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奈良からレヴォーグを運転して約9時間、念願の場所にたどり着きました。
上田城です。
『真田丸』が放送される以前から、一度は行ってみたいと思っていた城です。
想像よりもこじんまりしたお城です。
現在の状態は、真田氏が上田を去った後に仙石氏が再築城したものです。
しかし基本構造は真田氏のモノと考えて良いでしょう。
その上田城は千曲川の河岸段丘の上に築城され、特に南側は千曲川が間近まで迫っており、南側の防御は鉄壁でした。
東西と北側には堀を設け、特に対上杉戦を考慮して北側と西側には幅の広い堀がめぐらされていました。現在は野球場や陸上競技場になっています。
まず定番として、本丸の堀に掛かる土橋で櫓や城門を撮影。
そして今回は土橋の南側にある空堀に注目!
空堀を仕切る石垣には何故か1カ所だけ穴があります。
何故空堀に穴が?
築城当初は水堀だったため、排水用の穴が設けられていたのではないかと。
関ヶ原後、徹底して破城させられた上田城ですが、こんなところに真田氏時代の痕跡が残っています。
さて城門をくぐり、櫓が見学できるというので、早速中へ入ってみました。
櫓からは・・・
こんな光景が見えます。
櫓の石垣の下は河岸段丘の絶壁となっており、その昔はこのあたりまで千曲川が蛇行を繰り返し迫っていたと思われます。
現在の千曲川はかなり離れたところを流れています。
とにかくこれまでのお城とは、また違うなと・・・・
では今宵はこれくらいで。
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東日本の城郭
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詳細
関東甲信越・東北・北海道の城郭の紹介です。遠方になるのであまり更新はありませんので、その辺はあしからず。
コメント(2)
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11日・12日の2日間、以前から構想していた信州『真田丸』ツアーをついに敢行してきました。
まずはその第一弾。
11日5時過ぎ奈良を出発し、国道24号・163号・名阪国道・東名阪道・国道19号・東名高速・中央道・長野道を経て梓川SAへ。梓川SAで昼食後、スマートインターから国道254号・県道65号・77号を経て上田市内に。休憩を入れて9時間余り、ようやくたどり着いたのは松尾町にある駐車場。そこから徒歩で数分の所にあるのが・・・
上田藩主居館跡です。第二次上田合戦の後、破却された上田城に代わり、三の丸に建てられたのが居館でした。以後、上田城が再建されても、政庁として残り、現在は長野県上田高等学校の敷地となり、表御門が校門として継承されています。
方形の居館跡は、外周の一部に堀を巡らしています。
堀は守りを重視したモノではなく、政庁と城下を区分けするものだった考えるのが良いでしょう。
敷地内は高校なので、勝手に入ることはできないので、とりあえず外周だけ。
この後、いよいよ上田城を目指します。
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郭内に入り、土塁上から四方を眺めた後、今度は最近になって復元された箱館奉行所へ向かいます。
お寺の本堂のような建物で、屋根の真ん中に望楼が設置されています。
早速入館してみました。
玄関から案内に従い右手へ歩いていくと
小用トイレ
その奥には、
大便用トイレが設置されています。
しかし、これは使用不可です。
せめて人形などおいて、使用している状況を再現してほしかった・・・・(笑)
ここを左手におれて、
廊下を歩いていくと
廊下の左手には、4つに区切られた大広間があり、さらにその奥には、
表座敷と呼ばれる奉行の執務室がありました。
蝦夷全域を統括する箱館奉行のそれにしては、かなりこじんまりしていています。
また大広間・奥座敷とも豪華絢爛な熊本城の本丸御殿などと比べると、
かなり質素な造りで、飾り気などは、ほとんどないです。
そのあたりも、時代や用途によっても異なるみたいです。
案内に従い歩いていくと
中庭がありますが、これと言った造園はなされていないみたいです。
それからは、歴史発見ゾーンで当時の資料などをみて、箱館奉行所を後にしたのでした。
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年度末の怒涛のような激務もやっと収束してきましたが、相変わらず帰宅は遅く、疲れております。
しかし、まだまだ北海道・東京珍道中は続くわけで・・・・
ほったらかしにする事もできないので、できるところまでブログアップしていきます。
前回は、函館朝市・摩周丸と巡り、一旦ホテルに戻ったところまでだったように思います。
ホテルに戻り、荷物を取りまとめチェックアウトして、函館市電に乗り、向かったのが、
五稜郭です。
徳川幕府の命を受けた蘭学者武田斐三郎が設計を手掛け、1864(元治元)年に完成した、国内初の西洋式城郭が五稜郭です。かつて、海軍副総裁榎本武揚率いる旧幕府脱走軍と、新政府軍が激しい戦闘を繰り広げた場所として知られていますが、五稜郭公園として一般開放されるようになった1914(大正3)年以降は、春に約1600本のソメイヨシノなどが咲き誇る道南有数のサクラの名所、また、人気の高い観光地、地元市民にとっての憩いの場として、その役割を様変わりさせています。
星形の城郭は、防御側の死角が少ないなどの利点があり、当時ヨーロッパを中心に普及していました。幕府は開港に伴う防備強化を図るため、五稜郭築造に着手。しかし、建設途中で財政難に陥り、一部の計画変更を余儀なくされました。人馬が出てくるのが直接見えないようにするための変形した菱形状をした土塁「半月堡(はんげつほ)」(または馬出塁)は、5つを設ける予定でしたが、一の橋を渡った右手にある1カ所になったほか、備前御影石を用いるとした石垣は、大部分が函館山から切り出した安山岩で、裏門側には亀田川で集めた石を使用しています。およそ7年を費やして出来上がった五稜郭に、箱館山の麓にあった奉行所が移転。
1867(慶応4)年の大政奉還により、明治新政府が奉行所の業務を引き継ぎ、名称は箱館裁判所・箱館府となりました。しかし、江戸開城に納得しない榎本らは蝦夷共和国の樹立を目指して北海道に上陸し、五稜郭の占拠を成し遂げるも、新政府軍の反撃に屈し、1869(明治2)年5月に五稜郭を明け渡しました。
箱館戦争後、大半の建物が解体されたものの、白壁の土蔵「兵糧庫」は難を逃れ、箱館奉行所は、2010(平成22)年6月に復元公開されました。
函館市公式観光情報サイトより
最近は、ほとんど城郭巡りはしていなかったので、ちょっと感慨深いもの感じてしまいました。
五稜郭は、戦国時代から江戸初期にかけて築城された城郭とは違い、幕末に西洋式築城法で
築城された城郭と言うよりも要塞に近いものであるでしょうか。
天守閣や櫓の類も殆どなく、堀と石垣で補強された土塁だけの、至ってシンプルな城郭です。
積雪が多いので、五稜郭で唯一あった馬出?である半月堡も、その状態がよく分かりません。
土塁は石垣で補強をされています。石垣の上部にはねずみ返し?が設けられています。
しかしこれがどれほどの役に立ったのか・・・全く疑問です。
郭内に入り、
土塁上に登って郭外をみますが、あまりの積雪のため、どうなっているのかサッパリ分かりません。
見渡しはよく、観光サイトの説明通り、防衛側からは死角が少ないです。
振り返って郭内をみると
これまた最近復元された箱館奉行所が見えました。
望楼の部分が目立ち、特異な形状な建物です。
しかし、これが五稜郭の位置を明確にしてしまい、砲撃戦の割合が高い近代戦では仇となったようです。
さてさて、この日もかなりタイトなスケジュールであったので、慌てて土塁から降りて、箱館奉行所へ〜♪
あまりにも眠いので、続きは後日
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