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[ 2009/3/5 ] 標高およそ5,000mのセロ・リコ銀山が支える町、ポトシ。 この町自体標高4,000mほどのところに位置し、そのせいか何となく空が近い気がします。 コロニアルな建物に手を加えて営業しているホテルから見える青空はとっても気持ちが良いの ですが…ホテルに問題あり。まず中庭に面した部屋のドアがうまく噛み合わない。力いっぱい 閉めないと閉まらないし、開けるときも力ずく、そしたらノブが取れました。まるでギャグ。 スタッフに言うと「あぁ…大丈夫、安全だから。」一体どこにそんな保証がおありで? 共同トイレ…鍵がない。おちおち入っていられません。チラシに堂々と書いてある“WIFI”も嘘。 「あの角曲がった所にネット屋さんあるから。」なに〜 (-_-; まったくもってひどい対応!! そんな思いをしたポトシではありますが、さすがはボリビア経済を支えている銀山を持つ都市。 その富がもたらせた町並み・建築物は素晴らしく、狭い石畳の道を歩くとあちこちに目を見張る ような立派な教会・修道院があるのです。コロニアル建築を今もそのまま利用しているホテルや レストラン・商店も多く、どこから写真を撮っても絵になります。写真の腕は関係ありません^^; 坂道を「ヨッコラセー」と上ってきたのは・・・幼稚園バス(^o^) ボリビアは日本の中古車率がダントツ1位でした。それも、企業名や学校名が入った、そのまま。 『○○幼稚園、○○工業株式会社、○○スイミングスクール、○○高校○○部保護者会』等々。 一番驚いたのは観光案内所。入りづらいくらい立派です(写真右下)。入場料を取られそうな雰囲気。 中心広場の向こうにも富の丘・セロリコが見えます。まさに銀山と共にある町。 ちなみに女性が鉱山内に入るのはあまり良くないという言い伝えがあるようです。 こちらは私が一番見てみたかった貨幣博物館。南米の都市には貨幣博物館がわりと多いので、
珍しいわけではありません。ただ、ここの中庭にある意味深な笑みを浮かべる女王様にお会い したかったのです。この日もやや不気味な笑みでいらっしゃいました。よく見ると、頭にはブドウ の冠?近くの人に聞くと『ワインの神様みたいなもんだよ』と言われました。お金とワイン… 結びつかないけど、富の象徴でしょうか?ちなみに博物館の建物は20年以上の歳月をかけて 完成したもので、メキシコやペルーの造幣局を手がけた方と同じ方が設計したそうです。 坂道を下っていくと、銀山 セロ・リコが良く見える場所に。先住民のおばちゃん溶け込んでます。 高地の都市が多いボリビアの中でも 最も標高が高いポトシ、ここから見える空は本当にキレイ。 |
2009-BOLIVIA-
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[ 2009/3/3-4 ] 「首都へようこそ」 マタラールから驚きのバスに揺られること約10時間、ボリビア憲法上の首都スクレに到着です。 ボリビア=首都ラ・パス(事実上)ですが、バスターミナルに大きく「首都へようこそ」なんて書かれ ているのだから、やっぱりスクレの人たちは「こっちがホンモノ!」と思っているのかも知れません。 ちなみに驚きのバスについてですが… 途中乗車となるのでまずは席があるかチェック、「大丈夫だ」と車掌さん。夜行ではしっかり 寝たいので大事なことです。で、消灯されたバスに乗り込むと「あれ?床に荷物かな?」よく 見れば人が寝ています。なんてこと!通路に毛布をかけた人がゴロンと寝ているのです。唖然。 そんな状況なので席はもちろん無く、車掌さんが他の人を立たせて「ここ、ここね」と。恐らく 外国人だから他の乗客より高い料金を取って、その代わり席を無理やり確保してくれるので しょう。でもこっちは、後から乗ってきて他の人の席を奪っているような状況…肩身狭いです。 ボリビア建国の1826年から1890年までのわずかな間スクレは首都として機能していました。 現在は最高裁判所があるくらい。でもこの町、とっても美しいんです!『白い街』の名にふさわしく コロニアル様式の町並みに、白い壁の建物が溶け込んでいます。だからスクレの町は明るい印象。 左下の写真は大学、右下の写真は銀行です。思わず足を止めてしまうような建物があちこちに。 『白い街』はユネスコの世界遺産に登録されており、その景観保護には熱心のよう。
歴史地区では建物の壁を白く塗ることが義務付けられているそうです。 南米大陸独立の父であり英雄 シモン・ボリーバルから名前をとった国、ボリビア。 初代大統領 ホセ・デ・スクレから名前をとった町、スクレ。 そんな由来を持つこの国の憲法上の首都では、美しい白壁の町歩きが楽しめます。 |
