懲らしめです。産まれる胎児が産道に達したのに、母体が弱り果てて生み出す力がないのと同じ状態です。このままでは母子ともども死んでしまいます。神の民が滅ぼされようとしています。主なる神さまは、神さまを侮る傲慢不遜なアッシリア王の言葉をお聞きになったはずです。神さまはアッシリア王をお咎めにならないのでしょうか。どうかお祈りしてください」

神さまはイザヤを通してこうお語りになりました。「あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。 見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」

「恐れてはならない」 イザヤはシリヤと北王国の連合軍が攻めて来た時にも、アハズ王に神さまの同じ言葉を伝えています。「落着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」 恐れてはならない―――危機に直面する神の民に対してイザヤを通して示される神さまのお言葉は、一貫して「恐れてはならない」でした。

皆さん、私たちはこの1月から3月にかけてエジプトの奴隷にされていたイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナン目指して大移動した歴史を学びましたね。イスラエルの大集団が紅海のほとりまで来て宿営していた時に、心変りしたエジプト王が戦車隊を先頭に追いかけて来た時の状況を思い出して下さい。前面は海、背後からはエジプトの大軍が迫ってきたのです。

絶対絶命の窮地に立たされて、民衆は泣きわめきました。その時モーセが語った言葉はこうでした。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14:13〜14)神さまが彼らのために戦ってくださるから、恐れる必要はないと、イスラエルの民は神さまから言われたのでした。


(後半へつづく)

(前半からのつづき)


[3] 神さまは同じお方
今日の箇所で、イザヤを通して語られる神さまは、あの出エジプトの時にモーセを通して語られた神さまと同じ神さまです。あの時イスラエルの民を絶対絶命の窮地に追い詰めたのは、エジプト王とその大軍でした。今回ヒゼキアとその国民を絶対絶命の窮地に追い詰めているのは、アッシリア王とその大軍です。イスラエルを追い詰める王は違いますが、救いを求める祈りを聞いておられる神さまは同じお方です。ですから神さまは「恐れてならない」と同じ言葉で、モーセにもイザヤにもお答になっているのです。

出エジプトの時には、神さまは激しい東風を送って海の水を分け、一筋の道を開いてイスラエルの民を、向う岸に渡らせて救い出してくださいました。追跡してきたエジプト軍に対しては、海の水を分けていた風を止め、海の水を元にもどして海中に全滅させてしまいました。

アッシリア軍に対しては、神さまは霊を送り込まれました。これは王の心の内に不安と恐怖を惹き起す霊でした。エチオピア王の大軍が攻めてくるとか、アッシリアの都ニネベで王の息子たちの間に権力闘争の内乱が起こったといううわさが王の耳に入り、王は不安と恐怖を抱き始めたのです。丁度その時、宿営している彼の部隊に野ねずみによるぺストなどの疫病が大量に発生し、大勢の兵隊が病死したようです。セナケリブ王は、急遽ニネベに引き揚げて行ったのでした。

こうしてヒゼキア王と南王国は、あの出エジプトの時と同じように、九死に一生を得たのでした。海の水を吹き分けて、一筋の救いの道を開いた東風。アッシリア王の心に不安と恐怖を惹き起した霊の働き。一体誰がこの様な不思議な救いの働きがあるなど心に思い浮かべるでしょうか。しかし風も霊もヘブル語では同じ言葉なのです。

神さまには出来ないことはありません。何でもお出来になる全能の神さまです。その神さまはまさに霊をもって自由に働かれる神さまなのですね。イエスさまはニコデモにおっしゃいました。「驚いてはなあない。風は思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)

先日関西から一通の手紙をいただきました。毎日祈っている兄弟からでした。昨年からうつになり、会社に出勤出来なくなっていました。3月に認知症が出始めたお母さんを介護していたお父さんが発病し、両親と彼の3人が同じ病院に入院することになりました。そしてお父さんが病院で亡くなってしまったのです、悲しみの葬儀の時に兄弟たちから、「お父さんの最期、毎日ずーっと病床につききりで看病してくれて有難う。良い親孝行が出来たね」と感謝されて、彼ははっと気が付いたそうです。

