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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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書庫関西の城郭

大和・近江・摂津・山城・播磨・紀伊の城郭です!
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彦根城天秤櫓

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駐車場にクルマをとめ、いよいよ築城400年の彦根城へ!

前回訪問時は、お城の南側にある表門から入城したのだけど、
今回は駐車場の関係で、西側の大手門跡から。

もともとは大手門のあった西側が彦根城の正面だったのが、
年月が経ち、中仙道などの整備により南側の表門が正面となったため、
こちらは何か、荒れた感じ。

堀を渡り、大手門跡の虎口を抜け、券売所でセット券を購入、
くの字に折れ曲がると、そこは真っ直ぐな坂道。

登りきると、そこが天秤櫓の下。

螺旋状になる登城路をさらに歩き、天秤櫓の門前へ!

この櫓って、どんないわれがあったのか、改めて思いおこしてみた。

天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれた櫓です。
この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。
けれども詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではありません。このような構造の櫓は他に例がありませんが、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門としての堅固さを感じさせます。 
 
大手門と表門からの道が合流する天秤櫓の下は、鐘の丸から天守へと伸びていた尾根を、築城時の縄張りによって大きく断ち切った箇所で「堀切(ほりぎり)」と言います。堀切には橋が架かっていますが、この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できません。戦となれば、この櫓が果たす役割は重要でした。
天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の歴史書である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記しています。昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることや、往時の長浜城主内藤家と伝える紋瓦なども確認されていますが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っておりません。
天秤櫓はおよそ400年の長い年月の間に、幾度か修理を重ねてきました。中でも嘉永(かえい)7年(1854)の修理は大規模で、建物のみならず石垣まで積み替えています。

国宝 彦根城築城400年祭HPより

そう、彦根城はあらゆるものがリサイクルな城、
建築物・石垣の石は近辺の廃城となった城から集められたものばかり。
天秤櫓も廃城となった長浜城から・・・。

でもよくみると、天秤櫓というわりにはバランスが悪い?
中に入ってみるシンプルな作りと言いたいところだけど、
今日はWADA EMIさんなる方のデザインした衣装の展示が・・・。
権利関係のあるものばかりで、肝心な内部撮影ができず・・・あ〜〜♪
ちょっとガッカリして・・・
WADA EMIさんの展示は、他にも西の丸三重櫓でも開催されていて、
こちらのほうは興味ひく内容でしたが、それはまた後日に。

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和歌山城天守閣

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東堀端で天守閣を含む和歌山城の遠景を撮影し、東堀沿いに歩き、大手門をくぐり、
二の丸庭園・西の丸を遠めにみて、いよいよ九十九折の石段を駆け上がり、
たどり着いたのが、和歌山城天守閣です。

駆け上がった虎伏山全体で本丸とし、その山頂を平らかにして、
東側を本丸御殿を中心とする郭を、西側を天守閣を中心とする天守郭にて
構成されています。
要するに、本丸はさらにその中に郭があるという二重構造になっているのです。


駆け上がって、

寄る年波には勝てないのか?


完全にへばってしまい、天守郭に入る前に休憩所でお茶を飲み、アイスを食べて、一息。
以前はこんなことなかったのに・・・。

やっと呼吸を整え、いよいよ天守閣のある天守郭へと入りました。

天守閣の構造は、姫路城と同じく天守閣・小天守・乾櫓・二の御門櫓・楠門などを
多聞櫓で連結した連立式天守で、楠門を閉門すれば、それだけで要塞化できる構造になっています。

郭内へ入ってみると、ちょっとした庭みたいなのがあって、その奥に天守閣への入口が口をあけています。
それにしても、何かずんぐりむっくりしたこの天守閣。
その理由は御三家と言えど危険視されていた紀伊家では、
幕府からあらぬ嫌疑をかけられない様に、
広大すぎると言われた総構えともども五層天守の建築を放棄。
天守台は五層天守閣用に築かれていたので、
その幅に合わせて無理やり三層天守閣をあげたため、
こんなずんぐりむっくりとした天守閣となったようです。

その天守閣も江戸後期に落雷で炎上。
当時、吉宗以来、紀州系となった将軍家から特別に再建を許可され、
1850年に再建されました。
しかし、しかしです!
太平洋戦争末期の和歌山空襲で、国宝に指定されていた天守閣他は焼失。
1958年に、今の鉄筋コンクリート製で再建されたのです。
その中は、どこでもお馴染みの藩主・藩士の甲冑・刀剣・御殿内を飾った美術品・古文書が
展示されてました。
いろいろあったのですが、取り立てて気を引くような展示もなく、
眺めが見たくなったので、天守閣の最上階へ!

あがってみると広い最上階!早速望楼部分へ!
南側・東側・北側の順番で回っていき、最後に西側へ!

その向こうには、

傾きかけた日の光に、キラキラと輝く太平洋!!


よく考えると、城跡から海が見えるところって、ないんですよ〜!

ブログを立ち上げてから訪問した城で
海が見えたのは、和歌山城が初めてだったと。

ふと思うに、吉宗は、この眺めを見ながら、実は天下を狙っていたじゃないかと。
そう考えると、この城も出世城といわれる浜松城に負けない出世城だったかも?

