|
田辺城水門跡・白浜の白良湯・志原海岸・潮岬灯台を経て、 たどり着いたのが新宮城跡です。 新宮城跡は、昔からお城山と呼ばれ、郷土の文豪・佐藤春夫の小説「わんぱく時代」の舞台となったところでもある。新宮城は元々丹鶴姫が住んでいたということから「丹鶴城」、または、熊野川河口の先に太平洋を眺められることから「沖見城」とも呼ばれる。平安時代(今から1,000年ほど前)当地を治めていた熊野別当が別荘を建てていたこの場所に、新宮十郎行家が始めて城を築いたともいわれる。 正式には、1,601年・浅野忠吉が築城に着手したのが始まりである。同年、浅野忠吉は寺地を城地にするために、東仙寺、崗輪寺(宗応寺)を他所へ移転したとある(紀伊続風土記)。1,615年(元和元年)の一国一城令で廃城を命ぜられるが、場所的に重要な城として、3年後再建を許可された。翌年、忠吉が三原に移封したため築城工事が中断したが、紀州徳川家の付家老・水野重仲が新宮を領することになり、工事が引き継がれた。1,633年(寛永10年)第二代城主・重良の時に一応の完成をみた。小さいながらも、地元の熊野酸性火成岩を用い石塁を積み上げた優美な平山城が竣工した。小粒だが完成度が高く、日本一の名城とも言われたようだ。惜しくも1,871年(明治4年)廃城となり、1,875年(明治8年)には、建造物がすべて取り壊された。大正年間には、堀も埋め立てられ丹鶴町ができた。現在の正明保育園の場所は「二の丸」と呼ばれ、領国支配の政庁の中枢機関があったところで、その向かいのNTT跡は、城主の日常的な屋敷があったところである。登城のための大手道は、二の丸の北側(川寄り)からカギ形に屈曲して松の丸に登るもので、鐘の丸を経て本丸に至るようになっていた。 今は、昔の栄華をしのぶお城の石垣だけが残されている。石垣の石積みは目を見張るほどの美の極致を表現している。国の史跡指定がなされているので国宝級のもの。今で言えば最高級の技術集団の作品である。なぜこのように優れたものが造られたかといえば、徳川家ゆかりの重要な城であったため念入りに造られたからである。位置的に紀州と尾張の中間にあったこともそのひとつだといわれている。新宮藩のランクは3万5千石だから下級であるが、実質は数十万石もの力があったとも言われている。 水の手郭には港があり、軍港とともに経済的物流港の役割も果たし、上質の炭や鯨油を江戸に販売していた。炭は江戸の炭消費量の3割を賄ったといわれる。第九代城主・水野忠央(ただなか)は、他藩が羨む大富豪であった。 新宮市観光協会より 熊野川沿いの小高い丘の上に城跡があります。 クルマを城跡のある丘の中腹にあるPに駐車させ、その上にある本丸?へ登城してみます。 階段は緩い傾斜ですが、早朝から殆んど運転していたので、この程度でも結構堪えます。 階段に沿って積み上げられた石垣には、殆んど隙間がないです。 相当高度な技術でもって、積まれたものと思われます。 本丸の天守台付近に足場が組み立てられ、そこには掛川城天守閣をモデルとしたような 絵が描かれたおおいが被せられています。 どうも天守閣の復元工事の最中のようで、天守台も一旦解体されているみたいで、 周囲に石がゴロゴロ、天守台そのものにも近寄れないようにトラ模様の柵が施されています。 そんなことなので、遠路はるばるやってきた新宮城跡でしたが、 まともに見れところがありませんでした。 二の丸へ下る方へ、ちょっと行ってみました。 多分、城門跡か虎口の一部なのでしょう。 ここも見事な隙のない石垣です。 石垣の積みつけも、ここまでくると極まっています。 そのまま二の丸へ下ってもよかったのですが、また同じ道を登ってPまで戻れるような気力はなく・・・ そのまま来た経路を逆戻り〜♪ 再びフリードのハンドルを握り、これからは奈良への帰路になりますが、 これが久しぶりにきついものとなったのでした・・・・ |
関西の城郭
-
詳細
大和・近江・摂津・山城・播磨・紀伊の城郭です!
