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日没も迫る中、ようやく鳥取城内へ〜♪
主要部分は山ろくにあるとは言え、やはり山城ですので、行く手はすべて上り坂。
段差がきつい。
特にお城の石段は、”歩幅”と言うものを全く考慮?していないので、とにかく歩きにくく、そして疲れやすい。
ぶつくさと文句をたれながら、ヘロヘロになりながら、やっと二の丸に到着。
ここには実質上の天守である三階櫓がありました。
三階櫓跡からの眺めです。
眼下には仁風閣、その向こうには鳥取の市街地の広がりを望めます。
人口は約19万人で、奈良市の35万6千人を大きく下回りますが、何故か奈良よりも大都会?
池田の殿様は、この風景をどう見ていたのかとつい思ってしまいます。
それはさておき、二の丸を経て、鳥取城の大きな目玉へ進んでみます。
天球丸です。
それを特徴づけるのが、写真の巻石垣。
もともとの石垣部分を補強する意味合いであとから造られたようですが、一般的にはこんなことはしないので謎。他には例を見ないそうです。
ここで何とかこの日最後のミッション完了。
美しい夕暮れ
この後、方々走り回ってから夕食にありついてから、この日の宿『白兎会館』へ向かったのでした。
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西国の城郭
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詳細
中国・四国・九州の城郭です。訪問の機会が少ないのであまり更新はありません。
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津山城跡・津山まなびの鉄道館・津山駅・松川橋梁・美作河井駅と巡り、いよいよこの日の宿泊地である鳥取市内の白兎会館へ向かいました。
ただその前に翌日だと訪問できないかもと思い、また日暮れまで時間があったので、行ってみたのは・・・・
現在は久松公園となっている鳥取城跡です。
鳥取城は市内の東側にある久松山を中心に築城された山城です。
山頂は”山上の丸”と呼ばれる本丸ですが、実質的な機能はなく?城としての中心は山ろくの二の丸にあったようです。
そのため、そこまで行くと日没までに戻ってこれなくなるので、今回?は二の丸と隣接する天球丸を中心にめぐってみました。
レヴォーグを県庁の”無料”駐車場?にとめて、まずは堀沿いに出ると・・・
三の丸の鳥取西高校前に”吉川経家公像”が甲冑姿で佇んでいました。
この人、秀吉が鳥取城を兵糧攻めした時、城主だった山名氏の家老の要請に応じて毛利氏が派遣した方で、本来ならば開城の責めを負う必要はなかったにも関わらず、責任を感じて切腹した武将です。
彼の心意気というかそれは美談ではありますが、兵糧攻めと言うこともあり、実態は相当悲惨なことになっていたようです。秀吉の人命重視の戦法なんて言われることもありますが、それは自軍の将兵だけのことであって、鳥取城に籠る将兵や逃げ込んだ領民たちのことではなく、しいて言えば、この時代すでに後年のガダルカナルやインパールでの悲惨な出来事と同じ事がここで繰り広げられていたわけです。
この人の良いところは、後年の陸軍の将軍たちと違い、切腹して一切合切の責任を取ったところなのでしょう。だからこうして銅像が立っていると言ってよいのでしょう。
それはさておき、日もかなり傾てきたので先に進みます。
山ろくにある堀は水が抜かれて、
何やら復元工事をしているようです。
大手門からの登城路を復元する工事のようです。
将来的には大手門を含む城門や櫓が復元されるのでしょう。
そのため、この大手から入城することはかなわず。
堀の端っこまでいきます。
入口には鳥取出身の岡野さんと言う方が童謡『故郷』を作曲されたらしく、有名な歌手が歌っているのを聞くことができるようになっています。
僕らが選んだのEXILEのATSUSHIの歌。
意外と胸に響くものがありました。
じっくりと聞き入りたいところでしたが、日没が迫っているので先に進みます。
城内をはいるとまず右手に・・・
撮影は城内傾斜地から
命名は日本海海戦で名をはせた東郷平八郎元帥です。
ここは既に閉館時間となっていたので簡単にスルーしました。
そしてようやくここからが本格的な城内になります。
前置きが長かったので、今宵
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津山観光センター隣にある”櫓”さんで、念願の”津山ホルモンうどん”を味わった後に向かったのは、本来の目的地ではなく・・・・
津山観光センターの裏手にある津山城跡でした。
津山城は織田信長の小姓であった森蘭丸の実弟である森忠政が築城し、森家4代・松平家9代が城主として美作国の主要な地を統治していました。
入口前には初代藩主森忠政像があります。
身体のわりに頭が異様に大きく、美少年と言われた兄・蘭丸とは似てない?ような気がします。
さて入城すると、熊本城のそれほどではないですが、要所要所に桝形虎口あって・・・
おいそれと本丸にたどり着けない様になっています。
息を切らしながら、やっとこさ二の丸へ到着。
見上げるとそこには、津山城跡のシンボル”備中櫓”がそびえています。
ここからまた曲がりくねった道を上り切り、ようやく本丸へ〜♪
備中櫓以外には、トイレ以外は建物がありません?
しかし、あることをすると・・・・
天守閣が〜!!忽然と姿を一瞬だけ現します。
破風を持たない4重5階地下1階の層塔型天守で、雰囲気は島原城天守に近いです。
しかし一瞬だけなので、あっという間に姿は消えます。
ということで、備中櫓に入ります。
備中櫓は本丸内の御殿と一体化したものだったようで、櫓としては珍しく、
内部は畳敷きで、雪隠(トイレ)もあります。
天守閣は幻だったので登閣できませんでしたが、天守台は実物が現存していたので、登ってみました。
手前には備中櫓、向きを変えれば遥か彼方まで広がる城下町を望むことができます。
小高い丘の上にあるので、非常に眺めがよく、南側と東側には川があり、それが外堀の役目もはたしているようです。
この城の城主は、なかなか満足度は高かったのかも?
