史跡・寺社仏閣
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奈良県外の史跡・寺社仏閣の記事です。
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小西行長陣跡・開戦地を後に次に向かったのが、南天満山にある宇喜多秀家陣跡でしたが、
麓へ到着すると、そこからかなり歩かないといけないみたいで、さっきの笹尾山で体力を消耗し、 もう登る気力がなかったので、そこから引き返し、米原方面へ向かう国道21号線方面へ 国道沿いに旧中山道が平行しているのがわかって、そのちょっと先に古代の関所跡である不破関跡があることもわかったので、旧中仙道へ! 少しばかり西へ向いて走ると、そんなものがあるのかと思うような集落の片隅ありました。 今は関所跡が集落になってしまい、どこがどうなっているのかわかりませんでしたが、 Mさん宅?の片隅に『不破関守跡』の石碑が・・・。 民家の中なのに?、勝手に入ってパチリ!! その民家の旧中山道を挟んで向かい側に資料館もあったのですが、誰も入館している様子もなく、 怪しい感じもしたので、入館しないまま、その場を後に最後の訪問地、安土城跡を目指しました。 それにしても、関跡は殆どわからなくなっていたので、残念でした。 |
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今回のメインともいえる笹尾山・石田三成陣跡の次は、またまた要所要所にある案内矢印に従い、 島津義弘陣跡へ向かったはずなのですが、気がつくと通り過ぎてしまっていて、 やむなく矢印の案内にあった小西行長陣跡へ! 到着すると、そこには何故か駐車場があって、大きな石碑が立っています。 よく見ると『関ヶ原古戦場 開戦地』と!! ここで、天下分け目の合戦が始まったのかと思うと、少し感慨深いものが・・・・。 その石碑の奥にまだ何かあるようで、そこには小さな石碑があり、 『小西行長陣跡』の文字が!この奥まったこじんまりしたところが、小西行長陣跡だったのです! 開戦地の石碑と小西行長陣跡の石碑の位置関係から想像すると、合戦の最初は、小西隊が東軍諸将の攻撃を一手に受ける形から始まったのかなと? そんな形で合戦が始まり、西軍は味方の半分程度しか合戦に参加していなかったにも関わらず、 戦局を優勢に進めていたというのは、驚くばかりでした。 しかし、周りを見渡すと笹尾山のように馬防柵などで陣跡を復元しているわけでもなく、 撮影するものもあまりなかったので、次は宇喜多秀家陣跡を目指し、またクルマを走らせたのですが・・・。 記事をアップするにあたって、名前程度しか知らない小西行長についてウィキベディアで調べてみました。 小西 行長(こにし ゆきなが、弘治元年(1555年)? - 慶長5年10月1日(1600年11月6日)) 安土桃山時代の大名。摂津守。キリシタンとして知られた。洗礼名はアウグスティヌス。 なお対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。従五位下。内匠頭、摂津守。 堺の薬を主に扱う商人小西隆佐の息子とされる。当初、宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉に仕えたというが、秀吉に仕えるまでの動向は良くわかっていない。 生家跡と伝えられる場所は堺が繁栄してた時代のメインストリート大小路通りにあり、現在は石碑を残すのみとなっている。 豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いていたようである。 天正15年(1587年)の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後半国24万石を与えられた。 肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。 文禄の役では先鋒部隊として朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。 その後明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者沈維敬らと共謀し、秀吉が明に降伏した事にしたと偽って講和を結ぼうとする。 なおこの時日本側の使者として明の都北京に向かったのが、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛)である。 この結果、明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。 この書を秀吉に報告する段階で行長は適当に書の内容をごまかすよう、書を読み上げる西笑承兌に依頼するものも、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。 このため講和は破綻、この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、死を命じられるが承兌のとりなしによって一命を救われる。 講和交渉における不忠義の埋め合わせとして、慶長の役では加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻することになる。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発すると、石田三成に呼応し西軍の将として参戦するも敗北。 伊吹山中に逃れたものの、竹中重門の手勢に捕らわれ、慶長5年10月1日に六条河原にて斬首。 その後首はさらされた。 なお敗戦後自害せず斬首される事を選んだのは、自殺を禁じたキリスト教の教義に従った為とされている。 行長は商人の子である事などから文治派というイメージがあるが、加藤清正と同等かそれ以上の武断派だった。 |





