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気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々
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書庫西国の城郭

中国・四国・九州の城郭です。訪問の機会が少ないのであまり更新はありません。
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小さいけれども、華麗さと格式を併せ持つ天守閣と言われる宇和島城天守閣に、
ついに、やっと、いよいよ登閣です!!

天守台の石段をあがっていくと御殿風の玄関が!!

イメージ 1


よくみると、その上のほうには『竪三引両紋』と言われる
宇和島伊達家の家紋が、でぇ〜んと掲げられています!

玄関内に入り、靴を脱いで入っていきます。

1Fの真ん中付近に、大洲城天守閣にもあった木組の天守模型がありました。

イメージ 2


こちらは、かなり古いものらしく木もくすみ、いい味出したモノになっています。

その木組み模型の出来栄えに感心して、ふと見上げるあったのが

イメージ 3

侯爵 伊達宗城


先日の肖像画QUIZの答えです。

教科書にも載っていて幕末の四賢候と呼ばれる歴史的人物の一人ですが、
やはり10万石からくる家格からか、薩摩大隈77万石の島津斉彬、
越前福井32万石の松平春嶽、土佐高知24万石の山内容堂に比べると地味な感じは否めないです。
それと彼らが幕末の政局にどれほどの影響を与えたのかは、よくわかりませんが、
日本陸軍の祖ともいえる大村益次郎を招聘して宇和島藩の軍制の近代化を図っています。

と眺めながら感心しきりだったのですが、ケータイの時計をみると時間は、13時に近くなってきました。

慌てて階上へ〜♪

三層の天守閣なので、3Fまであがるのには時間はかかりません。

いつものごとく、窓から城下町を眺めてみました。

イメージ 4


街の向こうに海が見えますが、入り組んだリアス式海岸の内側なので、
外海がみえるというわけではないです。

入口で貰ったパンフをみると、昔は海がかなり入り組んできていて、
城山のふもと辺りが船着場になっていたようで、海を取り込んだ縄張で
藤堂高虎が最も得意とした縄張みたいです。

イメージ 5


そして天守閣内を、見渡してみました。

やっぱり現存天守閣のひとつなので、何もかもが古い、でもそれがいい味を出しています。

宇和島って、なかなかいいな〜♪

しかし、ケータイの時計をみると時間はさらに進んでいました。

次の目的地に行くには、やばいなと・・・

他にも見たいところあったのですが、次の目的地にも行きたいし、
奈良へ当日中に帰宅しないといけないし・・・・

ということで、髪を引かれる思いで宇和島を後にすることにしたのでした・・・


宇和島城天守閣

さあ、長い長い石段を登ってペットボトルの水を飲むために立ち止まり、
何気なく振り返ると、新緑の向こうに・・・

イメージ 1


宇和島城 天守閣


大きいとはいえないけども、風格のある天守閣。

これを見て、ふと思ったのです。

思えば遠くへ来たもんだぁ〜♪


地図をみると、厳密ではないけれども宇和島というのは、
四国の西端の都市。
海の向こうは九州なわけで、奈良からはずいぶん離れた所にいるんだと。

そんな気持ちを持ちながら、さらに進んでいきます。

イメージ 2


本丸への石段です。
昔はそこに櫛形門と言われる高麗門があったようです。

そして、それをくぐると

イメージ 3


天守閣が小さいながらも、その威容を誇った形で、そこに建っていました。

さてさて、ここまで宇和島城ついて紹介していなかったので〜♪


概要

縄張りは梯郭式平山城である。藤堂高虎により現在の五角形の縄張りの城がつくられた。東側に堀、西側半分が海により守られていたが、現在は堀も海も埋め立てられている。天守(国の重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存する。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。


