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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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書庫関西の城郭

大和・近江・摂津・山城・播磨・紀伊の城郭です!
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赤穂城跡天守台

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さてさて、大池泉を中心とした大名庭園でちょっとした大名気分?を味わい、
さらに足を進めると、本丸内の隅っこにポツンと存在するのが天守台でした。

独立式の天守台で、何か物寂しげに築かれていましたが、その石垣の積み方は立派で、
これを算木積みというのでしょうか、ピッチリと積み上げられており、
石垣積みの技術の完成された段階でのモノといえるのではと思えました。
しかし、天守台こそ築造したものの幕府への遠慮で天守は建造されなかったとのこと。

隅っこに石段があったので駆け上ると中段で石段はなくなり、
そこから上には鉄板の仮設的階段が・・・。
としたら、普段は天守台上までどうやって登っていたのか?

よく聞く話に、江戸期の各藩の藩主は、在任中にほとんどが天守に登閣したことがなかったとか?
登る必要もなかったので、天守台上までの石段は必要なかったのか?
それなら何で天守台を築造したのか?
単なる見栄か?
それにしても、莫大な資金を使ってまで築造する必要があったのか?
確かに築城当初は、塩の専売制などで潤沢な資金があったのかも知れないけど、
たかだか5万石程度の大名では、それもしれた資金であったはずで、
塩田開発や上水道整備に振り向ける方が有効ではなかったか?

それにしても謎の多い天守台ともいえます。

それはそうと、天守台上に立って周りを眺めると、結構見晴らしが良いではありませんかぁ〜♪

遠くには野球場の照明設備・工場の紅白煙突が!
昔は、すぐそばまで海が入り込んでいたようなので、
瀬戸内海や塩田が広がっていたのではと想像できました。

眺めをみながら少しお腹も空いてきたので、時計をみると13時。
予定よりも時間をオーバーしていたので、いつもながらあわてて天守台をおりて次の場所へと向かうのでした。

赤穂城跡本丸庭園

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塩屋門跡をみて、次は本丸へ!

赤穂城跡は、現在、そのほとんどが空き地となっている三の丸・二の丸家臣屋敷跡、
二の丸庭園の整備をしていて、どこもかしこも工事中。
塩屋門跡からは見晴らしがよく、本丸庭園の入口である本丸門も遠くによく見えました。
以外に近いのかなと思い、歩いてみるけど思ったよりは遠くて・・・。
本丸門までたどり着いた時にはヘバッていました。情けない。

この本丸門、赤穂市教育委員会の資料によると

長方形の内枡形を備え、一の門である櫓門と二の門である高麗門の2門で構成されている。
明治時代の廃城時に取り壊されてしまったが、1996年に復元された。

ということで、最近の流行の木造復元で、これまたGood!
この日はたまたま櫓門内の特別公開日で内部も見ることができました。
内部には、赤穂城跡整備の記録と城外から引いていた上水道の遺構が少し展示されてました。

本丸門をくぐると、そこは御殿跡で、東大史料編纂所に保管されていた御殿間取り図を参考に間取りが復元されてしました。
これをみると、それなりに御殿の様子も分かるのですが、やはり丹波篠山城のように御殿そのものの復元もと・・・。
そう思いながら、御殿間取りの復元の上を歩いていくと、そこには大池泉と言われる池を中心とした庭園が広がり、さながら大名になった気分にも・・・?

さらに足を進めて行くとそこには・・・・。

赤穂城塩屋門跡

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大手門跡をみて、一旦、大石神社まで戻り、さらに反対側にある塩屋門跡へ行ってみました。

搦手門である塩屋門は、大手門跡の様には整備がされておらず、門跡の虎口の石垣も道路拡張のため、一部撤去されていて、こちらの方が古城然とした雰囲気が残っている感じ。

塩屋門跡の内側には、有力家臣の屋敷跡が板塀で区分けされていて、また場所によってはそこに住んでいる方もおられるようでした。
基本的には、整備地域に指定されているようで、将来的にはこの辺りにも武家屋敷などが復元されるのではと思わせる様子でした。

赤穂城大手門跡

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大石邸跡にある大石神社をでて、向かったのが赤穂城大手門跡です。

