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出町柳で京阪電車 快速特急『洛楽』から降りて、ここからは徒歩で京都市営地下鉄の北大路駅を目指します。
まずは鴨川を渡り、
商店街を抜け、
たどり着いたのは住宅地。なにやらよくわからないところなので、一旦北西方向?へ歩いてみました。
しばらく歩いてたどり着いたのが、
本山 本満寺
応永17年(1410年)創立の日蓮宗の寺。開山の玉洞院日秀上人は、近衛関白左大臣道嗣の嫡子で、本圀寺五世・日伝上人について出家された人である。本山本満寺は、祈祷祈願、諸願満足の寺で、山中鹿之介の墓があることでも知られる。天文年間(1532〜1555年)に現在の地に移り、後奈良天皇により勅願所となった。江戸時代には、日鳳が8代将軍吉宗の病気平癒を祈って効があったことから、以来、将軍家の祈願所にもなった。築地塀に囲まれた境内には、諸堂が並び壮観。ソメイヨシノは地域の誇りの木として親しまれている。
どういう謂れがあってか知りませんが、戦国大名尼子氏の忠臣として知られた山中鹿之介の墓があります。
今回は時間がなく、通り過ぎただけでしたが、また来る機会があれば、どんなモノかじっくりと確認したいと思いました。
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史跡・寺社仏閣
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詳細
奈良県外の史跡・寺社仏閣の記事です。
コメント(2)
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松代を後にして、本来ならばとある最高地点を目指すはずだったのですが、松代のすぐ近くにどうしても外せない場所があったので、まずそちらへ立ち寄る事にしました。
長野市八幡原史跡公園、いわゆる川中島古戦場です。
これまで信州に来てもなかなか訪問する機会がなかったのですが、やっと訪問することができました。
武田信玄に斬りかかる上杉謙信
斬りかかる上杉謙信の太刀を軍配で受け止める武田信玄
小説や大河ドラマでもお馴染みのシーンが銅像化されています。
果たしてこんな事があったのかどうかはわかりませんが、このシーンがあったとされる第4次川中島合戦は、かなり激戦となり、武田側は実弟典厩信繁・山本勘助ら有力家臣を失い、また双方とも多大な死傷者を出したとの事。
それでいて、この合戦の経過は謎だらけというのです。
またこの合戦の影響で、武田・上杉双方は地域の有力大名の地位に甘んじなければならず、天下取りには参加する事を不可能にしたのは間違いないでしょう。
公園内には博物館とかあるようでしたが、時間がなかったので、銅像だけみて撤収。
いよいよ、久しぶりのあの場所へ向かう事にしました。
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松代城跡・松代駅・真田宝物館を経て、たどり着いたのが真田邸です。
九代藩主・幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。
江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務づけられていましたが、1862(文久2)年、十四代将軍・徳川家茂の時代に行われた文久の改革による参勤交代制度の緩和にともない、妻子の帰国が許可されたことから、松代にも屋敷が必要になりました。のちに、隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。1966(昭和41)年、十二代当主・幸治氏により代々の家宝とともに当時の松代町に譲渡されました。
主屋、表門、土蔵7棟、庭園が江戸末期の御殿建築の様式をよく伝え、建築史の視点からも貴重な建物であり、松代城と一体のものとして国の史跡に指定されています。座観式の庭園の四季の風情も見どころです。
真田宝物館HPより
幕末に建築された御殿です。
玄関です。六文銭の垂幕がかかっています。
玄関を上がり中に入るといろんな部屋があります。
書院のようです。ここで執務をすることもあったのでしょうか?
