ここから本文です
気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
Yahoo!ブログも本日8月31日をもって実質的に終了となります。これまで弊ブログを御贔屓いただきありがとうございました

書庫史跡・寺社仏閣

奈良県外の史跡・寺社仏閣の記事です。
記事検索
検索
直近の記事と前後しますが、28日(日)の『大関ヶ原展』・ボークス京都さんの帰りに立ち寄ったのが、若一神社(にゃくいちじんじゃ)です。


イメージ 1


この場所、その昔は西八条殿と言われる平清盛公の屋敷があった場所らしいです。

広大な屋敷跡は、ほとんどが市街地化しこの一角だけが神社の境内となって残っているわけです。

イメージ 2


周囲は商業ビルやマンションに囲まれ、日曜日であったこの日は参拝に訪れる人は途切れることはありませんでしたが、ひっそりとしてました。


イメージ 3


井戸水が”御神水”として利用されています。

清盛公の出世とも関わりが深く、開運出世の水としても重宝されているとのことです。


イメージ 4


鳥居の片隅に清盛公の石像があります。

人臣を極めた太政大臣就任の時の様子でしょうか、衣冠束帯姿です。

こじんまりした神社でしたので、あっという間でしたが、京都は、そこかしこに歴史を感じさせるところだなと実感したのでした。


西本願寺へ立ち寄る

所期の目的を達成?して、梅小路蒸気機関車館を出た後は、まず昼食というわけで、五条通に面した場所にある”横綱ラーメン”を目指しました。

勝手の知らないところなので、ネットで場所を確認し、路地裏を歩いていきます。

イメージ 1


途中でこんな町名のところを通り抜けていきます。

その昔、当家の先祖の京屋敷があったのかもしれません。

歩くこと15分くらいでしょうか、やっと到着。

イメージ 2


僕は普通のラーメンにご飯と餃子を付け

イメージ 3


同行してくれたMrs.Xは、野菜がてんこ盛りのラーメンを食べました。


そんなたいそうな分量ではないなと思いつつ食べたのですが、それが結構なボリュームで・・・

このままだと店内で寝てしまいそうだったので、食べたら即店を出て、ボチボチ歩きながら京都駅を目指します。

その途中に何気にあったので立ち寄ったのが・・・


イメージ 4


イメージ 5


地元では”お西さん”と呼ばれている西本願寺(龍谷山 本願寺)です。

境内に入ってみると、本堂でなにやらお寺の案内でもしてくれそうな雰囲気だったので、お寺の職員さんに誘われるまま入ると・・・

”念仏”なる歌を歌い、その後は読経を聴く羽目に・・・

周囲を見ると老若男女問わず、みな数珠を持って拝んでいたりして・・・

どうも信者さん向けの集いに紛れ込んでしまったらしい

タイミングを見計らって慌てて退散〜

再び境内へ出て出口を目指すと、ふと目に入ったのが・・・

イメージ 6


聚楽第の遺構を移築したと伝えられる国宝の”飛雲閣”の上二層を確認。

壁か襖に絵が描かれているようで、遠くから見ても趣が感じられます。

普段は非公開ということでおいそれとは見れないのが残念ですが、今度はもう少し間近で見たいものだと思いつつ、西本願寺を離れたのでした。






高岡大仏

高岡古城公園を後にして、次に向かったのは・・・

イメージ 1



高岡大仏


住宅地と商業地が混在した中を歩くと角地の区画にいきなり現れます。


日本三大仏と称され、広く市民に親しまれている銅造阿弥陀如来坐像は、延享2年(1745)、坂下町の浄土宗極楽寺第15世等誉とうよ上人が大仏建立を誓い、弟子の良観を勧進職として高さ3丈2尺(約10m)の木造金色の仏像を建立したのが始まりです。しかし、文政4年(1821)の大火によって焼けてしまいました。極楽寺第26世譲誉じょうよ上人は再興を祈念して町民に訴え、20年後の天保12年(1841)に1丈6尺(約5m)の木像を再興しました。それから60年後、明治33年(1900)の大火によって再び焼けてしまいました。
定塚町の松木宗左衛門は、今度は再び焼けることのない鋳銅仏にしたいと発願し、市内だけでなく広く各地に勧進しました。景気の不振や宗左衛門の病死などもあって事業はなかなか進みませんでしたが、数多くの人々の寄進と労力奉仕によって昭和8年(1933)についに完成しました。
原型は中野双山。古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色にいたるすべての工程を高岡の工人・職人たちの手で行った記念すべき大作です。
また昭和33年(1958)に円光背が取り付けられました。昭和53〜56年(1978〜1981)と平成19年(2007)に大規模な修理が行われ、現在に至っています。
高岡大仏は極楽寺末寺の大仏寺が管理し、また、コンクリートの台座内は巡回できるようになっており、地獄変・極楽変の絵画が浄土宗の宗教観を伝えています。

