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年明けから、弊ブログでもお世話になっている「SACの部屋」のSACさんが紹介をしている日光例幣使街道について、興味深く読ませていただいているのですが、SACさんの指向性もあってか、その歴史的な経緯は記載が見当たらないので、一体どういった経緯でその街道が作られたのか、ちょっと調べてみたら、これが結構面白いことが分かったので紹介してみたいと思います。
以下はウィキペディアより参照
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。
現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、下都賀郡岩舟町、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。
簡単に言えば、朝廷から日光東照宮に捧げ物を奉納に行く勅使が通った街道で、始まったのは江戸時代の前期、1646年というから三代将軍徳川家光治世の末期。
しかし、この仕事は選ばれた公家の間はあまり好まれなかったらしく、
日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は往路は東海道・江戸を経由せず、中山道〜倉賀野宿〜例幣使街道という内陸経由で日光に向かった。帰路は日光街道で南下し江戸を経由して東海道にはいり帰京するのが慣習であったが、安永5年(1776年)と天保14年(1843年)には帰路も中山道を使っている。
単にうっとうしいものであったようです。
その鬱憤晴らしかどうかは定かではないけれども、朝廷と幕府の権威を笠にして、
日光例幣使は普段は貧乏な下級公家であるが道中では朝廷と幕府の権威を一身に背負ったため大変な権勢を誇った。公務であるため宿場や助郷村は無賃で道中に協力させられ大変な迷惑をこうむったという。以下のような話が伝わっている。
街道沿いの人々にずいぶん阿漕なことをしていたらしい。
そのひとつの行為が、今にも通じる『強請(ゆすり)』の語源になっているとのこと。
いろんな所に、いろんなことの由来があったりして、調べてみるとお〜っと思う事が多くて、歴史の意外性を今更ながら感じたのでした。
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歴史一般
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時代を問わず、歴史一般について語ります。
最近は歴史からもめっきり遠ざかってしまっています。
コメント(6)
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産経ニュースからです。
終戦へ共産国家構想 陸軍中枢「天皇制両立できる」
ベルン駐在中国国民政府の武官が米国からの最重要情報として「日本政府が共産主義者たちに降伏している」と打電した背景には何があるのか。陸軍中枢にはソ連に接近し、天皇制存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を結び、共産主義国家の創設を目指す「終戦構想」があった。
鈴木貫太郎首相(肩書は当時)は昭和20年6月22日の最高戦争指導会議で、ソ連仲介の和平案を国策として決めた際、「(共産党書記長の)スターリンは西郷隆盛に似ているような気がする」と、スターリンを評価する発言をした。
この発言に影響を与えたとみられるのが、首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、4月に国家再建策として作成した「終戦処理案」だ。松谷氏は回顧録『大東亜戦収拾の真相』で「スターリンは人情の機微があり、日本の国体を破壊しようとは考えられない」「ソ連の民族政策は寛容。国体と共産主義は相容れざるものとは考えない」などと、日本が共産化しても天皇制は維持できるとの見方を示していた。
さらに「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる」として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。
同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案「今後の対ソ施策に対する意見」でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結(2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる(3)ソ連、中共と同盟結ぶ−と書かれている。