ちょうど大石神社の裏手が、その大手門跡の虎口で、その場に立ってみると、
「え〜〜!!これが高々5万石程度の大名の城の大手門なのか!!」
はっきり言って、立派過ぎます!!5万石あまりの大名の城にしては、分不相応に大きな大手門です。

今は、大手門跡には、高麗門とその横に隅櫓が復元されているだけで、櫓門は復元されていないのですが、その櫓門の石垣から想像できる櫓門の大きさは、近所の大和郡山城の追手門ぐらいの大きさはあったのではと・・・。

田辺城跡(舞鶴市)

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福知山城を後に、次に向かったのが西舞鶴にある田辺城跡でした。

再び、若狭舞鶴道へ乗りなおし、舞鶴西インターを目指しクルマを走らせました。

クルマも少なく、気持ちよくクルマを走らせていると、トンネルがあり、その上の山が丸ハゲ?
だんだんトンネルに近づいていくと、よく見ると山頂が古墳になっているようで、周りを葺石で覆ったり、ハニワで囲っているようでした。
そんなところもトンネル掘って走ってるんだぁ〜と感慨にふけっているうちに舞鶴西インターへ到着。

多分国道だと思うけど、その道に入り、いざ西舞鶴へ!!

西舞鶴駅のすぐそばだということは、地図を見て知っていたけど、
うる覚えな記憶を頼りに走ると、やっと城門前に到着。
道を挟んで向かい側が、京都府警舞鶴警察署だったのには驚きました。

城門の裏側に少しばかり駐車スペースがあったので、そこへクルマを駐車し、
道を挟んだ舞鶴署前より城門を撮影。

城内へ入って、天守台跡を探すと、それはクルマを停めた横にあり、
地面から2mくらいの高さしかなかったので、ガッカリ。
城門内の資料館でもらった資料では、基底部より4.5mの高さというので、
今の地表より低い位置から天守台があったのが判明しました。

その他、隅櫓から続く本丸石垣を見ると自然石・荒削り石を石垣に用いていて、
これも資料から古式の穴太積であることがわかりました。

あんまり広い敷地ではないので、それらをあっさり見て資料館である城門内へ。
休みでもあまり来場者もいないのか、展示室は僕一人だけ。
田辺城を築城した細川幽斎・忠興父子のこと、
その後城主になった牧野氏の資料・遺品などを展示してあり、
この辺の感じは、前述の福知山城と変わりませんでしたが、
何せ城門内の一室が展示室なっているだけで、その数は少なかったです。
そんな展示室なので、展示をみて、エアコンがよく効いていたので涼んでから、
城門内を出ました。

そして、やっと今回の目的地へ向かうのですが・・・・・・。



沿革



戦国時代


1578年(天正6年)織田信長の命によって建部山城の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧した細川藤孝(幽斉)がこの地を与えられ、宮津城を居城としつつも、交通の要所をおさえるべく田辺城を築かせ、嫡男の細川忠興が入城させた。

田辺城攻防戦


1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いが勃発すると、当主になっていた細川忠興は石田三成率いる西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢した。 隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城、怒涛のごとく攻め入る西軍を迎え撃った。田辺城はすぐさま小野木重勝率いる西軍・1万5千人もの大軍で包囲されると、50日にも及ぶ激闘を繰り広げられた。激闘の末、弾薬が尽きた藤孝は自身のもつ「古今伝授の書」が戦火で忘却されるのを恐れ、それを後陽成天皇に献上した。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は撤退し、落城をまぬがれた話はあまりにも有名である。


江戸時代


こののち細川忠興は九州小倉に転封され、京極高知が12万3千石で田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移した。京極高知の遺言によって京極家は嫡男・高広が宮津藩7万5千石、次男・高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、養子・高信が峰山藩1万3千石を相続した。
京極氏は3代続いた後、豊岡藩へ転封となり、代わって牧野親成が1668年(寛永8年)3万5千石で入封すると、田辺城の大手門はじめ他の城門・石垣などを大改築し、それを代々世襲し明治の時代まで繁栄した。

現在の田辺城


現在、田辺城跡は公園になっており、1940年(昭和15年)に復興された二層櫓の彰古館、1997年(平成4年)に復興された城門には田辺城資料館、天守台石塁などがある。

ウィキベディアより

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