歴史・沿革

平安時代〜安土桃山時代

天慶4年(941年)警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたとされる。 
嘉禎2年(1236年)西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、砦程度の城を置く。当時は丸串城と呼ばれていた。 
天文15年(1546年)家藤監物が城主となる。大友氏、長宗我部氏等の侵攻に耐えた。 
天正3年(1575年)家藤監物が去り、西園寺宣久の居城となる。 
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代となる。 
天正15年(1587年)隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となった。 
文禄4年(1595年)藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城。 
慶長元年(1596年)高虎、大改修に着手。 
慶長6年(1601年)現在の姿の城が完成。宇和島城と名付けられる。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(後の今治市)に移封となっていたが、この年、城の完成を見て国府に移った。 

江戸時代

慶長13年(1608年)富田信高が伊勢国より転封し入城。 
慶長18年(1613年)信高、改易となる。宇和郡は徳川幕府直轄となる。藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。 
慶長19年(1614年)伊達政宗の長男(庶子のため嫡子ではない)伊達秀宗が10万石で入封。 
元和元年(1615年)秀宗、入城。 
寛文2年(1662年)2代藩主・宗利、老朽化した城の改修に着手。 
寛文11年(1671年)改修竣工。 

近現代

明治4年(1871年)明治政府により城は兵部省に帰属。大阪鎮台の所管となる。 
明治33年(1900年)頃から櫓・城門などが解体される。 
昭和9年(1934年)天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。 
昭和12年(1937年)国の史跡に指定される。 
昭和20年(1945年)太平洋戦争時、空襲により大手門焼失。 
昭和24年(1949年)伊達家、天守と城山の大半を宇和島市に寄贈。市の管理下に置かれる。 
昭和25年(1950年)文化財保護法の施行により天守が重要文化財指定となる。 
昭和35年 - 昭和37年(1960年 - 1962年)天守解体修理。 
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(83番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。 

天守

独立式層塔型三重三階天守。現存十二天守と呼ばれるものの内の一つ、国の重要文化財に指定されている。

当初、藤堂高虎による望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に伊達宗利によって行われた改修によって現在の形に改められたという。全体的に清楚な印象があるため、日本国内の天守の中でも人気がある。

以上ウィキペディアより

その歴史は平安時代まで遡るようですが、本格的な築城は安土桃山時代に
築城の名手である藤堂高虎が入城してからです。

彼の在城はわずか5年ほどでしたが、現在の宇和島城は、この頃にほぼ完成。

1614年、伊達政宗の庶子である秀宗が宇和島10万石の領主として入城。

以後、幕末まで伊達氏が宇和島を中心とする南予地域を領することに!

奥州の伊達氏というと場違い?な感じもしますが・・・



それはそうとして、いよいよ天守閣に登閣することに!


開くトラックバック(1)

城山を登る

やっとのことで到着した某市。

駐車場にクルマを停め、早速登城します。

しかし、大洲から1時間余りの運転と大洲城訪問で体力は消耗しきっている上に、
この日は初夏のような暑さ。

時間は正午になろうとしていて、ここでゆっくりしているとその日のうちに奈良へは帰れない。

いつもの事ながら、無茶ハードな計画をたててしまったと・・・あ〜♪

Pを出るとすぐ城門のような門があります。

イメージ 1


でもよく見ると長屋門で、城門というには相応しくない?

気にはなったけど、城門と思い込んで、くぐりました。

(調べてみると家老屋敷の長屋門を移築したものでした)

城内?に入ると

イメージ 2


いきなり坂道です。

一応石段になっているけど、実はこちらのほうが登りにくいです。

体力は消耗している上に、腹は減ってきたし、テンションが下がってきます。

リックに入れておいたペットボトルの水を飲んで、何とか気力を維持?しつつ、
石段を登ります。
しばらくすると、道は二手に分かれ、一方は天守閣へ、もう一方は郷土資料館へ〜♪

何かあるんだろうと思い、まずは郷土資料館へ〜♪

幕末に建てられた武器庫を、移築して郷土資料館として利用しているらしい。

中は、このお城の関係の資料というよりも、この土地の民俗資料が多く、
農機具とか祭りの使う道具とかで、僕としてはあまり興味はなかったけど、
家紋入りの品々をみると、ここがやはりあの大名家の領地であったと
改めて認識したのでした。

時間がないので、郷土資料館はさらっと流し、また坂道へ戻ります。

天守閣のある本丸までは、まだ距離があるようで、さらに登ります。

イメージ 3


↑の石段を登り、途中で疲れてまたペットボトルの水を飲み、
何となく振り返ると、そこには・・・・

大洲城天守閣その3

いよいよ天守閣内の階段を登っていきます。

ここの階段もご多分に漏れずというか傾斜がかなりきついですが、
幅が広いので、登りにくいという感じはしません。

イメージ 1

まずは2階です!

