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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
Yahoo!ブログも本日8月31日をもって実質的に終了となります。これまで弊ブログを御贔屓いただきありがとうございました

書庫東海・北陸の城郭

越前・加賀・伊勢の城郭です。以後、尾張・三河・美濃の城郭も掲載予定。駿河・遠江の城郭もアップしました!
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二の丸をうろうろして、紅葉山公園(紹介は省略)を簡単に見学して、やっとたどり着いたのが本丸跡です。
もともと駿府城は、その前身が今川館で、桶狭間以後、今川氏の滅亡、武田氏統治の時代を経て、本能寺の変後、そのドサクサにまぎれて駿遠三甲信の五カ国を領する事になった徳川家康によって、築城されました。
しかし、豊臣秀吉の小田原征伐による全国統一で、家康は関八州250万石へ転封となり、駿府城を離れました。
家康に代わって入城したのが、中村一氏でした。中村氏が関が原後に転封となり、一時期内藤信成を入れていたのですが、家康が征夷大将軍を三男である徳川秀忠へ譲ったあと、再び隠居城として入城しました。
その時、天正年間に築城した城域を拡張・本丸・二の丸を修築して、現在の駿府城・静岡市街の原型を作りました。
その後、家康が死ぬまでこの地にて大御所政治を行いました。
家康死後は、後の紀伊家当主の徳川頼宣が、頼宣が紀州へ転封後は、徳川家光実弟の徳川忠長が城主となりますが、忠長が改易蟄居となった後は天領として城代が置かれ、明治まで続きました。
明治後は、一時期徳川家達が城主となり、その後静岡市・陸軍連隊の駐屯地を経て、戦後にようやく公園として整備され、今の姿になりました。
特に残念なのは、陸軍連隊の駐屯で本丸が跡形も無いほどに破却されたことです。
練兵などは安倍川の河原でしていればとよかったのにと思います。

それくらいで駿府城の紹介はさておき、本丸跡ですが、上記の紹介どおり陸軍連隊駐屯のため、跡形もなく破壊され、今は本丸跡の石碑、鷹狩姿の家康銅像、家康お手植えのみかんの木、天守閣跡の案内板がある程度です。
特に天守閣は、あまりにも光り輝くために駿河湾の魚がいなくなってしまい、漁師たちが困ったという伝説があるほどです。また天守閣のつくりは福井城天守閣と同じく、天守台を天守曲郭とする形で天守台の中に礎石を置いて、その上に建っているような感じのものだそうです。

最後に今回、駿府城を見学して、それなりの城のはずなのに、本丸の遺構が無いのが残念でした。
でも将来的には、発掘工事を行って幕末の頃の駿府城の姿が再現されるのではと思います。

これで駿府城はおおよそ見学が終わったので少しホッとしたのもつかの間、デジカメの画面に”電池残量極少”のマークが!!!!それと時間も!!
まだ掛川城があるのに!!
もう少し撮影したかったですが、これ以上撮影すると掛川城で電池が持ちそうになかったので、撮影を中止し、あわてて静岡中央署裏に停めたクルマへ戻り、掛川へと急ぎました。静岡インターを手前にして雨が降ってきました、いやぁ〜な予感が・・・・。

写真は天守閣跡付近の様子、天守閣の模型(東御門内展示)、駿府城本丸跡石碑、家康お手植えのみかんの木(みかんがない!!)です。

駿府城二の丸

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東御門・巽櫓をでて、回ったというほどではないですが、二の丸を少し見学しました。
明治時代、陸軍の歩兵第34連隊が駐屯することになった際に、スペースの問題からか?、本丸の堀を全て埋め立て、天守台も切り崩して更地にしてしまったため、その場にいると本丸・二の丸の境目がよくわかりません。
近年二の丸水路が復元されたようで、
『これは本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ二ノ丸水路は本丸堀からの水を外へ流す目的で造られ、
水路両側は石垣で、底の部分にも本丸側約50mにわたって石が敷かれており、
底が洗い流されない非常に珍しい構造の水路。
石垣の下の部分は家康築城当初の石垣と考えられ、貴重な遺構となっている』
との事です。
そう考えると、駿府城の本丸・二の丸部分に関しては、それほど広いとはいえないなぁ〜と感じました。
敷地の広さで言えば二条城くらいの感じかなと。
これで本丸堀が全て復元されたら、もう少し立派な城跡になるかも?と思いました。

