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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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書庫歴史一般

時代を問わず、歴史一般について語ります。

最近は歴史からもめっきり遠ざかってしまっています。
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井伊直弼像

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今回の彦根訪問もいよいよ終盤、埋木舎を離れ、大名庭園の玄宮園を目指し、
一旦、佐和口多聞櫓を経て内堀沿い歩いていきました。

すると、向こうから何やら仮装した人達が!
何の仮装かわからないけど、江戸時代風の衣装を着た人が歩いてくるです!
でも学芸会風の仮装?
カメラを向けると気持ちよく対応してもらい、
自宅に帰ってから確認するといい感じの笑顔!!

それはさておいて、さらに足を進めると桜並木の広場の奥に

井伊直弼像


あんまり大きな像でもないけど、やはりその功罪はともかく、
彼は郷土の英雄なんだと。

彼の夢見た日本とは、どんなものだったのだろう?と
そんなことも思ってみたりも。

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彦根城博物館

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今回の目的だった井伊の赤備え鉄砲隊 演技を観賞し終わって向かったのが、
表門横にある

彦根城博物館


外見は表御殿を再現したもので、一部は木造。

中に入ると、フロントというかロビーのような造りで、
その奥にカウンターがある。
右手に行くと展示室へ〜!

いきなり、井伊家の井伊家たる

赤備えの甲冑


関ヶ原の戦いで活躍した井伊の赤備えの様子を描いた屏風などなど

ふと壁をみると、

ストロボ利用しないこと


ということ、ストロボを使わなければ撮影も可ということ?

早速、警備のおじさんに聞いてみると、曰く、そのとおりと。

というわけで甲冑・屏風をストロボを使わずに撮影。

ストロボを使うほうがガラスに反射したりして、よくなかったかも?

他にも茶道具・能道具、掛け軸・古文書・調度類などなど。

井伊家の先祖伝来の品々が数多く展示されている。
これだけでも、その一部らしい。
こうやった品々が残っているのは驚いた。
こういう博物館あるのは、彦根市の市長も熊本県と同じく殿様だった所以か?
でも熊本のほうは、そんな感じはあったかな?
それにしても保存状態が良好なのは素人でもよくわかる。

じっくり見ていたわけではないけど、ここで1時間ほど経過。
そろそろ彦根も後にする時間が・・・。
でもでもまだまだ話は続くのであった〜〜!!

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彦根城城内、開国記念館と見学し、今日のメイン!!

井伊の赤備えの鉄砲隊


いよいよ登場!!

武田氏滅亡後、本能寺の変の混乱を経て甲斐国は徳川家康によって平定されるが、
その折に武田家の旧臣達を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。
武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、
これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。
井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。
以後幕末に至るまで井伊家の軍装は赤備えをもって基本とされた。

ウィキベディアより

実はこの日、僕は鉄砲隊の演技があることは知らなかった。
たまたま大手門跡でチケットを買うときに、タテ看板があったから知っただけ。
それにしても、今回の訪問は運がいい!

開国記念館をでて、開催場所の表門横の土塁が見える堀端へ

既に堀端は人だかり、何とか真正面の桜の木の下に陣取れた。
隣には、築城400年祭のスタッフらしいおばちゃんが、
三脚を立てて陣取っていた。
よく見るとレンズは望遠!!

何で?望遠?


こちらは通常レンズだったので、試しに覗いてみる。
それほど距離がある堀の向こうの土塁上が、意外と遠く見える。
どうも人が立って小さくしか写らないようだと判明!

今日は、本丸から伊吹山でも撮影しようかと持ってきていた望遠レンズに換装。

おっ〜!これならいける!

というわけで、ギリギリで準備完了!

正午、井伊の赤備え鉄砲隊が登場!!

紹介のあと、火縄に火をつけ、構え!!

放て!


の号令で一斉射撃!!

発射音と火薬の煙がすさまじい!

観光客から拍手喝さい!

その後、釣瓶撃ちと膝をついての射撃と披露!!

その轟音に、戦国時代の合戦を少しばかり想像することもできたような?

