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先日の『JRで行く日帰りプラン 味の味覚』で訪問した場所の一つである高岡古城公園こと高岡城跡を紹介します。
高岡駅から万葉線に乗り10分程度でたどり着いたのが、急患医療センター前。
そこから住宅街を歩いて数分。
幅20mくらいの堀のふちに出ます。
この堀の向こう側が高岡城跡。
高岡古城公園公式HPによると
加賀前田家二代の利長公は、天正13年(1585)から13年間、二上山にあった守山城の城主でした。慶長3年(1598)に利家公の後を継ぎ当主となり、同10年(1605)には隠居して富山城に移りました。同14年(1609)3月の大火により城を焼失し、当時関野と呼ばれていた地に新しく城をつくることにしました。 高岡城は、キリシタン大名であり、築城の名手として有名な高山右近が縄張(設計)したと伝承されています。 利長公は、「詩経」の一節からこの地を「高岡」と名付け、同年9月に高岡城に入城しました。その5年後、利長公は死去し、元和元年(1615)、城は一国一城令により廃城となりましたが、三代利常公は、利長公の意をくみ、城郭の基本構造を残しました。また、まちにおいては鋳造産業の奨励、布・魚・塩などの物資の集散地とし、城下町から商工業のまちへと転換を図りました。当時城跡は、町民から「古御城(ふるおしろ)」と呼ばれ、現在では、高岡古城公園として市民の憩いの場となっています。
当家先祖?二代目が隠居城として築城しました。その没後は廃城となりはしましたが、その後、城下町は商工業の町として、また加賀百万石の西越中での拠点として発展し、現在の高岡市の中心となっているようです。
堀を越え城内へ〜♪
堀の内側は土塁が盛られており、それは結構な高さです。
駆け上がるとそこはいきなり本丸。
と言っても、これと言った建造物はありません。
その昔は御殿くらいはあったのでしょうが、それ以外は蔵があった程度のようで、
天守はなく、櫓もあったのかさえ不明とのこと。
あえてそういうの建造物を造らなかったのでしょう。
さて説明はそこそこに。早速歩くと、本丸広場の片隅に・・・・
甲冑に身を固めた武将が騎乗した銅像があります。
当家の先祖?の二代目です。
凛々しい顔で遠くを見つめておられます。
それに比べて、その子孫(自称)は・・・(笑)
その隣には、
これも当家?二代目をたたえた?記念碑のようです。
高岡の町のつくった方ですから、こうして称えられるのでしょう。
結構な広さの本丸ですが、その半分は射水神社が占めています。
この日はお正月からも日数が経ち閑散としています。
隣接する会館では結婚式などもできるようです。
二の丸の方へいくと、そちらには、
護国神社がありました。
こちらは全く人気がなく、さらに寂しい感じ。
あまりにも寂しいので、こちらを参拝してから、高岡城跡を後にしたのでした。
その先には、高岡の名所のあれが・・・
これは奈良市民からするとあまりにも・・・・あ〜♪
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東海・北陸の城郭
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詳細
越前・加賀・伊勢の城郭です。以後、尾張・三河・美濃の城郭も掲載予定。駿河・遠江の城郭もアップしました!
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金沢城を巡るのもいよいよ最後です。
その最後に、この日一般公開されていた石川門へ〜
金沢城訪問は3回目ですが、石川門に入るのは初めて。
修復工事中のため、ところどころ工事用の防塵幕で覆われています。
こちらも入ってみると、三十間長屋同様に屋内には照明が設置されていないので、かなり暗いです。
でも石川門の方は、その周囲をさえぎるものが少ないこともあって、まだマシなほうです。
こんな感じです。ただしアチコチに段差があって要注意
ある箇所から外をみると
石川門の枡形を見ることができます。
このアングル、石川門に付属する櫓に入らないと撮影できないです。
また瓦屋根は、酸化すると白くなる鉛を利用しているので、見事なほどに白いです。
で、この鉛瓦ですが、出入り口付近でサンプル品を触らせてもらったのですが、非常に軽いです。
特に冬に雪が積ると、建物に相当の加重がかかるので、この軽量な鉛瓦は有効的なようです。
またこれを溶かして、鉄砲玉にするとかいう話もあるようですが、それはウソなんじゃないでしょうかね?
瓦をはがしたりすると雨漏りとか起こして、それこそ意味がないような気がします。
それに加賀百万石の当家?も、ここまで攻め込まれてきたなら、もうそれは終わってるでしょう。
約10分程で、石川門の外へ、今度は向かいの あの庭園 へ向かうのでした。
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河北門や菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓などを、三の丸・二の丸の復元建築を訪問した後、
いよいよ本来ならば金沢城の中枢であったはず?の本丸に入ります。
有名な城郭だと、本丸は結構きれいに整備してあるのですが、金沢城については、どうも様子が違う。
むしろ放置された感がします。
それは築城後、何度も大火にあい、また手狭であった本丸は、使い勝手が悪かったのか、
いつ頃からかはよく分かりませんが、城郭の中枢としての位置を放棄してしまった?
放棄させられたようです。
そんな放置プレイ的な本丸に残っている唯一の建築物の遺構があります。
三十間長屋です。
金沢城の遺構としては、石川門・鶴丸倉庫と並ぶ建築物で、重文に指定されています。
それで、この日は内部を一般公開していましたので、早速入ってみたのですが、
こんな感じ。
何故か照明はなく、採光を取り入れる窓も少なく、歩くことすら薄暗くて危ない感じ。
せっかく公開しているんだから、照明設備くらいは何とかしてほしかった・・・・
外部から電気コードを引っ張ってきて、要所要所に照明を設置するくらいわけないと思うんですが、
重文の内部だとそれもできないですかね?う〜ん
照明がないため、相当歩きにくいです。段差が分かりにくい。
明るくないから、木組みのどうなっているのか、よく分からない。
これまで何も言われてないのが不思議です。
そんな状態で、よく分からないので、すぐに出ました。
いよいよさらに奥へ〜
本丸は完全に放置され、その後金沢大学の植物園になった経緯もあり、全くの森です。
今となっては天守台の位置すら分かりません。
ここまでになると、おいそれと発掘もできないようです。
そんな本丸内の片隅に
日露戦争にまつわる石碑がひとつ。
忘れ去られた感じがします。日露戦争は、もう過去のものどころか日本史の片隅に追いやられているみたい。
そこで立ち止まっても仕方ないので、どんどん進んでいくと
鯉喉櫓台を眼下に望めます。以前は、
こんな感じでした。
こうしてみていくと、金沢城の復元は着々と進んでいるみたいですが、本丸だけは完全に忘れ去られている、
そんな風に思えるのでした。
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旧第六旅団司令部跡から、金沢城の実質的な中枢部であった二の丸へ〜♪
その象徴ともいえる菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓へ入ってみます。
外観については、これまでも紹介しているので割愛して、今回は、そこからの眺めをアップしていきます。
まずは菱櫓からの眺め
河北門を見下ろしています。
こうして河北門の全体像をみると、さすが加賀百万石に相応しい城門ですね。
位置を変えて五十間長屋からも撮影してみました。
こちらからだと、もっと立体感があるように見えます。
橋爪門続櫓に行くと、
発掘調査と櫓門の復元工事を同時に行っているようです。
今度のお国入り?の時には、復元されていると思われます。
金沢城は、徐々に往時の威容を取り戻しつつあるようです。
そんな金沢城ですが、次は何故か忘れ去られた様な場所へ向かいます。
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