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[ 2009/3/2 ] シャレたレストランもなければスーパーもない。 でもこの町には人の心があるから、もっと居たい。そんなバジェグランデともお別れ。 ちょっと、後ろ髪を引かれるような思い。そういえば、バジェグランデの町では あちこちで壁に貼られたチェを目にしました。銀行、市場内の食堂、ホテル… 遠くに見える山にのっかっている白い雲と青空がすてきな、お別れの日。 サンタ・クルス行きのバスは割と多いのですが、次の目的地はスクレ。分岐点となる町で乗換えが 必要らしいのですが、ここはボリビアの田舎町。いつバスが来るかなんて全く分かりません。 バジェグランデからぎゅうぎゅうのバスに立ち乗りすること1時間半、51キロ地点の 分岐点であるマタラールで下車。ただ幹線道路と交差するだけの道路上で途方にくれ… ここでスクレ行きのバスが通るのを待ち、来たら手を振って乗せてもらうというもの。 本当に通るのかなぁ?人影少ないマタラールの町で聞き込み調査、すると、どうやらバスは 全て夜行のよう。まだ午後2時30分。時間を潰すような場所は、まったく無い町。 とりあえずどんなところなのか、ふら〜っと歩いてみます。町歩きは10分で十分。 飲み物を買った食堂の軒先で一休み。時々、牛や豚を載せたトラックがやって来てはここで 食事をし、声をかけてくれ、去っていきます。行き来する人・車を、ひたすらウォッチング。 結局この食堂で夜まで待たせてもらい、夕食もお願いしました。よくあるチキンの定食、 でもとっても美味しかった。食堂の優しいご夫婦の愛情が入っているのかな? 娘さんはとても愛嬌ある子でした。 夜8時30分。辺りはすっかり真っ暗。暗闇の向こうからやってきたバスには『SUCRE』の文字。
ボリビア憲法上の首都です。これでやっと、やっとマタラールから脱出!6時間待ちでした。 長かった6時間、でも今思い返すと、不思議と思い出深いマタラールでの6時間。 さようならマタラール、スクレへ出発します。 |
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[ 2009/3/1-2 ] バジェグランデに着いて3日、ゲバラ最期の地に立ちたいと思い続けて来た場所。 それなのに、気付けばボリビアの田舎の雰囲気、口数は少ないけどあったかい人々、一時の 滞在者に様々なことを教えてくれるこの町の人々にすっかり心をつかまれてしまいました。 だからきっと、何もないようなこの田舎町に3泊してもまだ足りない気がしたのです。 町の中心から程近い『セニョール・デ・マルタ病院』。イゲラ村で絶命したゲバラの遺体は、 「ゲバラが死んだ」とボリビア、そして世界中に知らしめるため、ここの洗濯場で2日間に わたり公開されました。世界中の訪問者からのゲバラへ送られるメッセージが、洗濯台から 壁まで埋め尽くしています。 町の中心に位置するゲバラの博物館。1階はこの地域の郷土博物館のようになっており、 2階がゲバラに関する博物館です。正直、ここはかなり衝撃的でした。今まで私が見て きたのはゲバラの生い立ちやある種、栄光といった部分。そしてこの博物館で見ることが できるのは、一人の革命家が絶命したときと遺体が発掘されたときの写真。 博物館を後にして向かったのはバジェグランデ旧軍用飛行場。現在は近隣地域の病人を バジェグランデの病院に素早く搬送するための輸送手段として役立っています。 飛行場の敷地にある数々の溝や穴、これらはチェの遺体を捜すために掘られた跡だそう。 今なお残るその跡に生々しささえ覚えます。 ゲバラと仲間のゲリラ兵たちが秘密裏に埋められていた場所は、今では立派な建物が建ちます。 ここに入るには町でたった一人の管理人にお金を払って鍵を開けてもらわねばなりません。 それを聞いたときには「ゲバラのことで金儲けして!田舎町に不釣合いな立派な建物まで 建てて世界中の訪問者から見学料を取ってる」なんて思っていました。でもせっかくここ まで来たのなら、意地張って見学しないで帰るのも…と、結局彼にお願いしたのです。 彼の名前はゴンサロ・フローレス、はじめはお互い得体の知れぬ相手にちょっと警戒。 私の、彼に対する印象も良くない。町の中心地から遺体が埋められていた場所までは 徒歩30分ほど。少しずつ話しながら・・・・・でも、出会いって分からないものです。 ゲバラのことで金儲けをしていると思ったゴンサロが、私が何か質問すると常にそれ 以上のことを教えてくれ、気付けば彼の話を聞き漏らすまいとしていました(^_^) 1997年にゲバラの遺体が発掘されるまで、キューバ・アルゼンチンのチームが機械、時には 手で掘って遺体を捜したこと、発見されたときには1日で60機もの飛行機が各国から飛んで きたこと、それはそれは町中騒がしかったのを当時20歳のゴンサロも覚えていることなど。 