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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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書庫歴史一般

時代を問わず、歴史一般について語ります。

最近は歴史からもめっきり遠ざかってしまっています。
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が傾く中、GHQがその拠点を設置した旧第一生命館を確認して、皇居外苑へ〜
 


 
その真ん中付近に、凛々しく騎乗するひとりの武将が・・・・
 
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楠木正成公銅像
 
楠木正成こと、俗に楠公と尊称されている鎌倉末期〜南北朝に活躍した武将です。
 


楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は新政側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年には正一位を追贈された。


ただそれ以後、彼の評価はコロコロと変わります。
 
北朝・南朝のいずれに正当性があるかということによるものですが、
明治になってから、南朝が正当とされると忠臣としてたたえられ、
皇国史観の中で大きな役割を担うことに・・・・・
 
馬上の姿は非常にカッコよいですが、当時はこんな馬には乗っていなかったでしょう。
馬は、どうみてもサラブレッドですから(笑)
 
時間がありませんので、次へ向います。
 
そこは記念撮影の定番の場所です。
 
 

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特別展 『龍馬伝』を鑑賞し、次は常設展です。
 
本来は、常設展がメインのつもりで訪問したのですが、やはり流行にはかないませんでした
 
常設展入口のある6Fへ向います。
 
EVから降りると、五街道の基点である日本橋が架かっています。
 
イメージ 1
 
橋の上からは、
 
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中村座です。
 
落語家さんが、落語されています。
 
日本橋を渡ると、そこは江戸ゾーン
 
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寛永年間の町人地の様子をジオラマで再現〜
 
当時の活気ある江戸が表現されています。
 
その反対側では、
 
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江戸城の周囲を取り囲んだ大名屋敷を再現しています。
 
壁際には、
 
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こんな方もいます。これは誰だったかわかりませんが、もしかすると太田道灌かも知れません。
 
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こちらは、言えずとしれた狸親父です。
6Fはここまで。
5Fの展示室へ向います。
 
5Fは、江戸時代の江戸の町を紹介しています。
 
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版画絵を売っている町屋です。
 
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江戸の下町の賑わいを再現したジオラマ。
 
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吉原辺りの花魁でしょうか?華やかな江戸を再現しています。
 
しばらく歩くと、先程渡った日本橋が頭上にやってきます。
 
イメージ 13
そこからは、明治以降の東京が再現されています。
 
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明治から大正にかけての東京がジオラマで再現されています。
 
道路の真ん中に敷設されえているのは、路面電車の軌道ではなく、馬車鉄道のそれみたいです。
 
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こちらは、ニコライ堂です。

ニコライ堂( - どう、英語表記:Holy Resurrection Cathedral, Nicholai-do)は東京都千代田区神田駿河台にある正教会大聖堂である。イイスス・ハリストス復活を記憶する大聖堂であり、正式名称は「東京復活大聖堂」。「ニコライ堂」は別名であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア修道司祭(のち大主教聖ニコライにちなむ。
建築面積は約800平方メートル、緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴であり日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式教会建築といわれる。1891年に竣工し、駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。1962年6月21日、国の重要文化財に指定された。

 
しばらくまわると今度は、
 
イメージ 5
 
こちらは、浅草にあった凌雲閣です。

凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京浅草にあった12階建ての。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。12階建てだったので「浅草十二階」と呼ばれたほか、「浅草凌雲閣」という名でも知られている。
関東大震災で半壊し、解体された。


 
今ならさしずめ、東京タワーか東京スカイツリーに匹敵するのでしょう。
 
凌雲閣の高さは約52mだったらしいので、東京タワーは、その6.5倍くらい?
東京スカイツリー(完成時)なら、その12.5倍くらい?になります。
 
東京の人達は、周囲に山がないので、こうしたランドマークを欲したのかも?
 
