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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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書庫日本の軍事・国防

旧日本海軍と海上自衛隊と陸上自衛隊の紹介。
その他日本を取り巻く軍事問題・国防問題について
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靖国神社 遊就館

靖国神社 拝殿での参拝を終え、いよいよ本来の目的場所へ向います。

さほどの距離ではありませんが、そちらのほうへ歩いていくと

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靖国神社を見下すように建っているビルがあります。

地図で確認すると、法政大学ボアソナードタワーという法政大学の校舎のようです。

奈良の田舎大学を卒業した僕には???って感じ。

と思ってる間に到着です。

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靖国神社 遊就館


靖国神社を訪れた本当の目的は、遊就館へ来ることでした。

早速館内に入ると

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や旧陸軍の89式15糎加農砲96式15糎榴弾砲などが展示されています。

ゼロ戦は大和ミュージアムでも見たことがありますが、加農砲や榴弾砲はみたことがなかったです。

でも既に時間的に切迫しています。

チケットを買い、展示室へ向います。

案内板をみると展示室が20室もあります!!

これは、とてもじっくりとは見る余裕がない?

已む無く、ある程度見るべきところを絞ることに(泣)

いや、ほとんどすっ飛ばすことになりました(号泣)

まともに見たのは、まずは展示室14・15の大東亜戦争末期〜終戦に関しての資料です。

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終戦詔書


わが敬愛する米内光政海軍大臣の副著があります。

これは複製?なのかどうかは分かりませんが、何となく歴史の重みとひしひしと感じます。

単なる詔書とは違います。

それと並んで展示されていたのが

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阿南惟幾陸軍大臣自筆の血染めの遺書です。

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル


昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ

こうした資料には、田舎に住んでいるとなかなかお目にかかることなどできません。

阿南陸相の陸軍を一糸乱れず終戦へ導く覚悟?が、背中がゾッとするような
そんな感覚が・・・・

彼は、その戦歴をみても戦闘指揮が巧みだったということは感じられませんが、
何か人を引き付ける魅力や信頼感があったのかも知れません。
昭和天皇や鈴木首相からの信任・信頼も厚かったと聞きます。
だからこそ、国家存亡の一大事に陸軍大臣に推されたのかも?

それがために、腹を切る事ができるというのは凄いです。

昨今の政治家には、事を収めるにこれくらいの覚悟をもって望んでもらいたいと・・・・

でも、こういう人はどこを探してもおらんのですよね。

感慨にふけりながらも、時間が切迫しています。
何でいつもこうなるのか?

最後に大展示室へ〜♪

撮影ができればよかったのですが、撮影禁止なので写真がありません。

九七式中戦車艦上爆撃機『彗星』など、往年の名機が・・・・

もっとじっくりと見たかった・・・と思いつつ・・・・

遊就館を離れ、次は天下人にならんと思い、あの場所へ〜♪


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謎の名誉回復?

困った顔

「ニュースサイトの転載」はサービス終了になりました。

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レイテ沖海戦直前にブルネイ湾で出撃待機する第2艦隊主力
 
たまたま見つけた産経新聞ニュースからです。
 
1944年、最後の艦隊決戦と言われたレイテ沖海戦謎の反転により日本の勝機を逸した
第2艦隊司令長官栗田健男海軍中将の名誉の回復を図ろうと当時の関係者の証言を
基にした本が出版されることに。
 
そこで、これをきっかけにレイテ沖海戦の評価について改めて考えてみたいです。
 
太平洋戦争末期、1944年(昭和19)10月23〜26日、フィリピン周辺において行われた日米海戦。同年10月18日、多数の米輸送船団がフィリピン、ルソン島のレイテ湾に進入、米軍の本格的上陸が予想されたため、大本営は決戦計画「捷(しょう)1号作戦」(フィリピン方面決戦)の発動を決定した。これに基づき、小沢治三郎中将の指揮する機動部隊(空母四隻を基幹)は米機動部隊の牽制(けんせい)を目的としてルソン島東方海域に進出し米軍と交戦、さらに栗田(くりた)部隊〔指揮官栗田健男(たけお)中将、戦艦五隻を基幹〕、西村部隊〔指揮官西村祥治(しょうじ)中将、戦艦二隻を基幹〕、志摩部隊〔指揮官志摩清英(きよひで)中将、重巡二隻を基幹〕が三方面からレイテへの突入を図ったが、米軍の反撃に直面して作戦は失敗に終わった。この一連の戦闘で、米軍の損害は小型空母三隻、その他三隻沈没にとどまったのに対し、日本側は武蔵(むさし)を含む戦艦三隻、空母四隻、その他の艦艇多数が沈没し、人員約1万を失い、連合艦隊は事実上、壊滅した。
 