「そうか、そのために神さまは自分を両親と同じ病院に入院させたのか。後5年は生きてくれると思っていた父がこんなに早く死んでしまったけれども、お前に自分の命を与えるぞといってくれたのだ」その瞬間に深い感謝が湧き上がり、神さま有難うございますと祈ったのです。するとどうでしょう。明るく元気な心が甦ってきたのだそうです。彼はお母さんと退院し、目まぐるしい手続きや事後処理をして、高校の長男をお母さんの家に住まわせ、今は彼が家から通って、介護し始めているそうです。

人間的にいえば、悲惨な状態のダブルパンチを受けたようなどん底で、どうしてこの様な明るい変化を彼はいただけたのでしょうか。教会の祈りの支えが在ったからからでした。彼とその家族は教会につながっていたからです。マンションの家賃が払えず、安い公営住宅を申し込んでいたら、当りました。すると教会の皆さんが、引越しを助けて下さったそうです。神さまは教会員を通して、彼と彼の家族に、不思議な風、霊の風を送って下さったのでした。そして彼は祈りを取り戻したのです。

[結] 心に祈りの祭壇を
私たちの多くは、危機に直面した時に、自分ひとりの知恵と力で何とか処理しようと全力を注ぎます。或いは他人の助けを当てにして、何とか切り抜けようといたします。そしてどうしようもなくなると、絶望して自滅していきます。

しかし、ヒゼキアは絶体絶命の窮地に立たされた時に、自分の不信仰を悔い改めて、神殿に祈りに行きました。イザヤに祈りの助けを求めました。イザヤの存在がヒゼキアに、祈りを取り戻させたのです。エルサレムの都に、その昔ダビデ、ソロモンによって神殿が建てられていて本当によかった。ヒゼキアは神殿に戻ることができたのでした。

「恐れてはならない。今日貴方のために行なう私の救いを、見なさい」神さまは祈る私たちの心にも、同じ言葉を語りかけて下さいます。身近に神殿がある生活、いざという時に大切ですね。私たちにとっては、それが教会ではないでしょうか。

私たちは、心に祈りの祭壇を持たなければなりません。また祈りの友を持たなければなりません。神さまは私たちの思いを超えた不思議な救いの御手を差しのべてくださいます。神さまは昔も今も同じ神さまです。

神さまは、イエスさまを十字架につけてまでして私を救う道を備えて下さいました。神さまは、この私をそれほど愛して下さっているのです。この神さまを信じ、祈りを忘れない者として生きて生きたいものです。  

[聖書]イザヤ書9章1〜6節
闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

[序] 苦難と闇に覆われて
イスラエルの歴史は、紀元前1000年に始まったダビデ王の治世とその子ソロモン王の時代が絶頂でした。ソロモンの死後にイスラエル12部族は、北王国10部族と南王国2部族に分裂します。北はサマリアを都とし、エルサレムは南王国だけの都になりました。やがてイスラエル民族の父祖アブラハムの出身地チグリス、ユウフラテス川に起こったアッシリア帝国が、次第に南に勢力を拡大し始めました。北王国の北に位置するシリヤは北王国と相談して南王国も加えた三国同盟で、アッシリアに対抗しようとしました。ところが南王国は同盟を断りました。そこでシリヤと北王国の連合軍が南王国に攻め込んできたのです。シリア・エフライム戦争(BC734年)です。その時の南王国の様子がイザヤ書7章に記されています。