陸軍内の動きについて、近衛文麿元首相は20年2月、「国体護持にもっとも憂うべき共産革命に急速に進行しつつあり、共産分子は国体(天皇制)と共産主義の両立論で少壮軍人をひきずろうとしている」と上奏文で天皇に警告した。
また、真珠湾攻撃目前の16年10月、ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲの協力者として逮捕された尾崎秀実は「(われわれの目標は)コミンテルンの最終目標である全世界での共産主義革命の遂行」で、狭義には「ソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している。
岸信介元首相は、25年に出版された三田村武夫著『戦争と共産主義』序文で「近衛、東条英機の両首相をはじめ、大東亜戦争を指導した我々は、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だった」と振り返っている。
■“愚策”の謎を解く一次史料 半藤氏
昭和史に詳しい作家、半藤一利氏の話「愚策といわれる大戦末期のソ連仲介和平工作の謎を解く一次史料だ。当時、統制派を中心とする陸軍中枢が共産主義(コミンテルン)に汚染され、傾斜していたことがだんだんと知られ、大本営の元参謀から『中枢にソ連のスパイがいた』と聞いたことがあったが、それを裏付ける確証がなかった。近衛上奏文など状況証拠はあるが、直接証拠はなかった。英国が傍受解読した秘密文書で判明した意義は大きい。米国の情報源は、ベルンで活発に諜報活動をしていた米中央情報局(CIA)の前身、戦略情報局(OSS)欧州総局長、アレン・ダレスだろう。当時、米国と中国国民党政府は、日本の首脳部が赤化していると判断していたことがうかがえる。ベルンで米国側からピースフィーラー(和平工作者)の動きが出てくるのは、こうした認識から戦争を早く終わらせ、アジアの共産化を防ぎたかったからだろう」
■日本を転換する周到な工作 中西氏
コミンテルンの浸透工作など大戦期のインテリジェンスに詳しい中西輝政京都大学名誉教授の話「英国立公文書館所蔵の機密文書の信頼性は高く、第一級の史料である。第三国のインテリジェンスで、日本の指導層とりわけ陸軍中枢にソ連工作が浸透していたことを浮き彫りにしている。米国の最重要情報源とは、OSSのアレン・ダレスで、日本に対するOSSの分析だろう。また当時は国共合作していたため、武官は、中国共産党員の可能性もある。統制派を中心とした日本陸軍の指導層にはソ連に親和性を感じ、ソ連共産党に通じた共産主義者(コミンテルン)がいて、敗戦革命を起こして戦後、ソ連型国家を目指す者がいた。ゾルゲ=尾崎事件では、軍部は捜査を受けず、人事も刷新されず、コミンテルンによる浸透工作が継続していた。『ヴェノナ』文書により、米国のルーズベルト政権ですら、200人以上のソ連のスパイないし協力者がいたことが判明したが、防諜が弱かった日本でも、総力戦体制の中でソ連の浸透が進んでいた。ソ連を頼り、和平を委ねたのは、日本を共産主義国家へ転換する周到な工作だったとも考えられる」
今読んでいる『終戦史』にも、少しばかりこの話が掲載されていまして、
当時の陸軍部内のこれまでには知られることのなかった状況が分かり、
う〜ん、メカラウロコ的展開に驚いてしまいました。
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既に一昨日の事になりましたが、8月15日の終戦記念日にNHKで放送された特集番組に見入ってしまいました。
終戦 なぜ早くきめられなかったのか
敗戦から67年を迎える太平洋戦争。その犠牲者が急激に増加したのは、戦争末期だった。勝敗はとっくに決していたにもかかわらず、なぜもっと早く戦争を終えることができなかったのか。当時の日本の国家指導者の行動や判断には、多くの謎や不可解な点が残されている。今回NHKは研究者の共同調査で、戦争末期の日本の終戦工作を伝える大量の未公開資料を、英国の公文書館などから発見した。それらによると、日本はソ連の対日参戦を早い時期から察知しながらソ連に接近していたこと。また、強硬に戦争継続を訴えていた軍が、内心では米軍との本土決戦能力を不十分と認識し、戦争の早期終結の道を探ろうとしていたことがわかってきた。1日でも早く戦いを終える素地は充分に出そろっていながら、そのチャンスは活かされていなかったのである。番組では、戦後に収録されながら内容が公開されてこなかった当事者らの肉声証言なども検証し、重要な情報が誰から誰に伝えられ、誰には伝えられなかったのかを徹底分析。国家存亡の危機を前にしながらも、自己の権限の中に逃避し、決定責任を回避しあっていた指導者の実態を浮かび上がらせる。国家的な岐路における重要な決定をめぐる課題について、識者討論なども交えて考えいく。
ナレーターに俳優の竹野内豊さんを起用し、終戦工作の実像に迫っていくいう内容。