建物の中に入ると遺体が発見・発掘された場所と、それを取り囲むようにしてチェの 写真が飾られています。ゴンサロはその多数の写真も、一枚一枚説明してくれました。 遺体が発見された側の通りは『チェ・ゲバラ通り』という名前が付けられています。 が、ここの人々に通りの名前は必要ないようです。 全てのゲリラ兵の遺体がゲバラと同じく97年に発見されたのではなく、97年から99年の 2年間にわたり発掘されました。女性兵士として有名なタニアは99年の発見。今から丁度 10年前です。静かなこの地でずっと眠り続けていました。周りが騒ぎ立てる以上に穏やかに。 現在飛行場で働く方とも話す機会があったのですが、時に足を止めて熱弁するほど 様々なことを語ってくれました。とても貴重な時間でした。 ―チェや他のメンバーの遺体がここで発見されてから
滑走路の方向も変えなくてはならなくなったこと。
―チェの命日は毎年たくさんの人々が世界中からやってきて、
時にはヒッピーのような若者がバカ騒ぎしていくこと。
そして、「ボリビアは南米の中でも貧しい国、世界中から援助があるのに政府が全てポケットに入れてしまってこんな山の中まで届くことはない」と。そういう不平等を、 弱いものを放っておけなかったのがまた、チェ・ゲバラという人物でもありました。 この町の人々と言葉を交わすほどに、彼らの心の中を垣間見ることができたような気がします。
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[ 2009/3/1 ] 念願の地・バジェグランデのホテルでイゲラ村へ行きたいことを伝えると、ホテルが提携 しているタクシーのチャーターをすすめてくれました。何しろイゲラ村までは交通機関が 何もないので、どこかで誰かと交渉しなければいけません。 「知ってるタクシーだから 安全よ」とお母さん、これでチェが最期の時を迎えた地、ラ・イゲラへ行くことが出来ます。 朝7時半、肌寒いバジェグランデの町を出発。 道はどこまでも未舗装、途中濃い霧に包まれながらイゲラを目指します。 分かれ道では『RUTA DEL CHE』の案内があります。景色の良い山道を行きながら、少し興奮気味。 バジェグランデを出てからおよそ2時間半。「ここですか?」村というより山の中の小さな小さな集落。 ただ、ゲバラの像が、この地がイゲラだということを教えてくれます。 1967年10月8日、ボリビア・アンデス山中のチューロ渓谷で捕らえられたゲバラと 他のゲリラ部隊は8キロほど離れたイゲラ村まで歩いて連れて行かれました。そして翌9日、 ボリビア政府軍により射殺。ゲバラにとって、きっと長かったであろうイゲラでの1日。 商店を営むおばあさんに聞くと、現在イゲラには20家族が暮らしているそう。 このすぐそばでゲリラ戦をしていたなんて、とても想像できない長閑な村。 訪問者は世界中からやってくるけど、特に多いのはアルゼンチンやイタリアだそうで、ゲバラが ここで殺された10月、バジェグランデで遺体が発見された7月は ひと月で数百人から千人近く 訪れるのだとか。今もゲバラの強い信念に導かれるように、人々は世界中から、この忘れ去られた ようなボリビア山中の村にやってくるのです。 私もそのひとりなのですが…。 ゲバラと仲間のウィリーが連行された村の小学校。ここが、ゲバラとウィリー最期の場所となりました。 現在、小さな建物は博物館になっています。連行されたときのチェの写真やゲリラ戦のルート、 世界中の訪問者のメッセージなどが部屋を埋め尽くしています。鳥の声しか聞こえないくらい 静かで、妙に落ち着く場所。ここで何を考えていたのかと思いながら ― 。 以前、イゲラかバジェグランデの人の話を何かで読んだことがありました。 確かこんな話・・・「ゲバラのおかげで村に観光収入が入るようになったのは感謝している。 でもここは革命なんて必要ない場所なんだ。」 勿論ゲリラ部隊がその時ここを拠点にしていただけで、この地だけをどうこうしようとしていた 訳ではありませんが、そういう村人の意見があること、ここにいると分かるような気がします。 ここから見える景色は本当に美しくて、人々は穏やかに暮らしている ― 。 村の商店で。おばあさんが当時のことなど話してくれました。彼女もバジェグランデでチェの
遺体が公開されたとき見に行ったそうです。手づくりのポシェットを買わないかと勧めてきま したが、商売っ気はありません。 ラ・イゲラ。ひとりの革命家の命が尽きた場所、でもそうは考え難いほど、静かで落ち着いた場所。 |