写真は、本丸跡付近から撮影した東御門と巽櫓、本丸堀、二の丸水路です。

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入場券を買い石段を登っていくと、そこにスノコ板があり、どうも土足厳禁であるようで、靴を脱いで下駄箱にいれ、いよいよ入っていくとそこには・・・・。

そこには、晩年の徳川家康の蝋人形?が!!!
それに驚いていると、入口に公園緑地課の女性職員とガイドのボランティアのおじいさんがいて、おじいさんが、
『これ、全然似てないだろう!』
といいながら、ちょっとした冊子を取り出し、
『これが岡崎の銅像の家康、こっちが浜松の家康像、これは全然似てねえ〜♪年取ってからのだから、しょぼいよ!よく見ると仲代達也に似せてるんじゃねえかなと思うんだよ〜♪なぁ〜なぁ〜!』と。
女性職員の方にも無理やり同意を求めるような感じで、求められた方はずいぶん困っているようでした(笑)
それから『×○△■☆◎〜♪ってどういう意味かわかる?』とたずねてきたので、
『さっぱり???』と答えると、
女性職員さんの手をつねって、『こういう感じのことだなぁ〜♪』
エロエロモード全開で、またまた職員さんは困っていました(笑)
そうこうしているうちに、無料音声ガイドはどうですか?と言われたのですが、既に時間は13:30近く。遅くても14時過ぎには静岡市内を出発しないと、遅くても掛川には15時過ぎに到着しないので、泣く泣く音声ガイドなしで、東御門と巽櫓の内部をまわってみました。
天下普請の築城だったので、どこの大名が築城に普請したのかとか駿府城特有のつくりの解説とか、寛永年間以降の駿府城の模型とか、駿府の工芸の紹介、東御門の屋根上にあがっていた鯱の展示とか。
そんなに広いスペースでは無いので、それほどではないですが、駿府の歴史がわかるようにしていました。
帰り際、例のおじいさんと職員さんが、何処から来たのと言うので、『奈良から』というと驚いてましたねぇ〜♪まさか日帰りとは思ってないようでしたが。

余談ですが、この駿府・掛川日帰りの旅から帰ってきて、たまたま香取慎吾司会のサタスマみていたら、黒澤明の映画紹介していて、その中で紹介された『乱』のワンシーンに仲代達也が・・・!
似てる〜!!!あの東御門の玄関にいた家康と!!
あのおじいさんの言ってたことは確かだということに・・・・(笑)

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三の丸にある静岡県庁を抜けると、そこには二の丸を囲む堀がありました。
堀端を少し歩くと、堀の角に巽櫓が。更に角を曲がりきると二の丸東御門が!
いよいよ駿府城跡に到着です!
巽櫓は1989年に、東御門は1996年に寛永年間の姿を再現する形で復元されました。
それは、昨年秋に訪問した金沢城の菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓よりも先に復元されたので、金沢城の復元にも参考にされたのではと。
堀にかかる橋を渡り、東御門の虎口に入ると、確かに天下普請で作られた城に相応しい大きさで、大阪城の大手門ある虎口よりも多少小さいものの、その石垣も切込ハギ積で隙間無いようにつまれていて、その技術の高さを物語っているようでした。
東御門をくぐり抜けると、そこはだっだ広い公園になっていて、城跡の周りを官庁や学校が取り囲んでいるので、一種のオアシスのような感じでした。

ところで、この巽櫓と東御門は、静岡市公園緑地課の管理下にあり、その内部を公開していたので、200円の入場料を払って入ってみました。
そこには・・・・・。

柴田神社

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福井城跡で最後にまわったのが、城跡の南側にある柴田神社です。
この辺が福井城が築城される前にあった北の庄城の本丸跡らしいのですが、
今のところ、それが事実であるのかどうかさえもハッキリわかっていません。
福井城が築城されてからは、この辺りが城郭の南端であった様で、三の丸の門があったみたいです。
今は、信長の家臣で、朝倉氏滅亡後〜賤ヶ岳合戦敗北後までこの越前を中心に治めていた柴田勝家を祭る柴田神社の境内となっています。
今回は、遺構や案内板が雪に覆われて見えない箇所だらけで、よくわかりませんでした。
今度は、春になってからでも再訪して確かめたいと思いました。

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