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12月半ばに、いつもお馴染みのイオンモール大和郡山の喜久屋書店で買った一冊です。
結構読みきるのに時間がかかりました。
『昭和陸軍の軌跡』 川田稔 著
昭和十年八月十二日、一人の軍人が執務室で斬殺された。陸軍軍務局長永田鉄山。中堅幕僚時代、陸軍は組織として政治を動かすべきだとして「一夕会」を結成した人物である。彼の抱いた政策構想は、同志であった石原莞爾、武藤章、田中新一らにどう受け継がれ、分岐していったのか。満蒙の領有をめぐる中ソとの軋轢、南洋の資源をめぐる英米との対立、また緊張する欧州情勢を背景に、満州事変から敗戦まで昭和陸軍の興亡を描く。
副題として「永田鉄山の構想とその分岐」とあり、本帯には「対米開戦のWhyとHow」ともあります。
大正末期から昭和初期の陸軍の動きからはじめ、本書の軸となる永田鉄山少将の国家構想を基に、
陸軍部内の抗争・226事件を経て、武藤章・田中新一らの統制派の面々により、永田の構想が
どのように受継がれ、また違う方向へ分岐していったのか、そして日中戦争、さらに太平洋戦争へと
突き進んでいった『なぜ』と『どうして』が解説されています。
ここにまさに本帯にある「対米開戦のWhyとHow」が、見事に解説されており、メカラウロコ的な一冊です。
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書籍
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詳細
これまで購入してきた書籍です。
コメント(4)
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またまたYahoo!ブログのトップページのクローズアップよりです。
この秋お薦めは、来年の大河ドラマ『平清盛』を見る上で大きな一助となると思われる一冊です。
武士の王 平清盛 伊東潤 著 洋泉社刊
本書執筆にあたって
第一章 平家の台頭 (1)清盛以前――平安最強氏族の系譜 (2)父と子の宿命――謎に包まれた前半生 第二章 清盛、表舞台へ (1)武士の夜明け――はじまった公家の凋落 (2)盛者の礎――着々と足場を固める清盛一門 (3)清盛、起つ――政治の中心に躍り出た巨星 第三章 平家政権の誕生と日宋貿易 (1)専横、極まりて――深まる「冶天の君」との溝 (2)解ける紐帯――悪化する院と清盛の関係 第四章 清盛の夢と挫折 (1)謀略の誤算――くすぶり続ける反逆の火 (2)孤立する独裁者――強引な福原遷都の功罪 第五章 頼朝の挙兵と清盛の最期 (1)動乱の荒波――切って落とされた源平合戦の火蓋 (2)潰えた野望――憎悪と悔恨にまみれた終焉 平清盛関連年表 おわりに 主要参考文献 平清盛の一生をと言うよりも、平氏の始まりから壇ノ浦での滅亡までを、小説でもなく、
かといってマニアックな専門書でもない、それでいながら、当時の第一級資料である
公家・僧などの日記類、『平家物語』を代表とした軍記物・説話集などをベースに
新書という限られたページ数の中で、かなり上手く解説してくれています。
その中で、彼がどんな夢をもって、平安末期の世の中を生きていったのか、
また何故それに挫折しなければならなかったのか、これまでにない視点から
平清盛を、平家滅亡の原因を知ることができる、そんな一冊だとおもいます。
これを読むと、現在のような時代にこそ、平清盛のような人物が必要ではないのかと・・・・
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今日も何気なく立ち寄ったイオンモール大和郡山内の喜久屋書店
日本海軍400時間の証言
軍令部・参謀たちが語った敗戦
「陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。いずれも国あるを忘れていた」――当事者たちの告白。
http://www.shinchosha.co.jp/common/images/_.gif 「門外不出」を条件に、旧海軍軍令部員をはじめ、名立たる参謀たちが密かに集まり、 先の大戦の検証を詳細に行っていた。
開戦へと突き進んだ舞台裏、特攻作戦が生み出された真相、東京裁判での隠蔽工作の実態――。
遺された、400時間にも及ぶ貴重な証言にくわえ、遺族や関係者への徹底取材で明らかになる、
驚愕の昭和秘史!