その後、戦中戦後のコーナーを巡り、ようやく常設展を終了。
 
ケータイで時間を確認すると、13時前。
 
かなり時間オーバー気味です。
 
慌てて江戸東京博物館を後にして、総武線の電車に飛び乗り、
九段下のあの神社を目指します
 
 
 
 
東京スカイツリー・雷門・浅草寺・浅草界隈と巡り、ここからがもともと訪問しようと思っていた場所へ向います。
 
浅草橋で地下鉄から、またJR総武線に乗り換え、大相撲で有名な両国へ〜
 
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国技館の最寄り駅だけのことはあり、力士の肖像画が掲げられています。
 
しかし、今回は相撲を観戦に来たわけではありません。
 
幟だらけの国技館の横をすり抜け向ったのが・・・・
 
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江戸東京博物館
 
大河ドラマの放送と連動して、特別展 『龍馬伝』 が開催されていました。
 
そのためか、入館してみると結構混んでいました。
 
特別展の展示室は、撮影禁止のため写真がなく、ここに掲載できないのが残念です。
 
『日本を今一度せんたくいたし申候』
 
姉の坂本乙女宛の書簡とか、龍馬が暗殺された
 
『近江屋』の一室を原寸大で再現
 
その他にも、幕末維新を奔走した龍馬自身やその周辺の人物の書簡など、
時間があればじっくりと見たかったのですが・・・
 
まだ午前中だというのに、時間がない
 
本来の目的の常設展へ慌てまくって向ったのでした・・・
ヲタクの聖地 秋葉原を離れ、この日の宿所となる上野へ向います。
 
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北の玄関口 上野駅は、降り立ってみると東京駅とは違う、何か旅情と昭和の懐かしさを感じさます。
特に在来線特急の発着する地平ホームの13番〜17番は、ターミナルと言うに相応しい佇まい。
 
この雰囲気は、上野駅以外にはないでしょうね。
 
そんなこんなで感慨に浸っておりましたが、とりあえずは宿所〜
 
マルイシティの裏手にあるホテル丸谷です。
 
チェックインして部屋に入ると、ホッとひと息。
 
そんな時、思い出したのが、鉄道博物館へ行く時に乗換えをした赤羽駅?で見た気になる広告看板。
 
イメージ 3
 
 
『細川家の至宝』  東京国立博物館 平成館
 
看板を良く見ると 〜金曜日は午後8時まで開館〜 
 
それを思い出したのが、17時過ぎ。
 
地図をみたら、さほど遠くない?
 
フロントで東京国立博物館までどれくらいと聞くと
 
フロント>国立博物館なら歩いて15分くらいですかね?
 
それならもう既にパンパンになった足を引きずってでも行けるかな?
 
という訳で、言ってきました。
 
イメージ 4
 
博物館までの道程にある上野恩賜公園の緑の中を歩くと、ホッとします。
が、道端には、いかにもホームレスと言う人達が寝転んでいたり、
ベンチには、何かベタベタ・イチャイチャしたカップルが座っています。
 
そんな中を通り抜け、やっと到着。
 
イメージ 5
 
上の写真は本館です。
 
今回の特別展は、その奥の平成館で開催されています。
 
館内に入ると正面に大階段!
この風景?いかにも博物館です。
 
展示室に入りますが、ここからは撮影禁止
 
二部構成で、第一部は『武家の伝統』と言うことで細川家の所縁の古文書・甲冑・茶器・衣装などなど。
 
第二部は細川家第16代細川護立氏が収拾したコレクション。
 
ここでは第一部を紹介していきたいです。
 
僕がここで注目したのは、甲冑や茶器や衣装ではなく、古文書や古地図です。
 
殆んど確認されたものがない中で何故か残っていた細川忠興宛の織田信長自筆感状
織田政権時代の細川家が領していた今の長岡京市近辺の表した山城国西岡御料地之図
ガラシャ自筆の和歌短冊、そして明智光秀覚書等などです。
 
イメージ 6


戦国の時代を生きた武将の息遣いが感じられる史料として、明智光秀から細川藤孝(幽斎)とその子、忠興に送られたこの覚書は、見逃すことのできないものです。覚書の日付は6月9日。天正10年(1582)、6月2日未明、本能寺に信長を襲撃して、自害に追い込んだ直後のものです。