演技終了後、鉄砲隊の方との撮影会もありと、なかなか楽しめたひと時でした。

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3月の半ばに購入した新書です。

普段なら2日程度で読破しているであろう本なのですが、
最近、あまりの疲れに読む気力もなく、簿記の勉強などもしていて、
先日やっと読みきりました。

サブタイトルは、

本能寺の変・新たな視点


本の帯表紙には、

決断をためらう明智光秀の、背中を押した影の男とは?


その遠因を、織田政権の四国政策の転換と、明智家重臣の斉藤利三にあったのではないかと推察。

本願寺が大坂から撤退した天正8年(1580年)くらいから、
光秀が取次ぎしていた四国の長宗我部氏への転換、すなわち友好関係から対立関係へ。
それは長宗我部氏による四国切り取り次第と方針から、東四国半分の織田家への領国化と、
長宗我部氏の改易へと大きく政策を転向であり、それに伴う取次ぎ役の光秀の織田政権内部での
地位の低下。
その長宗我部氏と婚姻関係のあった明智家重臣の斉藤利三が、
光秀の家臣となった経緯による信長との対立。

大きくは、その二点になると思うのだが、詳細は割愛します。
新たな本能寺の変への見解が述べられた名著だと思います。

謙信恐るべし

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4日夜にあったその時歴史が動いたで、ついに武田信玄のライバルである

上杉謙信


が取り上げられた。

一般的に本屋などへ行ってみても、武田氏関係の書籍は多いのだけど、
幕末まで大名家として存続した上杉家関係の書籍は意外と少ない。
研究者も武田氏は、取り組む人が多いようだけど、上杉氏は少ないように感じてきた。

そんな中であったのが、今回の放送。

越後の龍・上杉謙信。生涯70回以上の合戦でほとんど負けたことがない戦の天才である。
しかし、謙信の戦は決して私欲からではなかった。
彼は、戦国乱世の秩序回復を本気で志し、助けを求められば労を惜しまず駆けつけた。
その一方で、争いをなくすために国を豊かにしようと特産品の開発に力を注ぎ、
越後を経済大国に押し上げた。この謙信を恐れたのが織田信長だった。
信長が謙信に贈った「洛中洛外図屏風」。
近年の研究で、この中に足利将軍邸に向かう謙信の姿が描かれていることが判明した。
そこには、必死に謙信に媚びを売る信長の心が透けて見える。
しかし信長の勢力が大きくなるにつれて、両者の関係は崩れていく。
謙信は信長と対立する足利義昭や毛利氏と「反織田同盟」を形成、その盟主となる。
そして加賀・手取川で最初で最後の頂上決戦を繰り広げる。
謙信は、この戦いで信長自慢の鉄砲隊を完全に封じ込め、
織田軍の精鋭部隊を完膚無きまでに打ち破り、信長を窮地に追いつめた。
ところが謙信は その直後に死去。歴史は再び信長を中心に回り始める。
信長が恐れた武将、上杉謙信の知られざる実像に迫る。

これまで上杉謙信は、戦術家として比類のない存在と考えられ、
内政面ではいまいちと思われていたようだけど、それは本当は違い、
内政面でも金山開発・特産品開発の奨励・日本海貿易の振興で
莫大な富を得ていたということ。

上杉家に伝わる『洛中洛外図屏風』は、謙信が足利将軍家を訪問した時の様子が
描かれていること。

手取川の戦いでは、夜襲でもって織田軍を撃退。
信長を恐怖せしめたこと。

特に今回で、意外に思ったのが、上杉家の経済力の源泉。
これは、想像以上のものだったらしい。
だからこそ、信玄に塩を送ることにも躊躇しなかったのかも?
(塩の専売は莫大な富をもたらしたのでは?)

『洛中洛外図屏風』の真意。

手取川の戦いでの戦術。

この中で、疑問なのが手取川の戦い。

この戦い、上杉氏側の資料にしか存在しないし、織田氏側に記録がない。
太田牛一の『信長公記』にも記載がなく、あったのかどうかも疑わしい。
ちょっと大きな小競り合いくらいだったのかも?
放送では、少し大げさに考えすぎてはいないかと・・・。

それはそうとして、謙信時代の上杉氏は大きな力を有していたことが
改めてわかったような気がしたのだった。

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