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大楠公の凛々しい騎乗姿の銅像前から、次は東京での記念撮影
修学旅行や団体旅行で、よく定番の記念撮影
二重橋の向こうに見える伏見櫓の奥が、皇居となっています。
伏見櫓
ここから見える眺めが、いかにも皇居らしいです。
さてさて、写真を撮っていると周囲が騒がしい?
それが日本語ではない?
小汚いおっさんやおばちゃんばかりで、服装も微妙に日本人と違う?
#$%&△□×☆×○〜
どうも小金をもった中国人らしいです。
しかし、彼らはここが天皇の住んでいるところと認識しているのか?
あれでは、多分何も理解していないでしょう。
それはそれで、そんな奴らにかまっているヒマはありません。
次は、幕末に起こった、今で言うところのテロ事件の現場へ向ったのでした・・・
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東日本の城郭
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詳細
関東甲信越・東北・北海道の城郭の紹介です。遠方になるのであまり更新はありませんので、その辺はあしからず。
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ご先祖様?が築いた天守台の上にのぼり、ひとり天下人になりきって四方を見渡した後、
次は、本丸跡にある歴史的事件の発端になる現場跡をめざします。
それはちょっとした森の中にあります。
松之大廊下跡
みなさん、ご存知の元禄赤穂事件すなわち忠臣蔵の発端となった浅野内匠頭が吉良上野介に殿中刃傷に及んだあの事件が起こった場所です。
今となっては、当時、長々とした廊下があったなどとは、全くわからないくらい変わり果ててしまっています。
江戸城本丸は、度々火災にあい、最終的には1863年の火災
主要部分は現在の皇居のある西の丸へ移動し、放棄されていたようです。
それは、どことなく我が居城の金沢城?と似ています。
金沢城も本丸は度重なる火災で、江戸時代前期には放棄されていたみたいですから。
せっかく早足で来たのに、石碑と案内板くらいしかないアッサリとした歴史的事件の現場に拍子抜け〜♪
暑いので先に進みます。
すると鬱蒼とした森の向こうに
富士見櫓
明暦の大火
文字通り、この櫓からは富士山がよく見えたのでしょう。
しかし、この富士見櫓、皇居のある西の丸と隣接している関係もあり、
現在は宮内庁?の厳重な管理化にあり、手前は柵で取り囲まれています。
本丸内から見ると何か味気ない櫓ですが、皇居側からみれば立派な天守代用の御三階櫓のようです。
チャンスがあれば見たかったですが、それはかなわず・・・・
そうこうしている内に、日差しはだんだん傾いてきます。
さすがに疲れたので、休憩所でアイス
食べて、あと一息と思い、いよいよブラタモリの旅
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田安門をくぐりぬけ、日本武道館を横目通り過ぎ、北の丸を横切ると
やっと辿り着きまし、江戸城本丸跡です。
内堀も深くて立派です。さすが将軍家の居城だけのことはあります。
本丸北側にある北桔梗門をくぐります。
江戸城天守台
この天守台、明暦の大火
時の権力者であった会津藩主の保科正之の建策により、結局、天守そのものは
あげられることはなく、今日に至っています。
せっかく築いた当家のメンツは丸つぶれです
天守台の出入口のほうへまわってみます。
逆光で見えにくいですが、天守台だけでも相当デカイです。
登閣してみます。
天守台上への通路は、今は緩やかなスロープになっています。
軽自動車くらいだったら、天守台上にあがることもできるかも知れません。
その程度の緩やかなスロープですが、朝から歩きっぱなしの身には非情に辛い〜
天守台上から大手町方向を望みます。
ビジネス街のビル群
こうしてみると、現在の江戸城の存在は、ニューヨークのセントラル・パーク
ビル群から目を外し、本丸内を見ると、その昔、大奥があったあたりでゴロゴロする人、
芝生の上をかける子ども、弁当を広げて食べる人たち、草花の観察をする人などが遠くに見えます。
都会の中のオアシス感があって、こうした雰囲気は関西ではないですね。
大都会でありながらも、そこから漂うゴタゴタを一掃するだけの緑が東京にはあるのだと。
何かいい空気を吸ったような気になりながら、天守台から下りたのでした。
追記
江戸城天守閣を再建を目指すNPO法人があるので、ご紹介しておきます。
江戸城再建を目指す会ホームページ