コメント(23)
|
和歌山港を出発して、次に向ったのが岸和田城でした。 紀ノ川を渡り、孝子峠を越え、さらに国道26号線をひた走り、1時間余り。 やっと到着しました。 住宅地と高校の敷地に囲まれた閑静なところにあります。 だんじり会館の隣にあるPにクルマを停め、城内へ向います。 現在、遺構が残っているのは本丸と二の丸だけなので、 すぐに本丸へ入城です。 城門をくぐります。 城門をくぐると、こんなものがあります。 大きな釜ですが、何に利用したのわかりません。 案内板があるので、何か書いてあったはずですが、ロクに見なかったのでわかりません。 ちょっと歩くと 天守閣が見えてきます。 三層の天守ながら、破風も派手です。 もともとは五層の天守があがっていたらしいけど、 江戸後期に落雷で消失。 以後、現在の天守が1952年に復興されるまでの約120年間は、 天守台のみだったようです。 入ってみると、内部はどこでも同じように、岸和田城関係の資料や 歴代藩主の、特に在城が長かった岡部氏の甲冑などの展示が多かったです。 あんまり興味がないので、さらに上階へあがってみます。 三層なので、また大阪城・名古屋城・姫路城、そして熊本城といった メジャーな城の天守閣ではないので、速攻で最上階です。 真ん中に岸和田城の模型があるだけです。 高蘭があるので、出てみます。 城の西側には、遠くに海が見えます。 当時はもっと近くまで海が迫っていたのではないかと思います。 どちらの方向も見晴らしがよいです。 あまりゆっくりしてるわけにもいかず、天守閣をおります。 本丸をでて、その周囲をまわってみました。 本丸の北東へまわってみると、本丸の石垣は、かなり改修されているようで、 アチコチがちぐはぐ、本丸そのものも当時とは面積が違ったのでは? さらにすすむと 本丸の東側になります。 当時は木橋が架かっていた様ですが、今では荒廃しています。 ここを修復すれば、見栄えもよくなるかも? さらに南側へ〜♪ こちらは石垣の積み方もきめ細かいというかピッチリした感じでした。 これで、岸和田城訪問も終わり、滞在1時間余り。 奈良へ帰るのでしたが・・・・
|
|
さらにさらに足を進めたどり着いたのが、 彦根城内にある大名庭園。 江戸時代初期(1677年)、彦根藩4代藩主井伊直興により造営された大池泉回遊式日本庭園で、 彦根城天守の北東は琵琶湖の水をひいた内濠と中濠の間に位置する。 中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、 「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭された。国宝天守を借景とし、 中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、 八景亭など趣のある建物が配されている。 ウィキベディアより 大名庭園というだけさすが!! 当家の兼六園には及ばなくても??? 庭園の一番奥に立って、天守閣の方を眺めると大名気分にひたれます。 そんな玄宮園を後に、今回の最後の見学場所、それは、 たかが馬屋と思うことなかれ!! 重要文化財で、城内に残る馬屋はここだけ。普段は非公開! 今回の400年祭で特別公開されています。 中にはいてみると、さすがに馬は・・・と思ったら、いた。 ハリボテ風の馬が!! 普段、馬なんか見ないので、結構大きいなと思ってみていたら、 これはポニーみたいな馬で、サラブレッドに比べると一回り小さいらしい。 解説を読むと藩主用の馬が10頭ほど飼育されていたということ。 今でいうなら、ベンツやフェラーリなど10台くらい所有している感じなのかも? 馬屋なので、見てまわるのはあっという間。 隣の仮設小屋で近江牛 牛丼を買い、駐車場へ〜♪
彦根を後にすることに・・・・。 |