一昨年の夏、NHKで放送された『日本海軍400時間の証言』の製作に携わったプロデューサーや
ディレクターから見て聞いた『証言』の解説と考えを書いたもののようです。
かつて日本海軍の将官・佐官であった人たちが、赤裸々に語った日本海軍とは何だったのか・・・
¥1,785と財布には厳しかったですが・・・・
彼らの『証言』が、今の時代と照らし合わせて考えさせるものはあるのかなと。
久しぶりにじっくりと読んでみたいです。
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多分まだ東日本大震災が発生する前、いつもの喜久屋書店で買ったのが、
天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史
本書の解説
「天正壬午」とは、「天正十年」の意味である。この年は激動の戦国時代の中でも、特に大事件が目立つ。まず、強大な勢力を誇った武田氏が滅亡する。続いて、天下布武目前の織田信長が、本能寺の露と消える。さらに信長の後継をめぐって、織田家中で明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家らが激突する。その間、他の大名たちは何をしていたのだろうか?領主の武田勝頼・織田信長が立て続けに没し、空白地と化した甲斐・信濃・上野に徳川家康・北条氏直・上杉景勝が兵を進める。この東国大名の争いが「天正壬午の乱」である。この争いには、秀吉の天下統一を許すこととなった萌芽や、家康の飛躍に繋がる契機が内包される。本書は戦国時代の天下の帰趨を見極める上で、原点とも言うべき「天正壬午の乱」を丹念に描いたものである。
1582年(天正十年)、武田氏滅亡・本能寺の変により空白地化した旧武田領の争奪を目的とした乱です。
信長の死が諸国へ伝わると、事実上空白地帯となったこの旧武田領を巡って、徳川家康・北条氏直・上杉景勝、および独立を狙った真田昌幸が対立を深めていく。甲斐では、6月4日に岡崎に帰還した徳川家康が、光秀討伐の軍を起こすと同時に秀隆を支援するという名目で家臣を甲斐に派遣し、梅雪遺領の掌握を図る。信州佐久には旧臣の依田信蕃を向かわせた。信蕃は檄を飛ばして武田遺臣900人弱をかき集め、小諸城に入った。家康は光秀討伐の兵を鳴海まで進めていたが、15日に光秀が中国地方から反転した羽柴秀吉により討たれたという報を聞くと酒井忠次を津島に前進させ情報を確認し、21日に軍を返して浜松へ戻り、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませる一方で自身は7月9日には甲斐・甲府へ到着した。後北条に制圧された郡内を除いて国中から南信濃を確保する。
信濃では、一益を撃破した北条氏直率いる主力がそのまま碓氷峠を越え、6月26日には佐久郡の諸豪を臣従させた。7月9日には真田昌幸が誼を通じてきて、これにより上野方面がとりあえず安全になったので、北条勢主力は信濃・甲斐の掌握に傾注することとなった。また、木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与え、信濃も半ば手中するかに見えた。しかし、そこに立ち塞がったのが上杉景勝であった。長可を追った後も引き続き信濃に進駐していた景勝は、御館の乱の影響もあってかかねてから北条に対して警戒心を露にし、合戦準備を進めていた。北条・上杉両軍は川中島で対峙したが、北条は景勝と家康の挟み撃ちになることを恐れ、北信濃4郡を景勝に渡す条件で講和し、氏直は依田信蕃から奪った小諸城に引き上げた。
