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徳川家康最後陣跡で写真撮影してから、次は家康に対抗した石田三成の陣跡へ。 クルマに乗り、要所要所にある案内矢印を頼りに走っていくと、 田んぼの片隅に『決戦地』の石碑が・・・・。 解説から、その付近が最も激戦になったとの事。 少し遠くを眺めるとちょっとした丘の麓に馬防柵が見えました。 案内矢印によると笹尾山まで400mくらいだったようなので、 そこかなと思い、更にクルマを進めてみると、駐車場があって、 ちょっと奥に丘へ登る入口が!! 行ってみると、そこが笹尾山・石田三成陣跡への入口でした。 早速登ってみるも、半分くらいところで左足があげにくくなり、 この程度の丘で「ここまでか・・・」と諦めかけたのですが、 ここまで来て、陣跡まで登りきらないのも癪に障るので、 余力を振り絞って陣跡まで・・・。 陣跡には展望台と石碑があり、展望台からの眺めは関ヶ原が一望でき、 軍略には疎い方であった石田三成にしては、上々の場所に陣をしいたなあと。 そんな事を思いながら、展望台から眺めていると、どこからとも無く法螺貝の音や 軍馬のけたたましい蹄の音が聞こえてきそうな、そんな感じでした。 やっぱり、この場所は合戦に相応しい場所であったと。 ちょっとした丘でしたが、天気も良かったし清々しかったです。
気持ちもスッキリしたところで、他の武将の陣跡も見てみようと思い、 再びクルマを走らせることにしました。 |
史跡・寺社仏閣
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正門から本丸空堀沿いを通り、その奥にある鬱蒼とした森となっている深井丸へ進むと、 |
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明智光秀の首塚から高台寺に向かう途中、間違って入っていった坂道の上にあったのが、大谷祖廟でした。 |
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この日、最後に訪問したのが、高台寺山門から坂を下り、ねねの道を挟んで向かい側にある圓徳院でした。 パンフの表紙には、高台院の肖像画と「秀吉の妻、北政所ねね終焉の地 京・東山 圓徳院」の文字が・・・。 このパンフの解説を読むと、秀吉没後、大坂城から京へ移り、死ぬまで、 ずっと高台寺に住んでいたと思っていたのですが、 どうもそうでは無く、高台寺のある高台から少し下ったところに、 圓徳院といわれる庵のようなもの、建てて住んでいたようです。 建物は、伏見城から化粧御殿と前庭を移築して住んでいたみたいです。 ここには、いろんな大名、茶人、歌人、画家などいろんな実力者・文化人が訪れ、 他にも、北政所のもとに賢妻と言われた当家先祖?の妻「まつ」、山内一豊の妻「千代」などが訪れ、 昔の思い出話、これからの天下の趨勢などを語りあった場でもあったみたいです。 こじんまりした庵のような感じですが、それがまた趣があって、また、ここで戦国三賢妻たちが、
何を語ったのか気になるところです。 |
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知恩院・青連院門跡・明智光秀の首塚をまわった後に訪れたのが、高台寺でした。 高台寺は、皆さんもご存知のとおり、1598年に豊臣秀吉没後、大坂城を離れた 夫人である北政所(ねね)こと高台院が、1606年にその菩提を弔うため開創したお寺で、 開創当初は、江戸幕府(家康・秀忠)の政治的配慮があり、多大な資金援助?もあり、 壮麗な寺観を誇っていたらしいのですが、度重なる火災により、多くの建物を失い、 今は開山堂・霊屋・傘亭・時雨亭・表門・観月台が残っている程度です。 このお寺、今まで訪問したいと思っていたうちの一つだったのですが、 なかなか訪問する機会に恵まれず、奇しくも何故かこの日曜日に参観することができました。 方丈の前に広がる石庭は龍安寺のそれに勝るとも劣らないもので、 また開山堂を軸して広がる庭園は、小堀遠州の手によるもので、 さすがとうならされるものでした。 特に秋の紅葉のときは、訪問しがいがあると感じるほどモミジが植えられていました。 更に開山堂から臥龍廊をとおり、霊屋へ行くと、そこには豊臣秀吉と高台院の木像が!! 高台院の木像の下には、高台院の遺骨が納められているとか? そんな解説をアルバイト?の女の子がしてました。 場所柄から近くの 京女 の女子大生のようでした。 そんなこんなしているうちにパラパラと雨が降ってきたので、本降りにならないうちにと思い、
高台院を後にしたのでした。 |



