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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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大和郡山城跡再訪

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昼過ぎに大和郡山のアピタで買い物をした帰りに、大和郡山城跡の近くを通ったので、再訪してみました。
今日は、復元された追手門をクルマで通り抜け、中にある大和郡山市の市民会館(旧県立図書館)?の前にクルマを停めることができました。
前回、あまり見なかった城跡北側・西側を中心に周ってみました。
北側の外堀は、殆ど石垣がなく土塁造りのようにも思えますが、それにしては堀幅が広く、かつ深かったです。もともとは石垣作りであったのかも知れません。
さらに城跡の西側へ周る散策路を歩くと、南側に内堀があって、その向こうに本丸跡と天守台が見えました。以前、天守台に登ったときは、それほど大きいとは感じませんでしたが、ちょっと離れてみると結構な大きさでした。天守閣が上がっていれば、それは松本城天守閣ぐらいの大きさがあったのかも知れないと思いました。
内堀もよくみれば、結構深くて、やはり豊臣秀長の居城であったことがしのばれました。
先に紹介した藤堂高虎が秀長の家臣だったことを考えれば、築城に際し、相当関与していたかとも思えます。

追加で、郡山高校前?から撮った写真追加しました。(11月30日)

松阪牛『肉みそ』

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伊勢縦断日帰りの旅からの帰路、安濃SAに立ち寄ったとき、売店で売っていたのでついつい買ってしまいました。
食べてみると、ちょっと甘いですが、ご飯のアテには最高でした。
これなら、ご飯と『肉みそ』だけで相当ご飯が食べれそうです。

伊勢神宮(内宮)

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今回の最後の訪問地として、山田奉行所跡の次に訪問したのが伊勢神宮(内宮)です。
前回、田丸城跡と松阪城跡を訪問したときは、時間がなくて、手前のおかげ横丁・おはらい町で伊勢うどんと赤福を買って已む無く引き上げたのですが、今回は伊勢神宮・内宮正宮まで行き、参拝してまいりました。
宇治川にかかる宇治橋を渡り、案内にしたがって正宮を目指しました。
途中に神楽殿があり、お札やお守りが売ってたので、交通安全御守(¥1,000)を買いました。
正宮に入り、10円を賽銭箱にいれ、参拝しました。
特にお願いというのはなかったのですが、とりあえず良縁?と交通安全を祈願しました。
正宮内で守衛している皇宮警察?の衛士が、長身で制服が決っていてカッコよかったです。ああいうところなので、見栄えもいい方を選んでいるのかも知れません。
帰りにおはらい町で、伊勢うどんと赤福を買い、伊勢神宮を後に帰路につきました。

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山田奉行所跡

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津城跡訪問してから、国道沿いに伊勢市へ向け南下し、伊勢市街の手前にある宮川を越え、農道を海沿いに少しばかり走ったところにある山田奉行所跡へ行きました。
とりあえず、住所と地図を見ていったのですが、わかりにくいところで奉行所跡は、集落の一部になっていて、路地裏に『山田奉行所跡』の碑が立ってました。
集落の端っこにある墓地の隣の駐車場に車を停め、山田奉行所の一部を再現した『山田奉行所記念館』を訪れてみました。
『山田奉行所記念館』は、田んぼの真ん中にあり、遠くからみると庄屋さんの屋敷のようにも見えました。
記念館そのものは、最近作られたもので結構新しかったです。
中には、奉行所が管理していた御座船の模型や奉行所全体の模型・図面が展示されてありました。
部屋も書院・御白州が復元されていました。
大岡越前も、この御白州で名裁きを行ったのだと思います。
写真は山田奉行所跡の碑・奉行所玄関・書院・御白州からみた奉行の座る座敷です。

藤堂高虎

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津城跡の本丸に藤堂高虎銅像があったので撮影しました。
ところで、藤堂高虎についてはあまり知らなかったので、フリー百科事典のウィキペディアで調べてみました。

藤堂高虎の生涯
近江国犬上郡藤堂村に生まれる。先祖代々領主であったが戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民となっていた。はじめ近江を治める浅井長政に仕え、1570年、姉川の戦いで名も無き足軽兵として初陣。数々の首級を挙げて、長政から感状を受ける。その後次第に頭角をあらわし長政からも一目置かれる存在となる。1572年(元亀3)に浅井氏家臣の阿閉貞征の家臣に、翌年の浅井家の滅亡後は、同じく浅井氏の家臣だった高島郡を支配する磯野員昌の家臣となる。その後織田信長の甥にあたる津田信澄を経て、1576年(天正4)に羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えて、中国攻め賤ケ岳の戦いや九州征伐・四国征伐に従軍した。秀長の死後はその養子羽柴秀保に仕え、文禄の役に出征するが、秀保が若くして死去したために、一時高野山に出家したがまもなく秀吉に仕え、慶長の役では、元均率いる朝鮮水軍を殲滅している。豊臣政権では伊予板島に8万石を与えられた。この間秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して急速に家康に接近した。

1598年8月、秀吉没後の対立にあっては予定通り家康方につき、活躍する。1600年(慶長5)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ケ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦う。その功により戦後、伊予今治に20万石を与えられる。江戸城改築などにも功があり、最終的には伊賀・伊勢津藩32万石に加増される。家康の信頼はとりわけ厚く、外様大名にありながら側近として遇された。1615年(慶長20)の大坂の陣においては徳川方として参陣し、八尾の戦いで長宗我部盛親隊と戦い、これに辛勝している。
また1620年(元和6)、徳川家康の孫である和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。
 高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。1630年に死去、享年74。後を子の藤堂高次が継いだ。

実力主義の藤堂高虎
 高虎は、いわゆる実力主義者であった。取り立てて血筋がよかったわけでもない。にも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。津田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、秀長のもとで仕えたと言われている。
秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら、いち早く徳川家康に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。確かに忠義を重んじる武士の士風においては決して賞賛されるべきことではない。だが高虎は、史書でこう言っている。「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」と。それに高虎自身にも豊臣氏に含むところがあった。高虎は秀長には本気で仕えていた。四国征伐の時には秀長に従って多大な功績を立てている。しかし秀長が死去し、その後を継いだ豊臣秀保が豊臣秀次の弟であったことから1595年に連座で死去(原因不明の死)したことである。このとき、秀保の家老であった高虎にも連座が及ぼうとした。だから高虎が豊臣氏を見限ってもやむを得ない理由もあるのだ。

家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大阪夏の陣で、藤堂藩がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。臨終の席では外様では高虎のみ枕元に侍ることを許された。

但し、幕末の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍劣勢と察し、真っ先に官軍に寝返って、幕府側に砲撃を開始したのは藤堂家であった

それにしても、これまで訪問した城郭には藤堂高虎が関与しているものが多いこともわかりました。
丹波篠山城・丹波亀山城・津城・伊賀上野城・大阪城・二条城・大和郡山城?などが見学に行ったもので、高虎が関与しているものです。
見学に行ってないものでは、宇和島城とか今治城とかでしょうか。

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