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高速料金・燃料代を合わせた金額を上回る程の御土産を買い込み、 これまで以上に早い帰宅のため、敦賀駅から敦賀インターを目指します。 すると途中に これまで何度か敦賀を訪問しておきながら、何故か行けてなかった場所。 早速、案内板の通り向うと・・・ どうもJR貨物の敦賀港オフレールステーションの近くに・・・ そばにはちょっとした駐車場があり、そこがどうも金ヶ崎城跡のPらしい? 気が早い〜♪ まだ今年の大河『龍馬伝』の放送が始まったばかりですが、 敦賀では、もう来年の大河『江 〜姫たちの戦国〜』を見込んだ動きが見られます。 ここは、織田信長が朝倉氏攻めの際に陣を敷いた城で、ここで信長は、浅井長政に嫁いだ妹の お市の方から送られた両端を紐で結んだ小豆袋をみて、浅井長政の裏切りと知り、 一目散に朽木経由で京へ逃げ帰ったというエピソードのある城でもあります。 その際の撤退戦が『金ヶ崎の退き口』と言われ、何しろその撤退戦では、 羽柴秀吉・明智光秀・同盟軍の徳川家康までが殿(しんがり)を務めたという 有名なものです。 ここでの浅井長政の裏切りは、確かに浅井三姉妹の運命を左右するものであったのは、 間違いない事実ではあるでしょう。 Pにクルマを停め、城跡に臨みます。 敦賀湾に突き出した小高い丘の上に城跡があります。 と言う訳で、このクソ寒い中、登らなければなりません。 先日からの雪も多く残り、歩きにくいです。 司馬遼太郎氏の『功名が辻』の一節が、掲げられています。 これが世に出る関門なのかどうかは不明ですが、 登っていけば何か得られるはずと思い登っていくと 金崎宮という神社がありました。 「縁結び・恋愛成就」 「難関突破」 「開運招福」 「金運招福」 上記のことに御利益があるそうなので、賽銭箱に5円玉をいれて祈願しましたが・・・ 5円玉を投げ入れたので、御縁には、やっぱり縁がないかも?(泣) 参拝して、さらに登城路を駆け上がっていきます? 駆け上がっていくは、多分正確ではなくて・・・ 喘ぎながらが正確かも? 運動不足の身には堪えます。 途中に堀切のような窪みがあったりしますが、それがホントにそうなのか不明? 疲労困憊になり、這っていく感じで登っていくと 月見御殿跡、いわゆる本丸に到着! もうギブアップ寸前!! そこからは、敦賀湾が一望できます。 金ヶ崎城は、敦賀湾の港と北国街道の押さえる重要拠点だということが、 ここからの眺めでよく分かりました。 少し息を整え、今度は下ります。 相変わらずしんどいです。 雪で足をとられそうになり、かなり危ないです。 途中、土木会社の人が重機を利用して整備しています。 来年の大河を当て込んでいるらしいことが、あからさまに分かりますが、 どうなんでしょうかね? 30分ほどかかり、やっとの思いでPへたどり着きました。 結論としては、ただただ体力の低下を思い知らされるだけの登城でした(笑) |
東海・北陸の城郭
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詳細
越前・加賀・伊勢の城郭です。以後、尾張・三河・美濃の城郭も掲載予定。駿河・遠江の城郭もアップしました!
