史跡・寺社仏閣
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奈良県外の史跡・寺社仏閣の記事です。
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京都駅での『吉村作治の早大エジプト発掘40年展』と 0番線ホームでの『トワイライトエクスプレス』の撮影、 そして、念願の龍安寺石庭の鑑賞をへて、 今回は、少し時間があったので、予定外の場所へ。 候補は、天竜寺・仁和寺、そして、先日常連のゆきえもんさんの記事にもあった 龍安寺からだと、クルマで5分くらい。 Pへ駐車して、参道を歩いていくと、例の『五用心』の看板がかかった総門が! 『五用心』の箇条書きしてある内容を見て、 と思いながらも、その先の受付で拝観しないのに、拝観料を支払い、寺内に。 もっと奥の方にあるのかと思っていた が、池の向こう側に! ガイドブックなどにある構図で数枚撮影! 池沿いに進み、金閣舎利殿の後ろに回り込むように順路を進んでいく。 よく見ると、三層の建物の各階のつくりは違う。 1階は、平安風の寝殿造。 2階は、この当時の主流であった武家造。 3階は、流行りつつあった禅宗の仏殿造。 まったく違う建築様式を、ひとつの建物に見事に融合させている。 それと、この建物の特徴として、望楼型であること。 後々の天守閣の原型になるもの様だなと。 さらに足を進めると、足利義満が茶の湯のために用いた その先には、手洗い用に使った その後、少し登っていくところがあって、 そこには、少し色づいてきた紅葉! 最後に、不動堂言われる御堂があり、 賽銭をいれて参拝。 御利益があるかどうかは・・・・。 お土産屋で茶団子を買い、
鹿苑寺こと金閣寺を後に帰路についたのだった。 |
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京都駅での目的を達成?して、次に向かったのが洛北にある 僕にとっては、龍安寺が福井の永平寺と並んで好きな寺のひとつ。 以前に龍安寺に訪れたのは、近くの立命館大学のオープンキャンパスに行った際、 ついでに訪問して以来18年ぶり。 目的は勿論、 土塀で仕切られたそれほど広くはない空間に白砂を敷きつめ、 それに帚目(ほうきめ)をつけ、15個の石を5ケ所に点在させた シンプルそのもの。 しかし、その限られた空間の中に、日本の心ともいえる が表現されているようでならないと思い、今回の訪問となった。 京都駅を出発、カーナビの誘導に従いクルマを走らせると、 いつの間にか、クルマは真正面に”左大文字”が見える通りを北上。 わら天神の交差点?で、左折し、立命館大学の前を抜け、到着。 駐車場は1時間だと無料と良心的。 2時間半で1600円も駐車料金をボッタくる伊勢丹の駐車場は、 これを見習って欲しい!(怒) 山門前で拝観料を支払い、いよいよ入山。 その昔の記憶では、かなりこじんまりしたお寺だったような気がしていたが、 実は山門を抜けたところに、大きな池があり、その向こうに龍安寺の建物や石庭があるらしい。 案内に沿って歩いてみる。 少し進むと石段があって、その上に庫裡・寺務所がある。 それらを取り囲むように、紅葉の木々?が。 1ヶ月も経てば、かなり絵になる雰囲気。 寺務所でチケットを切ってもらい、建物内へ。 玄関から左手に歩くと、そこには石庭が・・・。 侘び寂びの境地に浸れる?かと思ったら、 秋晴れの祝日、侘び寂びもへったくれもないほどの観光客!! ちょっとやって来る日を間違った〜と少し後悔(泣) 観光客の隙間をくぐり抜け、縁側に腰を落ち着ける。 座って石庭を見渡せば、何か感じ入るものがある。 この石庭を造った人物は、どういう思いで、何を表現したかったのか? この小宇宙に表現されているモノは何だろう? その答えが分かる方、いらっしゃいますか? せっかく侘び寂びの境地に思いやってきたのに、 その願いはかないそうになかったので、石庭を前する方丈と言われる建物の中を見て、 外へ。 大きな池に沿い、山門へ。 山門から出ると土産物屋があったので、八つ橋を買い、 今回の大きな目的であった石庭鑑賞を終えたのでした。 でも時計を見ると、まだ14:30過ぎ。 何とかもう一ヶ所くらいなら、近くなら訪問できると。 近くの、いかにもミーハーなところへ・・・・。 あれで静かだったら・・・、再度冬の深々とした日にもう一度訪問してみようと誓ったのだった〜♪
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阪神高速神戸線京橋PAを出発して、今回の目的地である播州赤穂を目指しました。 11時くらいだったか、山陽道を赤穂インターでおり、一般道にて赤穂城跡へ! クルマを走らせていると、右手には紅白の煙突がアチコチに。 中には土曜日にも関わらず稼働しているのか、煙をあげていたり・・・。 ちょっと想像していた町とは違うなぁ〜と。赤穂も今は瀬戸内工業地帯の一角を占めているんだと、さて、でも何を作っているんだろう?名産の塩を作るのにあれほどの煙突のある工場が必要なのかなと思いつつ、遂に到着。 といっても到着したのは、大石神社。 そう、この大石神社、赤穂城跡(三の丸・大石内蔵助良雄邸跡)内にあり、境内外にジャリPがあったので、そこへ駐車。 参道?には、赤穂義士47士が両サイドからお出迎え! 山門をくぐり、少しあるくとすぐに本殿! 最近建替えたのか、真新しい! ここでも御利益があるのかどうか分からないけど、参拝を! その後、境内の宝物館・義士木像館・大石邸庭園・長屋門を見学。 見学しながらよく考えると、旧大石邸跡にある大石神社って三の丸にあるんですよね。 さすがに筆頭家老となると城内の要に屋敷地を拝領していたと言うことだと。 神社もそこそこに、いよいよ本題の城跡見学へと向かったのでした・・・。