そんな眺めに見とれているうちに、日はますます傾いてきて・・・。
もう季節は夏を過ぎ、秋になってしまったのかと・・・。
シーズンも着々と近づいているのだと。

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和歌山城天守閣を東堀の片隅から撮影して、堀に沿って城の北側へと向かいました。

東堀の沿いには、裁判所・検察庁・中央郵便局が建ち並んでおり、
どこの城跡でもそうなのですが、城の周りは官庁関係が多いです。

さて、やっとのことで城の北側にたどり着きました。
大手門跡です。

大手門というわりには、堀にかかる木橋と高麗門があるだけで、櫓門はなく、
御三家の城にしては、やはり何か物足りない大手門です。

高麗門式の大手門を抜けると真っ直ぐにのびる通路となっており、
100mほど歩いたところに枡形虎口が!
このあたりに櫓門があったらしい?
虎口の石垣をみるも、それほど大きい櫓門があったとは思えない。
近所の大和郡山城の追手門程度の大きさだったのでは?
でも、その大和郡山城の追手門も、今、復元されているのは豊臣秀長在城時のものなので、
百万石の格式に相応しいし、そのくらいの大きさなら紀伊徳川家55万5千石の居城としては、
相応以上の格式であったともいえるかも?

さらに本丸・天守郭を頂に持つ虎伏山を囲む石垣沿いに歩いていくと右手に二の丸が!

現在、二の丸は庭園なっていて、その昔は金沢城・名古屋城など他の城と同様に、
この場所に藩庁があり、後に将軍になる吉宗なども、ここから藩政を指揮していたのです!
広さは思ったほど広いわけもなく、僕が通っていた高校のグランドくらいの広さで、
よくこの狭い敷地内の藩庁で55万石の藩政ができたものだなと。

二の丸を過ぎ、さらに歩いていくと西の丸があったのですが、
想像以上に日が傾くのが早く、西の丸は已む無くパスして、
虎伏山にある九十九折となった石段を登り、天守閣を目指したのでした・・・・。
これが、予想以上にしんどかった・・・・、あ〜♪

写真は大手門跡、藩庁跡の二の丸庭園、西の丸庭園内の鳶魚閣、
西の丸と二の丸をつなぐ御橋廊下です。

和歌山城へ

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道の駅から国道24号線をクルマで走ること約1時間。

やっとのことで、当初の目的地である和歌山城へ到着しました。
城跡の南側にある不明門跡内にあるスペースがPになっていて、そこに駐車して、早速探索へ!

広島城跡と同様に城内に設置されている護国神社の横を通り、朱塗りの追廻門から一旦城外へ!
城跡外周の西側から南側へ向かうと、三年坂通りをはさんだ向こう側に県立近代美術館・県立博物館があり、その前に

紀州藩主から第8代将軍に転じた徳川吉宗の馬上姿の銅像が!


ここ和歌山では、やはり暴れん坊将軍こと、徳川吉宗は英雄なのでしょうか?
奈良には、この手の英雄も有名人もおらず、著名な歴史上の銅像はないので、
ちょっとうらやましい!!

さらにクルマを駐車させた不明門跡から東へと空堀沿いに歩いていくと、
搦手門として築造された岡口門が!
割と小ぶりな櫓門ですが、築造年代は徳川頼宣が紀州入部当初のもので、
和歌山城で今も残る数少ない建築物です。
しかし、御三家の城門としては何か心もとない。
御三家なんだから、大坂城大手門ばりとまで言わなくても、
二条城東大手門くらいはと思うのですが・・・。
でも、御三家の一角である紀州徳川家ですが、どちらかと言えば紀州入部の理由は、
当時の将軍である徳川秀忠が、次男の徳川忠長を駿府に入部させるために、
それまでの駿府城主だった異母弟の頼宣を紀州へ追いやったというのが、
実のところの話のようで、また器量のある頼宣を東海道の要衝においておくのは、
危険だと感じたこともあったようです。
事実上の左遷的意味合いもあったと考えられますね。

それはそうとして、御三家の城郭でありながら、徳川頼宣が紀州に入部した経緯にもよるのでしょうが、
名古屋城の様な天下普請の城郭ではなく、それまでの城主だった豊臣家・浅野家の築城修築したものに、
堀や石垣に手を加えた程度であったみたいです。

岡口門を見て、さらに東堀沿いに北上、いよいよ大手門へ・・・・。

写真は追廻門・岡口門・東堀沿いから眺めた天守閣です。

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赤穂城跡二の丸

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本丸門・御殿跡・庭園・天守台と見て、ついに本丸から出ることに。

厩口門と言われる裏門から二の丸へ。
高麗門で構成されている厩口門付近では、僕と同じように一眼レフを持ち歩くお城ファンらしき人が、
しきりにシャッターを切っていました。
僕も数枚撮影し、本丸の堀沿いに歩いてみました。
本丸を取り囲む堀の内側は石垣で覆われ、5万石程度の大名の城としては異様に贅沢な構えとなっています。
本丸の縄張りは甲州流軍学に基づき、不定形な五角形で、僕も今までいろんな城郭を見てきましたが、これはチョット不可思議な感じがしました。
さらに足を進めると、もうひとつの裏門といえる刎橋門跡が!
ここには跳ね橋が架かっていたようで、今は付近の石垣は復元されていますが、
跳ね橋までは復元されず、本丸との間には堀が横たわっています。

そこから少し歩いたところに米蔵を模した休憩所があり、ペットボトルのお茶を飲むため休憩。
座って前を見ると、そこにも門跡が・・・。
水手門跡です。

水手門は、川に面していて、その昔、城内へ物資を搬入するための役割があったのか、
船着場として機能も有しているみたいでした。
ここから、米や特産の塩、海産物などが運び込まれたのでしょう。

一息ついて、水手門から二の丸をでて、いよいよ赤穂城跡の総括として、隣接する赤穂歴史博物館へ向かったのでした。


写真は厩口門・刎橋門跡・水手門跡です。

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