コメント(14)
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いつ訪問しても理解できない板蔵ラーメン工場付属のドライブインを ラーメンも食べることもできずに出発して向ったのが、 高山の市街地のはずれにある小高い丘が、その城跡です。 城跡の中腹くらいにPがあり、そこへクルマを停めると、 ちょっとした児童公園みたいなのがあって、そこに、 金森長近の馬上姿の銅像があります。 高山城の築城者こそが彼で、この城は彼以後6代目の金森頼時まで、 金森氏の飛騨一円を支配する拠点でした。 しかし高山城は、元禄年間の1692年に金森氏が出羽上ノ山へ転封となった後は、 隣国の当家預りを経て、1695年には飛騨国が天領となったため、 その役目を終え廃城となりました。 廃城と決定してからは、徹底的に破却されたためか、Pの周辺には遺構らしいものが見当たりません。 というわけで、登城開始! いきなりハイキングコースのよう登城路です。 薄暗い森の中をさまよいます。 木陰になっている登城路ですが、真夏なのでさすがに暑い〜♪ でも前日の春日山城跡のときとは違い、十分の睡眠がとれていたので、 順調に登っていきます。 Pを出発して20分くらい。 本丸に到着。しかし、少しだけ石垣が残る程度で城跡らしい雰囲気は感じられません。 本丸の真ん中には、 本丸の想像図があり、それをみるとその構造は、姫路城や和歌山城と同じ連立式。 でも規模は小さく、天守も二層三階という小ぶりなもの。 でも何にもないので下城することに・・・ 登城した道とは違う道を下りて行きましたが、どうも道に迷ってしまったようで、 城跡のどの辺りにいるのか全く分からなくなってしまいました。 さまよい歩いていると、たどり着いたのが、 城門跡らしい場所、桝形になっているみたいですが、よく分かりません。 さらに下りていくと、やっと住宅地に出ましたが、 どうもPからは、かなり離れた場所に下りたようで・・・ Pに戻るのに、さらに15分くらい歩きました。 ヘロヘロです。 自販機でミネラルウォーターを買い、一気に飲み干して・・・ 疲れました。けど、まだ訪問するところが、そして帰宅しなければ・・・ |
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草ボウボウの城代屋敷の先にある上水道用のタンクの裏にあった筒井天守跡を確認してから、 ついにたどり着きました伊賀上野城天守閣! 何故か天守閣の大きさのわりには天守台がやたら大きい? もともとは、五層の層塔型天守が建てられる予定だったらしいけど、 暴風雨のため建築途中で崩壊、以後必要もなくなったので再建もされなかったとのこと。 伊賀を領した藤堂氏も本拠は安濃津(津)に置き、 伊賀上野城には城代をおいて統治していたため、 だから、このお城には城主がいたことは殆んど なかったみたいです。 江戸時代を通じて、伊賀上野城には天守閣がなかったわけです。 そんな伊賀上野城に、昭和に入ってから地元の名士である川崎代議士が、 私財を投じてまで建てたのが、今ある三層の天守閣で、それも木造での復興! 天守閣内は、伊賀の文化・名産品を展示できるようにしたらしく、 当初は伊賀文化産業城と称していたみたいです。 天守閣内に入るとまずは、初代藩主の藤堂高虎が、お出迎えしてくれます。 1階には藤堂氏所縁の品々がいろいろ展示されてあります。 写真の兜は、藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領した『唐冠形兜』と言われるもので、 この兜は、後に高虎が一族の藤堂良重に下賜したものらしく、良重はこれを被って、 大坂夏の陣に出陣したということですから、いかにも皮肉ですなぁ〜♪ それにしても、どうみてもこんなバランスの悪そうな兜を被って出陣したとは 到底思えないのですが・・・馬上でひっくり返りそうな気がしますが・・ そして1階の展示物をみて2階・3階へ向かったのでした・・・
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玉泉院丸から出て、いよいよ金沢城の新しい顔とも言える『菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓』と向かいました。 2001年に江戸後期に再建されたモノを、資料をもとに復元したものです。 とにかく長いです。 全体をおさめて撮影するのは難しいです。 どこか切れてしまいます。 その中でも菱櫓は三階の物見櫓で、二の丸にありながら天守代用となっていたと思えます。 早速内部へ入ってみます。 木造復元なので、当然、土足厳禁です。 靴を袋へ入れて持ち歩きます。 カメラを使う身にとっては不便極まりない、下駄箱くらい整備して欲しかった・・・ 長屋櫓でもあるので、やたら奥行きがあります。 そんな中に金沢城の模型が、 当時はいろんな建物があったようですが、天守閣はないのが、 加賀百万石の城郭としては、少しさびしい。 でも当時の大藩であった薩摩藩の鹿児島城、仙台藩の青葉城には天守閣がなかったので、 そんなものかとも思えないわけではないとも・・・・ それより石高では格下ともいえる尾張藩・肥後熊本藩・安芸広島藩・播州姫路藩などでは、 立派な天守閣をもっていたわけで・・・くやしい。 それをみて、さらに長い長い長屋櫓を歩いていきます。 橋爪門続櫓にたどり着きます。 その最上階へ登るため、袋に入った靴を所定の場所へ置いて登ると こんな感じです。 外をみると雲行きが怪しくなってきていました。 ヤバイヤバイ・・・ 慌てて急階段を下りると・・・靴がない!! 誰か持っていったらしい? 櫓内のボランティアガイドの人に声をかけて、とり間違えた人を探してもらいました。 僕の前に登っていた中年夫婦の奥さんが間違っていたのがわかり、ホッと一息。 慌てて櫓からでると雨が・・・・ それもかなり降ってきました。 さてさて、どうしようか・・・・ これだと散策してみよう思っていた武家屋敷群へはいけないなと・・・ その時、この雨なら何とかいけるかもと思ったのが、あの場所でした。
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