王も民も森の木々が風に揺れ動くように動揺しました。そしてアッシリアに助けを求めました。イザヤは反対しました。「同盟を結んだとしても、シリヤ、イスラエルの二国はアッシリア王によって滅ぼされる」「だから落着いて、静かに万軍の主なる神さまのみを頼るように」そして「もしもアッシリアに助けを求めたら、南王国も支配されるようになる」とアハズ王に進言しました。その時イザヤが示した神の救いのしるしが、有名な「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)でした。しかしアハズ王はイザヤの語る神さまの言葉に聞き従いませんでした。

歴史はイザヤの預言通りに進みました。先ずシリヤが滅ぼされ(BC732 年 )、北王国も領土の多くをアッシリアの属領にされてしまいました。やがては北王国も滅ぼされるのです(BC722年)。更にその先には、南王国の滅亡・バビロンへの捕囚という悲劇も控えているのです。まさに8章22節に述べられている「地を見渡せば、苦難と闇、暗黒と苦悩、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」と言われる状況になりつつありました。その時、イザヤに再び神さまからの預言が与えられました。それが今日の9章の言葉です。

[1] 平和の到来
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。」
「地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」これらの事は、未だ現実にはなってはいません。将来の事です。しかし完了形の動詞で語られています。イザヤの確信を表しています。

小さな南王国はシリヤと北王国の連合軍の武力でさえも震え上がりました。今度は遥かに遥かに強力なアッシリアの武力に直面しているのです。ところがイザヤは、この大部隊の兵隊たちの踏み鳴らす靴も血にまみれた軍服も、ことごとく火に投げ込まれて、焼き尽くされてしまう日の到来を見ていたのでした。軍服を着た兵隊が一人もいなくなるのです。

イザヤは既に2章で「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」という預言を語っています。剣や槍という武器が鋤や鎌という農具に変えられ、武器を使って殺し合っていた兵隊たちが、皆農夫になり、命を養う食糧の生産に励むようになるというのです。何と言う変り方でしょうか。兵隊が一人もいなくなる――これこそ本当に平和な国ではないでしょうか。

人々は国王のいない国など頭に浮かびません。国といえば王が治めるものと思っていました。良い王さまが治める国が良い国だとしますと、あのダビデ王のような王がもう一度欲しいと思いました。イザヤは素晴らしい王の誕生を預言しました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」国を本当に平和な国にしていく王とは、どのような王なのでしょうか。

「その名は、驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君と唱えられる。」まさに神さまご自身が王となってこの小さな国を治めてくださり、本当に平和な国にして下さるというのです。ここで「驚くべき指導者」という言葉に注目したいと思います。

指導者と訳された語は助言者とも訳せる語です。そこで新改訳では「不思議な助言者」と訳しています。私はこの訳の方がよいのではないかと思います。絶対的な叡智と権威と指導力で国を治める王もいるでしょう。でもそれでは、民はただ従うだけでよいのです。自立しません。神さまのご支配もとかくそのように考えられがちです。

ところが助言者とは、相手の主体性を尊重して、本人が良いリーダーに成長していくように脇から支える役割です。力あり永遠に父である神さまが、助言者としてのリーダーシップをもって国を治め、国民が総力をあげて本当に平和な国を一緒に作り上げていくようにしてくださる。その時に平和は絶えることがないという世界が実現するというのです。これは神さまの支配についての驚くべき預言ではないでしょうか。

[2] 助言者イエス・キリスト
私たちは、イエス・キリストを世界の救い主と信じています。このお方の誕生に当っては、天使が「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)とイザヤが語った預言の成就だと、父親になるヨセフに教えています。また天使は、野宿していた羊飼いたちにも、救い主のしるしは「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」と教えました。(ルカ2:12)イザヤの預言「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」の「みどりご」が「飼い葉桶の中の乳飲み子」だというわけでした。

兵隊を一人も必要としない本当に平和な国を作るために来られる王が、飼い葉桶の中に眠る乳飲み子の姿でこの世に現れるとは、私たち人間の思いを超えた出来事です。そうです。ナザレのイエスと言われるこのお方は、力ある神、永遠の父、平和の君でありながら、まさに驚くべき助言者でした。