雪隠です。
寝所です。
縁側からは見事な日本庭園を望めます。
藩主がこの場で食事をとっていたようです。
広い広い邸内を巡り、次は隣の文武学校へ〜
文武を奨励した松代藩八代藩主・幸貫が水戸の弘道館にならって計画し、九代・幸教の時代に完成した松代藩の藩校です。藩士の子弟が学問と武道を学ぶ場として、1855(安政2)年に開校しました。
教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などが配置されています。
当時の時間割には東洋・西洋の医学、小笠原流礼法、西洋の軍学なども組み込まれており、先進的な教育が行われていました。各地の藩校の多くが幕府の学問所にならって敷地内に孔子廟を設け、儒教を重んじる風習がありましたが、文武学校には設けていないことからも、近代的な学校の先駆けであったことがうかがえます。
建物は、創建時の姿を現在に伝る貴重な遺構で、1953(昭和28)年に国の史跡に指定されています。
武道の稽古や大会に使われている剣術所・槍術所をはじめ、江戸時代の面影をそのままに質実な空気漂う敷地内は、映画や時代劇のロケにもしばしば利用されています。 真田宝物館HPより
幕末に開校したかなり近代的な学校です。
座学を行う場所だけでなく、各種武術を習得するための道場もありました。
ここに机を並べて藩士子弟が学問に明け暮れたのでしょう。
時おり藩主もやって来て講義を受けた事もあるようです。
道場ではいろんな武術の練習が行われていたようです。
たまたまのぞいた槍術所では・・・
居合抜き?の練習をされていました。
松代藩がいろんな事に関して、他藩に先んじて取り組んでいたことが良くわかりました。
これで松代を後にして、今度はある最高地点を目指します。
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長篠城跡を散策したのち、訪問したのは・・・
小高い丘の上に建つ歴史資料館です。
とにかくここの”売り”は火縄銃です。その展示物のほとんどが火縄銃。
いろんな種類がありますが、あまりにも多いので正直言ってうんざりしました。
一丁あったレプリカの火縄銃で遊んでみることに・・・
全く様になっていません(笑)
思ったほどではなかったので、早速古戦場跡へ〜♪
歴史資料館からはクルマで数分のところです。
馬防柵で囲われた陣地内までクルマで入っていける手軽さです。
陣地はちょうど小川を挟んだ谷間の傾斜地に作られています。
馬防柵の外側から見ると、
柵の前は田んぼで、田んぼそのものが堀の役割をしており、ここを騎馬隊が攻めるというのは、かなり不利な展開を強いられると思えます。
また馬防柵内のつくりも
要所要所が塹壕のように掘られ、そのところどころに銃眼を備えるある意味本格的な陣地築城がなされています。
攻める方からは相手が見えにくい、いや見えない構造になっています。
見えないところから銃撃させるので、攻める側には相当不利だったと思われます。
それに足元は田んぼともなれば、その進退には不自由したのは間違いないでしょう。
これでは天下の武田軍も織田徳川連合軍を破ることは不可能なはずです。
しかし、この古戦場、関ヶ原のそれと比べるとちょっとしょぼかったかなと。
せっかく近くに高速道路が開通したのだから、是非ここは積極的攻勢をかけて観光客誘致を進めてほしいと思ったりもしたのでした。
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3月27日【日】、今年度最後の日曜日です。
今日は何とか日曜出勤を回避できたので、先週末に納車されたレヴォーグの実質的な試運転を兼ねて、今話題の大河ドラマ『真田丸』ゆかりの地へドライブに行ってきました。
ドラマでは後半の舞台の一つとなる紀州・九度山です。
関ヶ原後、流人となった真田昌幸・真田信繁親子が隠棲していた地です。
奈良からおおよそ1時間半で到着。町はずれにある道の駅の駐車場にクルマを停め、早速散策です。
まずは道の駅にあるちょっとした展示室。
真田信繁(幸村)の甲冑(レプリカ)が展示されています。
外には・・・
真田仕様の自販機と、何もかも『真田丸』さまさまの様子です。
道の駅を離れ最初に向かったのは、
関ヶ原後に流人として九度山に流されてきた二人と家来たちが住んでいた通称真田庵と呼ばれるお寺です。
当時はもっと質素な建物だったのでしょうが、今は屋根に鯱がある城郭風建築となっています。
次は九度山駅まで行ってみようと歩いていくと、
真田古墳と呼ばれる抜け穴です。本当は古墳の石室ですが、いつしか真田の抜け穴と伝えられるようになったらしいです。
起伏の激しい道を歩き、たどり着いたのは・・・
南海高野線九度山駅です。
立派な駅舎で自動改札機も設置されていますが、無人駅です。
ここで南海のラッピング電車を待ったのですが、結局やって来ず・・・
巡回バスで真田庵まで戻り、そこから少し歩いたところにあった
九度山・真田ミュージアムへ〜
真田三代の経歴紹介と手紙などの資料の展示。そして真田丸の紹介も
とにかく小さな集落の中にコンパクトにいろいろ詰まっていたというのが、九度山でした。
昼過ぎには、九度山を離れ、紀見峠経由で一旦大阪府内へでてから西名阪で帰路についたのでした。
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