概要としては上記の通りです。
 
日本側の作戦趣旨は、マッカーサー率いる陸軍部隊のレイテ島上陸を阻止し、これを戦艦・巡洋艦を
主力とした第2艦隊(旗艦 愛宕⇒大和)が海上にある間に砲撃で撃滅することにあったわけで・・・
 
しかし結果としては、それがため、比島沖で上陸作戦を支援すべく遊弋しているハルゼー率いる
米第3艦隊をレイテからできるだけ遠ざけるために小沢中将率いる第3艦隊(旗艦 瑞鶴)を囮部隊として
出撃させ北方誘致に成功したのにも関わらず、謎の反転によりレイテへの米軍上陸を許し、さらには
マッカーサーにフィリピンを奪還されてしまったのです。
 
日本海軍は、連合艦隊をすり潰してでも、この作戦を成功させるんだという意気込みで行ったはずなのに・・・
 
僕なんかは、これまでの定説どおり上層部で企画した作戦趣旨が、どうも理解されてなかったのではないかと。
 
特に栗田中将率いる第2艦隊の目的は、敵上陸部隊の撃滅にあったわけで、
 

連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどという事は不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向って突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか。

 
目的は、あくまで敵上陸部隊の輸送船団であったはず。
 
彼らの判断は、どこか間違っていないか?
 
海軍軍人としては、敵主力艦隊との決戦を避けてまで輸送船団を攻撃するのは不本意なのだろう。
 
けど作戦趣旨を十分理解し、見事に作戦を成功させた小沢中将は、後から結果を知って、
どう思ったのだろう?
 
その後の戦局の展開を考えれば、栗田中将は今一度作戦趣旨を理解することは
できなかったのだろうか?
 
そう考えれば、輸送船団を攻撃することで、場合によってはマッカーサー戦死ということも
ありえたかも知れない。
そうなれば、米軍の対日戦略もずいぶん変化したかも知れない?
 
それはあくまでIFなのでけど・・・・
 
今回の出版は、栗田中将の名誉回復となるかどうかは甚だ疑問だけど、
改めてレイテ沖海戦について考える機会にはなるかなぁ〜と。
 
 
 
困った顔

「ニュースサイトの転載」はサービス終了になりました。

産経新聞に掲載されていたニュースです。
 
文民統制に不安を抱かせる事象がある?
 
文民統制をしてる方こそ、あまりにも危なっかしくて不安に感じますよ!
 
鳩山政権は、特に北沢防衛相は、国際情勢や安全保障に関してはあまりにも無知すぎ!
鳩山首相は、いったい何を考えて、この人を防衛大臣にしたのか?
 
だから中沢連隊長にあんなことを言われてしまうのです。
 
彼の発した苦言は、僕らのような国民も同様に感じていると言うことが何故分からないのか?
 
文民統制が危ないなんていってる奴こそ、ホントに危ない!!
 
旧海軍の小柳中将が海軍の高官に戦後聞き取りをした調査した資料が
完成から半世紀の時を経て刊行されるようで、刊行に先立って、
読みどころと専門家の評価が毎日新聞の3日・4日の夕刊で紹介されました。

■嶋田元大臣の多弁

 「サイレント・ネイビー」と言われるように、海軍は寡黙が美徳とされた。とりわけ徹底していたのが、元海軍大臣・軍令部総長の嶋田繁太郎だ。戦史に詳しい作家の半藤一利さんは59年ごろ、取材のため2度嶋田の家を訪れた。「玄関で、会ってはくれました。『閣下にお聞きしたいことがあって来ました』と言うと、正座して、こちらの顔をじっと見るだけで、ずーっと黙っているんです。何を話しかけても。それで5分も持たず帰ってきました」