良いサマリヤ人の話を思い起こしてみましょう。このお方は、真面目な律法の専門家の質問に対して、祭司、レビ人と良いサマリヤ人の話をなさいました。そして「さてあなたは、この3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と質問しておられます。「その人を助けて人です」「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:25〜37)

また徴税人ザアカイの救いを思い浮かべてみましょう。ナザレのイエスは、エリコの町で嫌われ者の金持ちザアカイに「ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけて、誰も寄りつかない彼の家に泊まりました。ザアカイは嬉しさの余りに立ち上がって言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。まただれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」「今日、救いがこの家を訪れた」 (ルカ19:1〜10)

一人ひとりに対してイエス・キリストは、一貫して、応答を各自の決断に委ねる態度で接しておられます。まさに優れた助言者そのものではないでしょうか。そしてご自分は自ら決断して十字架の道を進み、「父よ、彼らをお赦しください」と祈りつつ全ての人の罪を一切ご自分が引き受けて、贖いの死を遂げて下さいました。そしてご自分を救い主と信じる者を、聖霊を注いで、愛して仕えていくことによって平和を実現していく者に変えて下さるご支配を確立なさったのでした。

そうです。本当の平和は、血にまみれた軍服を着た兵隊たちによって生まれるものでは、決してないのです。でもそのような理想論は現実の世界では通用しないと誰しもが思います。イザヤが40年にわたって、国王や人々に預言し続けましたが聞き入れられませんでした。そして最後には王に憎まれて、殉教の死を遂げなければなりませんでした。しかしイザヤは今日の預言の終わりにこう語っています。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」何と言う力強いことばでしょうか。

[結] 犠牲的苦難を必要とする暗闇 
アメリカ合衆国では、建国以来233年たった今年1月に、アフリカ系黒人のオバマ氏が第44代大統領に就任しました。1776年の独立宣言では「すべての人間は平等に造られている」とうたわれています。しかし奴隷解放宣言をしたリンカーン大統領は1865年に暗殺されました。差別の撤廃を目指す公民権法を提出しようとしたケネディ大統領も1963年に暗殺されました。非暴力の抗議活動でこの公民権運動の先頭に立ったキング牧師も1968年に暗殺されました。そしてアメリカは、やっとオバマ大統領誕生にこぎつけたのです。

キング牧師は正義をもって愛を実現していく道筋で不当に受ける犠牲的苦難を、他者の救いのためには必要な苦難なのだという信仰を、キリストの十字架の死から受け取って運動の原点に据えました。1963年にワシントン行進の終わりに、25万人の人々に彼はこう語りかけました。「私は夢を持っている。いつの日かこの国は立ち上がり、『すべての人は平等に造られている』という信条を生き抜くだろうという夢をである。 私は夢を持っている。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫と奴隷主の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座れるようになるであろうという夢をである。」

その翌年に彼はノーベル平和賞を受けましたが、4年後に暗殺されました。彼はその死を覚悟していたようです。そしてその40年後にアメリカの国民はアフリカ系黒人を大統領に選出したのでした。私たち人間の罪深さの暗黒は、人種差別一つを取り上げても、このように多くの犠牲的苦難を必要とする根深さをもっているのです。

しかし「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」とイザヤを通して語りかけられた神さまの言葉は、イエス・キリストの十字架という 具体的な姿で示されて、信じる者たちの勇気と希望の源泉になり、今日も光輝いてい私たちを励ましています。

血にまみれた軍服をきた兵隊を一人も必要としない本当に平和な世界を神さまは約束しておられるのです。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」私たちはどんなことがあっても剣や槍を取らない決意を貫いて参りましょう。全ての者が鋤と鎌をもつ農夫になって、互いの命を大切に養い育てる働きに汗を流す者になりましょう。

私たちは大いなる光をみているのです。


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