景勝との講和がなった時点で、北条が相対する相手は家康のみとなった。8月1日、北条方となった諏訪頼忠が籠る高島城を攻城していた酒井忠次ら3,000は北条の大軍が来るとの報に甲斐に向けて後退し、北条は佐久経由で北条氏直率いる43,000が追撃するも徳川勢は撤退に成功し、新府城へ後退した。これを追う北条勢も甲斐に入り若神子に着陣、新府城の家康勢と対峙した(6日)。10日に家康は府中の留守を鳥居元忠ら2,000に任せ新府城に陣を移し、徳川方は8,000となる。一方、北条氏忠・北条氏勝らを御坂峠に張り付かせ、北条氏邦にも秩父から甲斐を窺う体勢をとらせた。また、ここで注目させるのは、未だに房相一和が完全には破綻していなかった安房の里見義頼も御坂峠の北条軍を支援するために援軍を御坂城に派遣する一方でその状況を北条氏と対立していた常陸の佐竹義重にも伝えていることである[1]。北条勢の甲斐侵入と同時に、信蕃は北条の小荷駄隊を狙ったゲリラ戦を開始した。
8月12日、氏忠・氏勝勢10,000が家康の背後を襲うべく甲斐東部の郡内地方へ進撃した。これに対し、鳥居元忠、三宅康貞、水野勝成ら2,000が黒駒付近で果敢に応戦し、北条勢約300を討ち取って撃退した(黒駒合戦)。この合戦以降、戦局は北条に著しく不利になっていった。8月22日には義昌が家康側に寝返った。9月には、北条・上杉の講和の結果北条傘下を離れた昌幸が信蕃に加勢するようになり、家康は信蕃と昌幸に曽根昌世らをつけて戦力を強化した。10月には昌幸が禰津某を討ち取り、信蕃は小諸城を襲って大道寺政繁を駆逐した。また、南信濃では義昌に続いて家康の支援を受けた小笠原貞慶が旧領である深志(現在の松本市)に入り他の領主らも徳川氏についた。信蕃・昌幸のゲリラ戦も激しさを増し、北条の補給線は事実上途切れてしまった。北条勢は上野や佐久郡にわずかばかりの軍勢を差し向けるも、戦局は好転しなかった。さらに、これらに呼応して関東平野では佐竹義重が活動を活発化させていた。ここに至り北条は家康との講和を決意。10月29日に講和が結ばれた。講和の条件は以下のとおりであった。
こうして大局的には合戦は終わった。しかし、その後北部では家康に従う依田信蕃が戦死し、武田旧臣で、一時は織田政権に臣従した真田昌幸が新たに築城した上田城に拠り、上杉氏の援助を得て徳川氏の支配を拒んだ。これは、先に徳川・北条間で結ばれた和議の条件に、信濃は徳川が、上野は北条がそれぞれ支配するという内容が盛り込まれていたことによるが、信濃の他に上野の沼田にも領地を持つ昌幸が、自領が失われることを恐れたためといわれている。家康はこれに対して天正13年(1585年)に軍を送り上田城を攻撃させたが、真田勢の反撃によって失敗に終わっている(上田合戦)。
最終的に事態は、天正17年(1589年)に豊臣秀吉によって決着が図られ、沼田周辺の真田領の多くが北条氏に引き渡された。しかし残された真田領を北条氏の軍が略取したために、小田原の役へと発展していくことになる。
ウィキペディアより
今まで何故かあまり注目されてなかったこの乱ですが、何気なく手にとってパラパラ見たら、内容が濃い!
というわけで、そこそこいい値段がしたのだけど買ってみました。
さて、この「天正壬午の乱」ですが、本能寺の変の影響で命からがら三河に帰還した徳川家康が、
ここぞとばかりに火事場泥棒的に甲信地方を、いとも簡単に奪取したのかと思っていたら、
実はそうではなく、旧武田領に隣接した北条氏・上杉氏との対決、またそこを基盤とする旧武田家遺臣との
駆け引きと懐柔を、かなり試行錯誤?的に行われていたことが、かなり詳しく書かれています。
またこの乱が残した火種が、8年後の小田原征伐にも関係してくるといったことなど。
想像以上に面白かったです。
甲信地方の地名とか位置関係が分からないので、もう一度読み直す時は地図など用意して
見ながら読んでみたくなりました。
あまりにも大きな出来事があったため、またその影響で実は重大な事件なのに隠れて目立たない、
そんな感じなのが「天正壬午の乱」だと・・・
そう考えると東日本大震災という大きな出来事に隠れて、重大な出来事があるのではないかと。
あると思うんだけどと、思いながら、何も思いつかないのが悲しいです
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