 その嶋田が、小柳に対しては多弁だ。嶋田は開戦時の海軍大臣。戦争責任については「私が海軍大臣に就任したのは昭和十六年十月十八日で、もうこの時期となっては開戦は不可避であったから、私は開戦と云(い)うことに就(つ)いては何等(ら)責任を感じていない」と述べている。また敗戦後、東条英機元首相が自決しようとし失敗したのに対し嶋田は「どんなことがあっても自決はしない。世界環視の国際裁判において、天皇に責任のないこと、日本海軍は悪くなかったことを全力を尽くして明らかにせねばならぬ」と決意したことを証言した。またA級戦犯として拘置された巣鴨プリズンでは、東条が自決について「考えが浅かった。全く君の云う通りだ」と、「しみじみと述懐した」という。

 嶋田自身も東京裁判終了後「私の責務は一応終わりを告げたので、その時自決のことも考えたが、若(も)し自決でもすれば、すぐに諸外国から『それみろ、日本海軍は悪かったからだ』と後ろ指を指される結果となるので思いとどまった」と、揺れる心中を振り返った。

 ■生々しい戦場描写

 最前線で指揮を執った軍人ならではの、生々しい証言も目を引く。

 1944年10月、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を撃退するため、連合艦隊は4艦隊に分かれて海戦を繰り広げた。志摩清英中将は巡洋艦と駆逐艦合計10隻を率いて、米海軍が待ち受ける海峡に突入。戦闘の様子を「交戦部隊の一艦に小火災らしい火の玉を認めたが、爆発によるものか、その火災はにわかに広がって海峡全体をおおうよう」「(先に突入して米軍と交戦した)西村(祥治、中将)部隊の士気を鼓舞するため『当隊戦場到着』と打電したが何の応答もなかった」などと証言。

 さらに「(西村艦隊の戦艦)山城型と思われる艦体が火だるまとなって右前方に炎上しているのが見え、なおその前方に砲火の交換がみえた」と振り返る。また志摩の乗った旗艦「那智」は別の巡洋艦「最上」と衝突してしまい「ああ万事休すとは実にこのときの感じであった」と嘆息した。

 半藤さんは2度、小柳に取材したことがある。「『今、何かおやりになってるんですか』と聞いたとき『うん、まあ』というようなあいまいな返事だった」と振り返る。「まさかこんな大規模な聞き取りをしていたとは。第一級の資料で、もっと早く知りたかった」。半藤さんはそう話している。

■身内への気軽さ

 「同じ海軍だからか、マスコミの取材にはほとんど応えなかった者たちまでが率直に話していますね」。昭和史が専門のノンフィクション作家・保阪正康さんはそう話す。たとえば、戦後取材にほとんど応えなかったことから、「沈黙の提督」と呼ばれた井上成美だ。開戦時の海軍大臣・嶋田繁太郎を「大臣の器ではなかった」と切り捨てている。さらに「及川(古志郎、大将)さんは人格者には相違ないが、自分の意見を持たない人である。岡(敬純、中将)は政治家気取りで陸軍にかぶれ(中略)欧州戦争が始まってドイツの旗色がよくなると、バスに乗りおくれてはいけないなどと色気を出して、遂(つい)に太平洋戦争に突入させてしまった。まことに変なバスに乗ったものである」などと、手厳しい。一方その岡は、近衛文麿について「本当の政治家ではない。勇気に乏しい。コソコソものをやる癖がある」と批判。近衛の側近だった尾崎秀実がソ連(当時)のスパイ・ゾルゲの協力者だったことについて触れ「近衛首相のやったことは日本の政治史に汚点を残した」と断じている。

 ■記憶違いの恐れも

 提督たちのこうした率直なもの言いが「小柳資料」の魅力だが、証言のすべてが事実とは限らない。記憶違いや意図的に事実と違うことを言った可能性もある。また、本人に都合の悪いことについては沈黙を守ったかもしれない。