今回のそれはかなり興味ある内容。
大学時代、卒論のテーマにしていた内容だったから。
当時は、なかなか資料がそろわなくて、特に陸軍側の資料が乏しかったため、
特に阿南陸相・梅津参謀総長の考えが分からず、結局は高木海軍少将の資料や
木戸日記、当時発表された?『昭和天皇独白録』などを利用した海軍よりからの
アプローチしか出来なかった。
今回の放送では、前述の高木少将の未公表資料や陸海軍・外務省・宮中関係者の証言等も織り交ぜ、
今まで想像でしかなかったこと、意外な発言など結構『お〜!!』と思うところも見ていて多かったです。
特に阿南陸相が、陸相秘書官との会話の中でかなり早い段階から”終戦”を模索していた事が、
僕的には意外でした。
彼は不器用でいわゆる”腹芸”が出来ない人だと思っていたのですが・・・・
それと梅津総長の当時の戦力に関する奏上と昭和天皇と梅津総長とのやり取りですね。
これをきっかけに昭和天皇がイニシアティブをとって、少しずつ軍部、特に陸軍を終戦の方向へ
引っ張っているように改めて感じました。
それと今も昔も変わらないのか、全く情報の共有化が出来ていないこと。
いや、する気すらなかったこと。
陸軍・海軍のかなり高度の情報収集・分析能力を全く信じていない外務省、
収集した情報が戦争継続を根底から覆すモノばかりで、それが漏れたら組織そのものが
崩壊しかねないと危惧し、保身を図る陸軍・海軍。
あれもこれも、今の日本のアチコチにもあるような事が・・・
結局、あの戦争から何の教訓も得ていないと、見ていてつくづく感じ入ったのでした。
放送を本でまとめたものが出たら、読んでみたいなと思った番組でした。
いろいろ書きたいけど、何かまとまらないのでこれくらいで。
※再放送
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6月3日、久しぶりに天保山へ行ってきました。
と言っても、海遊館ではなく、今回は旧サントリーミュージアムで開催されている
ツタンカーメン展 〜黄金の秘宝と少年王の真実〜
行って来ました。
好評なのか、大阪開催は7月16日まで延長されています。
東京では8月4日から上野の森で開催されるとの事。
行ってみると、まだ10時過ぎにも関わらず1時間待ち。
それを知ると、普通ならモチベーションがかなり下がりますが、ここでは入場券を提示すると、
整理券を手渡され、記入された指定時間にまた戻ってくれば良いとの事。
11:20が入場開始指定時間なので、それまで1時間程度のんびり出来ます。
と言っても退屈なので、海遊館の裏手にある海の見えるベンチに座って、港内を眺めます。
沖合には、接岸待機の貨物船が数隻。
それも気がつくと、いつの間にか見えないところへ行ってしまったり、接岸して積込みしていたりしていました。
そして30分ほどすると、いつの間にか、
天保山ではお馴染みのサンタマリア号が入港してきました。
そんな風にのんびりしている横を、何やら意味ありげな車両が海遊館前広場へ向かっていきます。
何だろうと気になったので、ベンチを離れ、そちらへ向かうと・・・
財務省・大阪税関・大阪府警・海上保安庁合同の『密輸阻止』キャンペーンのひとつのようです。
レガシィB4のパトカー仕様車
機動隊のバイクも登場〜
搭乗している隊員さんは、婦警さんです。
男性でも乗りこなすのが難しいであろう車体を軽々と乗りこなしています。
そして振り返ると、広場の向こうで、
天保山では、こちらもお馴染みの大道芸してはりました。
この日は、火
こっちフラフラ、あっちフラフラしている間に時間が
やっと入館です。
館内に入り、展示室の入口まで行くと・・・黄金の髑髏
かなり小ぶりな頭蓋骨
何か良いことあるかも知れないので、頭蓋骨をなでてから展示室へ
入ってみると、まあいろんな展示品が並んでいます。
イス、チェスト、壷、容器、儀式用の小道具などなど。
こういった品々、よく考えると正倉院宝物と似てるような気がします。
洋の東西・時代を超えて、上層階級の考えることは同じ様な気がします。
そして最後に、ツタンカーメンの曾祖母?の棺が登場。
これが全体黄金。
これを見ると、この展示会の主役は、ツタンカーメンではなかったのではないかと思ったりも
展示室を後にして、次は売店へ〜♪
何となく気になって・・・・買ってしまいました。
ツタンカーメンメン(しょうゆ味/しお味)
いかにもふざけたパッケージングの絵柄、それがまた安物のインスタントラーメンに見えるんですが、
これがかなり高価で、315円/1袋〜
どう考えてもボッタクリ的な商品ですが、ついつい買ってしまいました
(買ってもらったと言う方が正解かも?)
そうこうしているうちに14時。
少しばかり遅いですが、この後、昼食へ向かったのですが・・・・
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