イメージ 2

さらに登って3階

イメージ 3

そして最上階の4階です〜♪

この天守閣は高覧がないので、窓から外を眺めてみました。
イメージ 4

眺めはこんな感じです。

手前に外堀として利用されていた肱川、その向こうに城下町が見えます。
肱川では、地元の高校生?がカヌーを漕いでいて、奈良近辺では見れない風景。
のどかな時間が流れている、そんな風景です。

そして次は天守閣をおり、高欄櫓へ〜♪
こちらは昔からある櫓で重文です。

イメージ 5


柱や梁はいかにも重文級の古さを感じさせます。

ここへきてふと思い出しました。

この天守閣の造りがどこかの天守閣と似てることに・・・・

その天守閣にもこんな感じの櫓が天守閣に連結されてました。

外観も同じ黒板張りだし・・・・

ここから見る月見などはよさそうですね。

そうこうしているうちに時間が来ました。

あっという間の大洲城でした。

次は・・・・・南予のあの城を目指しますが、その日のあいだに奈良へ帰れるのか・・・

大洲城天守閣その2

御殿跡の二の丸から、なだらかな坂道を登っていくとやっと本丸・天守曲輪に到着。

イメージ 1


そこはきれいに整備されていて、木々も伐採されているので城下を見渡すことができ、
そこからでも、大洲城主になった気分を味わえます。

さてさて、そんな城主気分を満喫できる大洲城と天守閣ですが、
ここで簡単にその歴史と特徴について記したいと思います。

大洲城の歴史

1331年 宇都宮氏により地蔵ヶ岳に築城

1585年 秀吉の四国平定により伊予国を与えられた小早川隆景支配下の支城となる。

1587年 小早川氏の転封により、戸田勝隆が宇和郡・喜多郡ほか16万石に封ぜられて入城。

1595年 藤堂高虎が伊予板島7万石の領主とと豊臣氏蔵入地6万6千石の代官として、
      居城とする。

1609年 藤堂氏が伊勢伊賀へ転封となり、脇坂安治が5万3千石で入城。

1617年 脇坂氏が信濃飯田へ転封となり、加藤貞泰が米子より転封されて、
      以後加藤氏が明治まで大洲6万石を治める。

1888年 天守閣が解体取壊しとなる。

2002年 天守閣復元工事起工

2004年 天守閣復元工事完了


こうやってみると、安土桃山〜江戸初期までは頻繁に城主が交代しています。

しかし、城主が交代するたびに大洲城主が治める領地は少なくなってきています。

山間の盆地にありながらも、松山と南予の宇和島を結ぶ要地だったのですが、
戦国乱世も遠ざかる中で、だんだん戦略的意味合いが無くなったのか、
大洲はあまり重視されなくなってきたようです。


さて歴史はこれくらいで、天守閣に登閣することに

イメージ 2


入ると玄関口には天守雛形が展示されています。

こういった天守雛形が大洲藩の中野家に残っていて、
それが基礎に大洲城天守閣はかなり正確に復元できたみたいです。
さすがに基礎だけではわからない柱や梁の位置が、雛形によって明らかだったことは、
復元工事に2年余りすんだ要因では?

さらに玄関口から左へ〜♪

天守閣の1Fです。

イメージ 3


壁には大洲城天守閣の特徴と他の天守閣との比較が、

イメージ 4


中央部は珍しい吹き抜けになっていて天守閣作事の模型など展示されてました。

では2Fより上は、どうなっているのか?

登ってみることに・・・・・

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