出だしから快調。
この後、いよいよ当初の目的地へ向かったのでした。
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霧雨の別府湾SAを出発。 時間はまだ12:30を少し過ぎたところ。 出船時間は18:50なので、全然余裕〜♪ もし豊後竹田城跡へいけなかったら、ここへと思って確認しておいたところへ〜! 大分市内の市街地にある豊後府内城跡です。 大分道を大分ICで下りて、一般道を走って、別府湾SAから30分くらいで到着。 周囲には県庁・市役所があると思えば、一方では雑然とした住宅地があるといった 中途半端な場所にありました。 何でこんなところにあるのかと思えるコイン駐車場にクルマを停め、早速探索です。 江戸期の城。大分市荷揚(にあげ)町にあり、明治以降の地名で大分城ともよばれる。別称を荷揚城、白雉(はくち)城ともいう。1597年(慶長2)豊後臼杵(ぶんごうすき)から転じた福原直高(なおたか)によって築かれ、1601年竹中重利(しげとし)により増築された。竹中氏は1634年(寛永11)改易、かわって日根野吉明(ひねのよしあきら)が入ったが、これも除封され、1658年(万治1)松平(大給(おぎゅう))忠昭(ただあき)が2万2000石で入り、10代相継いで幕末に至った。現在、人質西角櫓(ひとじちにしすみやぐら)と宗門櫓が現存し、大手門が復原された。 Yahoo!百科事典より 用水路のような?堀を越え、入城します。 内堀の向こうに二層櫓が見え、堀には犬走があります。 特に犬走は熊本城にはなかったはず・・・どちらかと言えば藤堂高虎流の築城か? 熊本城の後に、ここだとかなり物足りない感じ。 さらに歩いていくと猫が 猫の分際で威嚇してきます。気の強そうな猫です。 少し歩くと 廊下橋にたどり着きます。 でも復元でこれは何となく寂しい。 本丸へ入ります。 天守台に登ってみます。 築城当時は四層の天守閣があったらしいですが、よくある話で1743年に火事で焼けてしまい、 その後は再建されることはないまま、現在に至ったようです。 2万石程度の小大名では、城持ちというのも分不相応なので、天守閣が再建されなかったのも仕方ないです。 天守台からの眺めです。 平城ですから、周囲が市街地化すると眺めは最悪です。 熊本城とは、全く比較になりません。 その昔は、堀の向こう側に海が広がり、船着場などもあったようですから、 雰囲気もずいぶん違ったのでしょう。 天守台からおりると・・・ 某戦国大名の胸像が・・・でも、この人、府内城とは関係ないはずなんですが・・・ 本丸内の御殿があったところも殺風景、何もありません砂利の駐車場。 城門があったのでくぐってみました。 堀端を歩いて駐車場へ戻ります。 向かいは大分県庁?なので、わりときれいにしてあります。 そして、ちょっとした公園にでると、こんな注意書きが・・・ マナーは守らないといけないですね(笑) |
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目玉の本丸御殿を後に、熊本城訪問のクライマックスです。 本丸御殿が公開されてから、天守閣の方は少しばかり陰が薄れましたが、 この天守閣が、鶴屋前の路面電車の走る道から見えると、今も昔も 熊本にやって来た〜♪と。 入口には蛇の目の加藤家家紋と九曜紋の細川家家紋をあしらった垂れ幕が・・・ 入ってみます。 そこには、一口城主の札に囲まれた中に銅像が? 誰?前に来たときにはなかったけど・・・ 谷村計介(たにむらけいすけ)は西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城の命を受け、 城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも逃げ出し、官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた 宮崎県出身の陸軍伍長で、後に自ら進んで田原坂戦に加わり戦死しました。 この話は戦前の修身の教科書に載り、広く国民に親しまれました。 戦前は今の行幸橋際に銅像がありましたが、大戦中に金属供出で撤去されてしまいました。 現在の銅像はそれを惜しんだ熊本ライオンズクラブから、平成10年に熊本市に寄贈されたものです。 現在は天守閣の入口で皆様をお待ちしています 熊本城公式HP 僕が以前訪問したときは、まだ昭和だった・・・当然なかったわけで・・・ 階段があるので登ります。 熊本城全体の模型があります。そして、 天守閣の木組み模型があります。 まずは加藤家時代の資料や展示品が・・・ 本来ならば、多分ここにあったであろうあれは・・・ いろいろ資料や展示品を見たけど、ない!! 清正公が朝鮮出兵のおりに退治したという虎の頭蓋骨 以前はあったと思うんだけど・・・ 仕方ないので、上にあがって細川家時代や西南戦争時の資料や展示品を見学。 これはあんまり関心がなかった・・・ 最上階へ〜♪ 西側には宇土櫓が 南東?には、鶴屋が見えます。 ここからの眺めは大そうなものです。 清正公や細川家時代は、城下町の向こうに畑や田んぼなんかも見えたのでしょうが、 今は福岡・北九州に次いでの九州第3の都市、政令市入りを目指しているだけあって、 ひたすら街が、はるか遠くまで広がっています。 奈良なんかは、規模が全く違います。 田舎に遊びに来たというよりも、僕のほうが田舎から街に遊びに来たという感じです。 これで、今回の目的の大半を達成?しました。 15時間かけてきた甲斐があったと。 時計をみると16:30。 もう熊本城も閉園の時間が迫っていますし、それにホテルのチェックインの時間が・・・ とりあえず城外へでればいいと思い、天守閣からおり、売店でファイルケースとタオルを買い、 三の丸駐車場を目指したのですが、またまた寄り道を・・・・ |