「御父子もとゆい御払之由尤無余儀候、一旦、我等も腹立候へ共」と、信長を悼んで藤孝と忠興が剃髪したことに触れるところから書かれています。明智家と細川家とは、周知のように光秀の娘の玉(のち受洗してガラシャ)が忠興に嫁いで姻戚関係を結んでいたため、光秀が信長を討つにあたっては、当然味方してくれるものと細川を頼りにしていたはずです。それが案に相違して、細川父子は信長に弔意を表して剃髪し、援軍も拒絶してしまったのです。剃髪までしたからには父子直接の出馬は期待できません。そこで光秀は、大身の部将を派遣してほしいと懇望してきたのです。味方すれば、摂津国を差し上げるとあり、さらに若狭国も付け加えています。思いもよらなかった光秀の狼狽とともに、本能寺の変後を光秀がどのように構想していたかの手がかりを伝え、謎多い本能寺の変を語るとき、欠かせない重要史料となっています。
 
東京国立博物館HPより


 
特に明智光秀覚書は、本能寺の変後の明智光秀の切迫した心情が垣間見えるもので、
見るだけでも、あの日本史上の大事件に立ち会ったような気がします。
 
他にも、武将としてだけでなく、文化人としても有名だった細川幽斎・細川忠興の趣味のよさが
わかる品々が目を引きます。
 
ふらふらになりながら、じっくりと鑑賞しました。
 
その後、第二部も見て、本館の一室での『戦国大名と細川家』という古文書の特集陳列を見て、
もうダウン
 
博物館をでて来た道をトボトボと宿所の方へ戻ったのですが、その途中で見た公園の案内図をみて、
あの場所へやっぱり行ってみたのでした・・・
 
 
 
1Fを見終わって階段を駆け上がり踊り場から見えたのは・・・・

イメージ 1


柱に忍者が張り付いています。わかるかな?

いかにも伊賀上野城らしい!!

2Fにいくと藤堂氏関係の遺品が・・・でもあまり興味がなくて・・・

3Fへ〜♪

外をみると北〜東〜南と城下町が広がる!!

だけど西は学校のグランドに田んぼが・・・

そこで何となく天井見上げると

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天守閣復興を祝した当時の有名人の色紙が飾られている〜♪
小室翠雲 尾崎行雄 岡田啓介 土田麦僊 
高浜虚子 近衛文麿 富田渓山 佐々木信綱
山本達雄 頼母木桂吉 永井柳太郎 宇垣一成
横山大観 町田忠治 岡崎邦輔 池上秀畝 
下田歌子 清浦奎吾 日下部道寿 若槻礼次郎 
徳川家達 川合玉堂 益田孝 細川護立 田中親美
安達謙蔵 竹越与三郎 松林桂月 松田源治 金子堅太郎
堂本印象 高田早苗 原富太郎 杉渓六橋 大野百錬 
一木喜徳郎 棚橋絢子 南次郎 渡辺千冬 木村武山 
徳富蘇峰 清水六兵衛 永田秀次郎 嘉悦孝子 宮川香山
川崎克

有名な政治家・軍人・文化人が名を連ねています。
その中でもよく知られている人物?の色紙を紹介します。

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『憲政の神様』と言われた尾崎行雄

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16代様と呼ばれた貴族院議長も務めた徳川家達

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大正時代に陸軍大臣として軍縮を進めたがために、後に総理大臣になり損ねた宇垣一成

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この当時は貴族院議員で、その後、総理大臣になった近衛文麿


このほかにも教科書に名前がでてくる横山大観・金子堅太郎・岡田啓介・清浦圭吾・高浜虚子・徳富蘇峰など・・・

さすがに天守閣を復興させた川崎代議士は、どの方面にも顔が広かったようで、
そうでもなけれれば、これだけの色紙は集められなかっただろう・・・

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