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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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書庫史跡・寺社仏閣

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大本営跡

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広島護国神社の正面を通り過ぎて、天守閣の方へ向かうと、本丸御殿跡の片隅にあったのが、今は礎石だけが残る大本営跡です。

広島にある大本営跡ですが、これは太平洋戦争時のものではなく、それよりもさらに50年ほど遡る日清戦争時に設置された大本営の跡なのです。

当時、朝鮮半島の支配権を巡っての老大国である清国との戦争のため、前線に近く、また国内の兵站拠点であった広島に、戦争の総指揮を執るために設置されたのが、この大本営です。
日清戦争当時は、広島まで明治天皇も行幸され、自ら指揮を執られ、臨時帝国議会も開催され、さながら首都が広島へ移ったような状態だったらしいです。

その後、国の史跡とされたのですが、原爆のため一瞬で廃墟と化し、今は礎石他が残るだけの状態になっています。

ところで大本営って、何やねんというと・・・・


大本営

大本営(だいほんえい)とは戦時中・事変中に設置された大日本帝国の最高統帥機関。
1893年5月19日に勅令第52号大本営条例(以下大本営条例)によって法制化され、戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関(陸・海軍を支配下に置く)。同年6月5日に参謀本部内に設置された。
1894年9月15日に日清戦争の拠点を広島にしたことによって天皇が移り、これに伴って大本営も広島に移った。(同時に帝国議会も広島に召集された。)1896年4月1日に大本営解散の詔勅によって解散。
大本営条例は1937年11月18日勅令第658号によって廃止され、新たに「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定された。これは戦時以外に事変でも設置可能にした軍令である。
大本営会議は天皇、参謀総長(陸軍)、軍令部総長・次長・軍令部第1部長・陸軍大臣・海軍大臣によって構成され、内閣総理大臣、外務大臣など文官は含まれない。天皇の命令を大本営命令(大陸命・大海令)として発令する最高司令部としての機能を持つ。大本営は戦果に関する広報も行っていたが、戦況の悪化に伴い日本軍が敗走を続けると真実を伝えなかったり過小発表するなど情報操作を行ったとの批判がある(詳細は大本営発表の項参照)。  大本営の職員は殆どが参謀本部及び軍令部の職員であった。
終戦に伴い1945年9月13日に廃止された。

広島護国神社

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二の丸からいよいよ本丸へ!

土橋を渡り本丸に入ると、そこはクルマを駐車した広島護国神社でした。


広島護国神社は、今は広島城本丸の一角に建っています

元々は、現在広島市民球場のある陸軍西練兵場の一角にありました。しかし、原爆の至近距離での炸裂により跡形もなくなってしまい、戦後約10年ほどは小さな祠を設けて祭事を行っていましたが、広島市街の復興に伴い、移転せざるを得なくなり、1956年に現在の広島城本丸に社殿が造営されました。
その後、1971年の昭和天皇・皇后両陛下の参拝を契機に、参拝者が激増しました。
1993年には平成の大造営により現在の社殿他が竣工、今に至っています。

ところで護国神社ですが、一部の例外を除き全国各地にあり、僕の住む奈良にもあるのですが、護国神社って今話題の”靖国神社”の末社じゃないの?と思っていたのですが、調べてみるとその関係は本社=分社のような関係ではないこと、祀られる対象も多少異なることを知りました。

