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写真は南禅寺の水路閣です。 明治時代、琵琶湖から湖水を京都市内へ引き入れるためにつくられた 琵琶湖疏水の本流から枝分かれした水路が南禅寺のほうへ流れているのですが、 その一部がレンガ造りのアーチ橋の上を流れています。 禅寺の侘び寂び的な雰囲気と、明治のレトロな雰囲気が上手く融合してる一角だと思えます。 水路閣は、この疏水事業の一環として施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、 水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つ。 毎秒2トンの水が流れています。沿線には社寺が多く点在しているため、建設当時は批判も多く、 環境を壊さないような配慮から、南禅寺境内に当時では画期的な異国風建造物の水路閣を設けたが、 今日ではそれが歴史的な風土に溶け込んだ景観となっています。 |
史跡・寺社仏閣
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奈良県外の史跡・寺社仏閣の記事です。
コメント(8)
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井伊の赤備えの鉄砲隊の演技と彦根城博物館に展示されている 宝物の数々に驚愕した後に訪れたのが、 佐和口多聞櫓の堀をはさんで向かい側にあるこの屋敷は、 元々は井伊家家老の大久保家が所有するもので、江戸後期には 桜田門外の変で暗殺される井伊直弼が、不遇の青年時代を過ごした場所。 中には井伊直弼愛用の品々や、大河ドラマ第1号であった『花の生涯』での ロケ舞台として利用されたときの紹介など展示陳列されていて、 彦根では彼は郷土の英雄なのを実感。 この屋敷で城の方を眺めながら15年もの間、何を考え、何を感じながら、 彼は生きてきたのか、それを思うと厳しい時期を過ごしたのだなと。 でもここで茶道・和歌・能・武術・馬術などなどに励み、 その後の人生の糧にしたのか〜と。 今更ながら思うに、彼が行った開国という判断。 そのタイミングで行うのが適当だったのか? それが原因で殺害されてしまうわけだから。 彼には時流を見る目はあったと思うけど、 それを導く力というものには少し欠けていたのかも? 彼と同じように?不遇の時期を過ごしている今の僕にとっては、
井伊直弼という人物に何となく共感も持てる、そんな気がした。 |
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丸岡城天守閣を見学し終わり、さてどこへ行こうかと案内板を眺めたら、 福井の名所のひとつである東尋坊の近くに、 があるらしい? 今までいろんな史跡を訪問してきましたが、砲台跡というのは初めて。 旧海軍関係の史跡でも戦艦陸奥の砲塔なんか見たことあったのですが・・・。 とりあえず向かってみることに。 丸岡城のPを出発、東尋坊方面へ〜! 途中、北陸線と平行した道を走っていると金沢方面から が大阪方面へ走り抜けていったのでした。 久しぶりにみるイベント列車に感動しながらも、さらに進むと、 奈良よりもずいぶん安い価格を掲げたGSが・・・。 ついついつられて、GSに入って給油。 確かに安い。 最近は安いからと言って感動しないのだけど、今回はほんのチョッと 思ってみたりも・・・。 GS出発後、芦原温泉の端っこをすり抜け、いよいよ海岸沿いにでると、 三叉路を左曲がり数分、やっと到着。 一応丸岡藩砲台跡の立て看板はあるものの、そこは駐車場にトイレがあるだけの殺風景な場所。 こんなところでも、BBQや花火をする人がいるのか、火気厳禁とかの看板が。 どうもこのPとトイレの場所が砲台跡ではないらしい。 でもその片隅に、さらに海沿いに下ったところへ下りていく遊歩道あったので、下ってみると、 所々土塁らしきものがあったりとして、その先端に弓状というか扇状に展開された石塁が。 石塁は一定の間隔で隙間が設けられていて、そこが砲台跡らしい。 調べてみると、そこが幕末に沿岸防備の名目で砲台が設置されたとの事。 しかし、これが役に立ったのかどうかは不明? ここから外国船に砲撃したという記録はないようなので、設置こそされたものの、 利用されることは無かったみたいです。 でも最近の情勢を考えると、今後は近くに対北朝鮮向けのミサイル基地とか設置する必要はあるかも? そんなこんなで、雨も降ってきたので退散。 次の行き先を車中で検討、でもその検討した所へ行ってみると・・・。 |
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杉津PAを出発して、やっとのことで丸岡城の本丸跡へたどりつきました。 そこにあったのが、写真のような石碑です。 一瞬、朝日新聞関係の石碑かと思ったりもしましたが、 石碑の上のほうに帰国記念の文字が! その昔(1960年)に、この一帯であった在日朝鮮人の帰国事業を記念したものらしい。 今となっては、この事業の結果はご存知のとおり。 多くの人達を不幸にしたわけで、今となっては何が記念か〜!と。 でも当時の人達は、今以上に差別を受け、楽園と宣伝されていた 北朝鮮に希望を見出して日本を出たのでしょう。 しかし、それは日本で差別を受けるよりも過酷であったわけで、 それを選択するしないは、その後を考えれば紙一重のものだったのかと。 |
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旧柳原学校校舎の後、安土考古博物館周辺の一角に移築された これが、公開されていると知って、早速足を運んでみました。 建物そのものは、それほど大きなものでもなく、 建坪は15坪くらいでしょうか? 安土考古博物館HPでの解説によると このたび、平成16年1月から実施していました、登録有形文化財旧安土巡査駐在所の保存修理が完成し11月1日から同じく屋外展示の重要文化財旧宮地家住宅や県指定有形文化財旧柳原学校校舎と同様に建物内部を公開することになりました。(公開時間は旧柳原学校校舎と同じく10:00〜16:00) 旧安土巡査駐在所は、昭和45年(1970年)10月に開館した「近江風土記の丘」の屋外学習展示施設として、重要文化財旧宮地家住宅(宝暦4年(1754年))や県指定有形文化財旧柳原学校校舎(明治9年)とともに現在地へ移築された木造2階建て、瓦葺の建物です。建物は明治18年(1885年)10月に、金田・島・安土の3か村を受け持つ常楽寺交番所として安土駅に近い十字路の角地(旧安土村大字常楽寺字下横町)に住民の寄付によって建てられましたが、昭和40年3月12日に廃所されました。 建物の外観は柱を塗り込む大壁造の白漆喰塗で、屋根は桟瓦葺とします。隅を切った玄関は洋風の扉と円形の庇を設け、上部は三角形の切妻を見せます。また軒先には蛇腹を用い隅は化粧積みの切石で飾り、上下にガラス製の窓を配置するなど随所に当時流行した洋風建築の意匠が見られます。 建物の一階内部は三室で正面の事務室と奥の一室を洋室、もう一室は和室とします。二階には和室二室を、事務室脇には土間と台所からなる下屋を設けます。 旧安土巡査駐在所は明治の早い時期に地元の大工によって建てられたと伝わる洋風を模した公共建築として貴重な遺構です。 なお、建物は「国土の歴史的景観に寄与されているもの」として平成10年に登録有形文化財になりました。 洋風の建築ながら、随所に和風の雰囲気も織り込ませた建築物です。 内部は巡査が執務する洋間と起居する和室に分かれており、 また奥のほうには、台所やカマドあったりと、職住一致だったことを忍ばせます。 その中で、板扉が・・・・。 開けてみると、やっぱり・・・。 でした! しかし、移築なのでトイレの床下までは再現はされてなくて残念・・・。 それほど広いわけでもないので、あっという間に見終わってしまいました〜♪ というわけで、次は入山料(拝観料?)を徴収するようになった安土城跡へと・・・。
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