 たとえば福留繁・元連合艦隊参謀長が興味深い。1944年4月、乗っていた飛行艇がフィリピンのセブ島沖に不時着、米側ゲリラ隊に捕らえられ、機密書類を奪われた。福留は救助された際の気持ちを「一生中最大の感激であった」と振り返る一方、大失態である機密書類の件は全く触れていない。聞き取り側もこの点をただした形跡はない。「海軍同士、いわば身内だから率直な話を聞き出せるという利点はあるが、逆につっこみ方が甘くなってしまうこともあったはず」。半藤一利さんはそう惜しむ。

 また石川信吾少将は米英主戦派で「海軍最右翼」と呼ばれていた。日本軍の南部仏印進駐を強く主張したことはよく知られている。

 進駐は実施され、アメリカを硬化させて太平洋戦争につながったという指摘があるが、石川は「このような解説は間違っている」と断言、日中戦争を終結できなかったことが戦争の原因と反論した。半藤さんは「進駐が戦争につながったのは明らか。石川は、進駐してもアメリカは動かないとみていた。ところが見込みははずれた」と指摘する。

 「証言をうのみにするのは危険。読む側、活用する者の知識が問われる」(保阪さん)と言えそうだ。

 ■戦争責任論は回避?

 実際に戦った軍人として、敗戦の責任をどうみていたのか。半藤さんは「全体として、『悪いのは陸軍。海軍は引っ張られた』という主張をしている」と読む。嶋田繁太郎は「(48年11月に結審した)東京裁判(極東国際軍事裁判)において、海軍からは一名も死刑を出さなかった。これは、海軍が悪くなかったことが認識された結果と思う」と述べている。

 防衛省防衛研究所(東京都目黒区)戦史部の相沢淳・第2戦史研究室長は「海軍の戦争責任にかかわる点では、(聞き取り手は)はぐらかされている」と分析している。「東京裁判で、戦争責任は陸軍が重いという結論が下された。海軍側が、それをくつがえすような発言をする必要はなかった。でも本人の意図とは別に、本音がにじみ出ているのでは」

 戦争責任に関する「東京裁判史観」を揺さぶる。「小柳資料」は、そんな可能性も秘めているのだろうか。「刊行されることで、多くの研究者が活用できる。その意味は大きい」。相沢さんはそう話している。

聞き取りの対象者には、名だたる提督たちが名を連ねています。

夕刊での紹介では、あまりにもかいつまんだ事しか書いてないので、
実際の資料を手にとってみたいものだと、久しぶりに思ったのでした。



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寒風吹きさらしの艦橋を下りて、艦の後方へ〜♪

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甲板の真ん中に煙突が2本突っ立ってます。

当時の煙突は、少し傾斜のある大和型戦艦の煙突ではなく、
直立しています。
その動力は、SLと同じく石炭を燃料とする蒸気機関だったので、
機関室などは相当の熱気が艦内に充満するのか?

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こんな感じで、多分?排気管がいたるところにあります。

でもこれはロケセットなので、見せ掛けです。

甲板を歩いていくと、左舷には・・・

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僕もちょっと知らなかったのですが、司令長官・参謀長は石原軍団のようです。

舘さんの島村参謀長役は、ちょっと意外でした(笑)

もう一人の参謀長である加藤友三郎役は誰が演じるのかは未定のようでした。

そして反対の右舷には、

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速射砲です。
艦の側面から砲がでていて、ハリネズミのような感じ。

それは太平洋戦争時の戦艦などと比べると古風です。
どちらかといえば、秀吉の朝鮮出兵時に対抗した朝鮮の李瞬臣が率いた
亀甲船に近い感じもします。

そしてさらに艦尾のほうに行こうと思ったら・・・ありませんでした(笑)

艦からおりて、その周囲を周ってみると・・・

撮影で使ったロケセットの残骸らしいものが展示されてました。

ということは・・・既に相当先まで撮影が進んでいるらしい・・・

だったら、もう少し早く放送して欲しい・・・

そう思いつつ歩いていたら、もう出入口!

ある意味、拍子抜けしたのでした・・・・あ〜♪


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