明治時代に日本各地に設立された招魂社が、1939年(昭和14年)の内務省令によって一斉に改称したものである。
おおむね各府県につき1社を府県社に相当する指定護国神社とし、それ以外を村社に相当する指定外護国神社とした。
敗戦後、護国神社は軍国主義施設と見なされ、存続を図るために名称から「護国神社」の文字を外して地名などを元に改称を余儀なくされた。
平和条約を締結し、日本が独立を回復すると、元の社名に戻した。戦後、いくつかの指定護国神社は神社本庁の別表神社となった。
北海道や岐阜県では3社、兵庫県・広島県・島根県では2社というように、一県内に複数存在するところもあるが、これはかつての「国」や地域意識が強く残っていた地域では同じ県出身者でも違う「国」や地域出身の戦没者を受け入れない例があり、それが尾を引いているからだと言われている(例えば広島県の場合、かつての備後国と安芸国にそれぞれ1社存在する)。
建設中に戦災で焼失した神奈川県(戦後、戦没者慰霊堂が建てられた)や、東京都(戦前より東京都慰霊堂があり、仏式で祭祀が行われる)など、存在しない都県もある。(東京都には別途靖國神社が存在する。)
護国神社の祭神は分祀されたのではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っているため、公式には「靖國神社とは本社分社の関係にはない」とされている。
しかし、共に英霊を祀る靖國神社と護国神社とは深い関わりを持ち交流がある。
主要な護国神社52社で組織する全國護國神社會は靖國神社と連携し、英霊顕彰の為の様々な活動を行っている。
靖國神社も護国神社と同様に、戦死者を英霊として祀る神社であり、やはり招魂社を改称したものであるが、大東亜戦争当時まで日本人とされていた韓国・朝鮮人、台湾人を含め日本全国どこの出身であっても祀られる対象となる点が異なっている。
これまで各地の護国神社を支えてきたのは戦没者の遺族会や戦友会であったが、高齢化とともにその数が激減しており、財政的危機に見舞われるところが増えるのではないかと危惧されている。


また広島の初詣のメッカでもあり、広島カープがシーズン前に必勝祈願をする神社でもあり、広島市民から崇拝を受けているようです。

僕もとりあえず参拝しました。

そしていよいよ天守閣へ向かうのですが・・・・。

歩兵第11連隊営門跡

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呉から約1時間、やっとのことでたどり着いたのが広島城跡です。

城跡の東側にある城門跡につくと、掘っ立て小屋からおっさんがでてきて、『参拝するだったら、1時間ぐらいは駐車してもいいよ』と。
最初は何のことか分からなかったのですが、よくみると広島護国神社が城内にあるらしく、離れた駐車場を探すのもいやだったので、とりあえず参拝することにして城内へ入る許可書をもらい、城内の神社横のPに駐車。

参拝するのが駐車する条件だったから、参拝所で賽銭箱に10円を入れ、参拝。
ホントは何か願うことがあったはずなのですが、その時はこれといったことが何も思い浮かばす、とりあえず、楽しく健康に過ごせたらとの思いを祈念しました。

参拝を終え、まずは最近、広島城跡の写真にある復元太鼓櫓を見たいと思い、クルマで入城した道を歩いて戻り、城跡石碑のところまで行き、内堀沿いに歩いてみました。
すると、当ブログで前述した?(覚えてるかな)広島出身の池田勇人首相の銅像が!!
えっ〜!この人って、広島出身だったんだと初めて知った次第でした・・・(汗)

さらに歩いていくと、ちょっとした森になってるところにあったのが、歩兵第11連隊の営門跡です。

歩兵第11連隊は、広島鎮台の流れを汲む第5師団隷下の連隊で、師団司令部とともに広島にあった連隊です。

第5師団

第5師団(だいごしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。1873年(明治6年)に設置された広島鎮台を母体に1888年(明治21年)編成された。1894年(明治27年)7月の日清戦争では他の師団に先駆けて派遣され京城南方で清国軍と交戦した。この戦闘は僅か1日で決着がつき日本の勝利であったが、これは明治維新以後初めて日本の軍隊が外国軍と交戦したものである。師団はこの後平壌攻略戦・鴨緑江渡河作戦・牛荘の戦いに参加した。北清事変では義和団鎮圧に出動し、8か国連合軍の中核となった。日露戦争では沙河会戦・奉天会戦に参加する。
1911年(明治44年)から2年間、師団は満州に駐屯し1919年(大正8年)にはシベリア出兵に参加する。日中戦争ではチャハル作戦・太原攻略戦・徐州会戦・広東攻略戦に参加し、昭和15年から北部仏印進駐にあたる。太平洋戦争では南方に投入され、マレー作戦・シンガポール攻略の主力となった。

広島は原爆の影響で、戦前の遺構というのはほとんどないのですが、その中でも何故か残った営門が、元々あった位置から、この場所へ移設されたようです。
門柱だけなのですが、戦前の陸軍の末端を垣間見るような感じのする門柱だと感じました。

この辺のことは、常連さんのJFKさんが大連から帰ってきたら、もっと詳しい解説があるのでないかと期待しています(笑)