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『越後上越 天地人博』を見終わって、売店で土産物を買い、 会場を後にしようと思ったら、豪雨です。 空をみると薄暗く、どうも天候が回復する見込みはない感じ。 かといって、少しでも外へ出ようものなら、全身ずぶ濡れは避けられない状況。 仕方ないので、しばらく待ちました。 30分くらいしたとき、一瞬小康状態になり、その隙にPへ〜♪ 何とかずぶ濡れになることは避けれましたが、Tシャツは着替えたほうがいいくらいで、 早速予備のTシャツに着替え、いざ出発です。 また雨が激しくなってきます。 しかし、まだ宿に向うには時間が早すぎです。 とりあえず、直江津駅へ行ってみることにしました。 何かあるかと思ったら、これといったものは何もなく・・・ 残念ながら、この雨では、もうどうしようもないと思い、 已む無く新井に予約した宿へ向うことに・・・ 直江津駅を出発して、妙高市の新井を目指します。 雨は激しく降ります。 バイパス化した国道18号線を新井へ向け走ります。 しばらくすると、雨がまた小康状態へ〜♪ これなら、まだ何とかなる〜! 諦めかけていた、この日最後の訪問地へ向うことに変更!! 高田城跡です。 高田城は、対豊臣戦を控えた1514年(慶長19年)に、 わずか4ヶ月程度で築城完成させた城郭のため、 築くのに手間ひまのかかる石垣は、殆んどありません。 まさに野戦築城のようで、土塁と堀を中心とした中世的な城郭の 最後のモノでしょう。 図書館前のPにクルマを停め、城内へ向います。 信号を渡り、堀に架けられた極楽橋を渡ると、 何故か彼らが出迎えてくれます。 さらに進むと もう、そこが本丸跡だったのです。 Pのあった辺りは、二の丸だったみたいです。 クルマを駐車した時点で、城内に入り込んでいたみたいです。 そして本丸跡の石碑から左手に歩いていくと 三重櫓です。 築城当初は二重櫓だったようですが、もともと天守閣のない城郭だったので、 それに代わるものとして三重櫓が改めて建てられたようです。 現在の櫓は、上越市発足20周年記念の一環として復元されたものです。 三重櫓は、破風も派手でいかにも天守代用の櫓です。 入ってみます。 三重櫓なので、中はさほど広くもなく、歴代藩主の遺品が展示されています。 階段をあがり最上階へ〜♪ 幅の広い堀や土塁が見えます。 特に土塁は、本丸の外側から見た感じよりも、相当高く土盛がされています。 堀を越え、土塁にたどり着いたにしても、ちょっとやそっとでは登れないようです。 築城の総奉行を伊達政宗がしただけのことはありますし、 普請を任されたのが上杉家・最上家・蒲生家、そして当家だけのことはあります。 そんなこじんまりした建物なので、あっという間です。 改めて堀を渡り、本丸から出てみます。 堀端を歩くと、 こうやって、本丸の外側からみると、なかなかこじんまりしていても 風格があって良い佇まいが・・・ 全体を見てまわる余裕はありませんでしたが、 土塁の城郭の完成形ともいえるモノを見れたかなと・・・ そして、いよいよ妙高市新井の宿所へ〜! |
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春日山城史跡広場を後に、いよいよ昼食です。 先を急ぎますので、悠長にはしていられません。 とりあえず市街地のほうへ出てみることにしました。 住宅地の中から国道8号線へでてみると・・・ 松屋を発見〜!! 早速入店して、キムカル丼と豚汁をかきこみ、 速攻で店を出ました。 そして、次の目標は、『越後上越 天地人博』へ〜! と思い、その方向へクルマを走らせていたら・・・ 案内板が見えてきます。 海沿いへ出る道から、一旦左に曲がり住宅地へ入っていきます。 こんな所にあるのか?と思っていると、 地元の公民館のPが御館跡もよりのPになっています。 クルマを停め、さてどこにと? 数十メートル歩いたところに、石碑と案内板のある公園があります。 近づいてみると・・・ 御館跡は直江津駅西方1キロメートルの住宅地の中にあります。 現在は内郭の一部が公園として整備されています。御館の内郭は東西135メートル、 南北150メートルの大きさで、堀を二重に築き、厚い土塁で防御を固めた方形の館です。 発掘調査によって、陶磁器片、古銭、鉛弾、武具、べっ甲製のくしなどが出土しました。 どうも、その公園が御館跡の一部のようです。 これと言った遺構は、何もありません。 発掘調査を実施したときには、いろいろと出てきたみたいです。 園内では近所のガキどもが、そういった歴史的な場所ということも 知らないままサッカーをしています。 あまりにもアホらしいので、先を急ぎ『越後上越 天地人博』を目指したのですが・・・ |