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広島城を出発し、鯉城通りへ!途中から路面電車と併走。奈良に住んでいると、そんなこともないので、変な感じでした。 そして平和大通りにでて、すぐに右折。 川沿いを進んでいくと、カーナビで指定した大手前Pに到着。 路地裏の向こうには広島市民球場がみえ、広島城本丸からは、それなりの距離があるところに大手門があったらしいことを実感。 しかし、そこは雑居ビルやタワー式Pが林立し、石垣などもないため、大手門があったような面影も無く・・・。 Pへクルマを駐車させ、いよいよあの場所へ! Pからはものの数分で到着! 世界遺産にも登録された原爆ドームこと旧廣島県産業奨励館です。 無論、今はみなさんご存知のとおり、その廃墟なのですが・・。 前回広島へ来たのは、受験のためだけだったので、もちろん観光などすることもなかったので、見ているわけもなく、それ以前では小学校の修学旅行以来、24年ぶりにみる原爆ドームでした。 その当時は、その周辺も何となしか侘しげな雰囲気もしたような?気がしたのですが、今は繁華街の片隅にあるオアシスの様な公園の一角にあるという雰囲気が顕著な気がしました。 今も昔もそれほど変わっているわけでもないのですが・・・。隣の繁華街の方がさらに賑やかになったためでしょうか?よくわかりません。 撮影のため、原爆ドームへ寄ってみました。 その周囲に柵がしてあるのは、小学校の修学旅行の時と変わりは無いのですが、よ〜く見ると防犯用のセコムの機器が設置されているではないですか! これは奈良の朱雀門でもそうなのですが、破壊行為・落書き・放火を防ぐためのものようで、日本各地場所を問わず、治安が悪化しているのは確かなようで、残念の一言です。 さらに見上げてみると、鉄骨でドームを補強しているようで、その保存の難しさを如実にあらわしていると。 そんなことにも感心しながらも、原爆ドームが保存されている意味を深くもう一度考えてみると必要があるのではないかと思ったりもしました。 概要 住所は中区大手町1丁目10。すぐ西には、原爆投下の目標になったともいわれるT字型の相生橋がかかり、南には元安川をはさんで広島平和記念公園(通称:平和記念公園もしくは平和公園)が広がっている。北には市内電車(広島電鉄)の走る通りをはさんで広島市民球場がある。東に200m行った所に爆心地とされる島病院がある。 歴史 竣工から戦時期まで 現在、原爆ドームの名称で知られているこの廃墟は、元来は地上3階(一部5階)・地下1階の構造をもつ建造物であり、1915年4月5日に竣工、同年8月5日、広島県物産陳列館として開館されたものである。同館はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel, 1880年-1925年)によって設計され、ネオ・バロック的な骨格にゼツェッション風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。その後1921年に広島県商品陳列所となり、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年には広島県産業奨励館に改称され、この前後は盛んに美術展が開催され、広島における美術の普及に大きく貢献した。しかし1944年以後、産業奨励館はその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。 被爆時の状況 1945年8月6日午前8時15分(投下が15分で、爆発は16分ともいわれる)、原爆ドームの南東上空580mの地点で原子爆弾(リトルボーイ)が爆発した。ほぼ真上からの衝撃波を受けたことと窓の数が多かったことにより爆風が窓から吹き抜け、垂直部分のいくらかは破壊を免れ外壁を中心に残存した。 建物内にいた職員など約30名は全員即死したと推定される(なお前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、唯一の生存者となった)。 保存 原爆ドームは原爆の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一方では「悲惨な戦争を思い出すので撤去すべき」などの意見もあり、その存廃が議論されてきた。1966年広島市議会が永久保存することを決議し、風化を防ぐため定期的に補修工事が行われている。1995年史跡に指定され、さらに翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。最近では立ち入り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。 又、2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設あり方懇談会」が開催され、博物館に移設する、屋根をつけるなどの議論も出たが、2006年に今後も原状のまま保存する方針が確認された。 フリー百科事典 ウィキベディアより |