高岡市公式HPより



もう少し大きなものかと思っていたのですが、奈良の大仏に比べると相当小ぶりです。

創建以来何度も大火で焼失しているようで、現在の大仏は3代目のようです。

耐火性を持たせるため、銅による鋳造で造られているとのこと。

奈良の大仏も銅で鋳造されていたはずですが、何度も兵火で焼失しているので、果たして銅での鋳造に耐火性があるのか?


近付いてみると、台座の下に入れるようになっていて、

イメージ 2


大仏の頭部が飾られています。Wikipediaによると2代目の頭部だそうです。何故かうまい具合に頭だけが焼け残ったようで・・・

台座下の回廊には天国や地獄の絵がかけてあり、それはそれで不気味。

とりあえず参拝だけして退散。

ここからは歩いて高岡駅に向かったのですが、

イメージ 3



イメージ 4


高岡駅前までの商店街は、日曜日だというのにこんな状態。

あまりにも閑散としています。

地方の商店街は、どうもどこもこんな感じ。

奈良はこれに比べるとまだ賑わっている方だなと。

そして、いよいよこの旅も終わりが近づくのでした。


開くトラックバック(1)

蛤御門

京都駅でのSL展示を見終えて、次に向かったのが京都市内某所ですが、
その途中に通りかかったのが、
 


イメージ 1
 
京都御所 蛤御門
 
蛤御門(はまぐりごもん)は、現在の京都御苑西門の一つ。本来の正式名称は新在家御門であった。門の形状は高麗門型の筋鉄門である。
光格天皇の頃に発生した天明の京都大火で御所が炎上した折に、滅多に開かなかったこの門がこの時だけは開いたというので、「固く閉じていたのが火にあぶられて開いた」=ハマグリのような門、転じて蛤御門という俗称が付いた。結局今日まで正式名称となる。
 
蛤御門の変では会津桑名薩摩連合軍の防衛拠点として位置づけられ、現在でも当時長州藩から撃ち掛けられた弾痕を確認することができる
 
イメージ 2
↑の写真が、蛤御門の変(1864年)の際、長州藩に撃ち掛けられた銃弾の跡です。
 

 
ただこの銃弾の跡、門の内側にあり位置関係を考えると、どうしたら、ここに長州藩側の放った
銃弾が当たるのか、どうも納得しがたいですがね。
 
今回の目的は、この門を見ることでなかったので、そそくさと先へ急いだのでしたが、
それにしても暑い・暑い・ひたすら暑かったです。
 
 
 
奥の院まで続くこの道も、いよいよ終点が近づきます。
 
でもその前に立ちはだかるのは・・・・
 
イメージ 1
 
家康の次男、越前67万石の大大名であった結城秀康の墓所です。
 
同じ程度の石高であった伊達政宗よりもこじんまりしていますが、
建立された場所を考えれば、同じ権中納言の墓所としたら、
格式としては上なのでしょうか。
 
さらに足を進めると、ついに天下人の墓所が・・・・
 
 
イメージ 2
 
 
イメージ 3
 
柵内には、いろんな墓石がありますが、いったいどれが誰のモノなのかハッキリ分かりません。
 
そして、次が最後。
 
イメージ 4
 
織田信長公墓
 
イメージ 5
 
天下人にしては、相応しくないほどこじんまりした墓所です。
 
これなら、安土城二の丸にある墓所の方が大きいです。
 
そして、信長の墓所の横には何故か、
 
イメージ 6
 
筒井順慶の墓所
 
何で
 
何故ここにあるのか、全く不明。
 
そしてそして、やっとたどり着きました。
 
イメージ 7
 
こここそ、奥の院です。
 
ですが、この奥は撮影禁止のため写真はありません。
 
今宵はこれくらいで・・・・
 
まだまだ続きます(笑)
 
 
 

ブログバナー

大納言兼加賀守
大納言兼加賀守
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事