不破関守跡

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小西行長陣跡・開戦地を後に次に向かったのが、南天満山にある宇喜多秀家陣跡でしたが、
麓へ到着すると、そこからかなり歩かないといけないみたいで、さっきの笹尾山で体力を消耗し、
もう登る気力がなかったので、そこから引き返し、米原方面へ向かう国道21号線方面へ
国道沿いに旧中山道が平行しているのがわかって、そのちょっと先に古代の関所跡である不破関跡があることもわかったので、旧中仙道へ!
少しばかり西へ向いて走ると、そんなものがあるのかと思うような集落の片隅ありました。
今は関所跡が集落になってしまい、どこがどうなっているのかわかりませんでしたが、
Mさん宅?の片隅に『不破関守跡』の石碑が・・・。
民家の中なのに?、勝手に入ってパチリ!!
その民家の旧中山道を挟んで向かい側に資料館もあったのですが、誰も入館している様子もなく、
怪しい感じもしたので、入館しないまま、その場を後に最後の訪問地、安土城跡を目指しました。
それにしても、関跡は殆どわからなくなっていたので、残念でした。

開戦地と小西行長陣跡

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今回のメインともいえる笹尾山・石田三成陣跡の次は、またまた要所要所にある案内矢印に従い、
島津義弘陣跡へ向かったはずなのですが、気がつくと通り過ぎてしまっていて、
やむなく矢印の案内にあった小西行長陣跡へ!

到着すると、そこには何故か駐車場があって、大きな石碑が立っています。
よく見ると『関ヶ原古戦場 開戦地』と!!
ここで、天下分け目の合戦が始まったのかと思うと、少し感慨深いものが・・・・。

その石碑の奥にまだ何かあるようで、そこには小さな石碑があり、
『小西行長陣跡』の文字が!この奥まったこじんまりしたところが、小西行長陣跡だったのです!
開戦地の石碑と小西行長陣跡の石碑の位置関係から想像すると、合戦の最初は、小西隊が東軍諸将の攻撃を一手に受ける形から始まったのかなと?
そんな形で合戦が始まり、西軍は味方の半分程度しか合戦に参加していなかったにも関わらず、
戦局を優勢に進めていたというのは、驚くばかりでした。

しかし、周りを見渡すと笹尾山のように馬防柵などで陣跡を復元しているわけでもなく、
撮影するものもあまりなかったので、次は宇喜多秀家陣跡を目指し、またクルマを走らせたのですが・・・。

記事をアップするにあたって、名前程度しか知らない小西行長についてウィキベディアで調べてみました。

小西 行長(こにし ゆきなが、弘治元年(1555年)? - 慶長5年10月1日(1600年11月6日))

安土桃山時代の大名。摂津守。キリシタンとして知られた。洗礼名はアウグスティヌス。
なお対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。従五位下。内匠頭、摂津守。
堺の薬を主に扱う商人小西隆佐の息子とされる。当初、宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉に仕えたというが、秀吉に仕えるまでの動向は良くわかっていない。
生家跡と伝えられる場所は堺が繁栄してた時代のメインストリート大小路通りにあり、現在は石碑を残すのみとなっている。
豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いていたようである。
天正15年(1587年)の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後半国24万石を与えられた。
肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。
文禄の役では先鋒部隊として朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。
その後明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者沈維敬らと共謀し、秀吉が明に降伏した事にしたと偽って講和を結ぼうとする。
なおこの時日本側の使者として明の都北京に向かったのが、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛)である。
この結果、明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。
この書を秀吉に報告する段階で行長は適当に書の内容をごまかすよう、書を読み上げる西笑承兌に依頼するものも、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。
このため講和は破綻、この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、死を命じられるが承兌のとりなしによって一命を救われる。
講和交渉における不忠義の埋め合わせとして、慶長の役では加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻することになる。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発すると、石田三成に呼応し西軍の将として参戦するも敗北。
伊吹山中に逃れたものの、竹中重門の手勢に捕らわれ、慶長5年10月1日に六条河原にて斬首。
その後首はさらされた。
なお敗戦後自害せず斬首される事を選んだのは、自殺を禁じたキリスト教の教義に従った為とされている。
行長は商人の子である事などから文治派というイメージがあるが、加藤清正と同等かそれ以上の武断派だった。

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